レンの家
地平線に沈む夕日。齢二桁にも満たないであろう小さな子ども達が、バイバイ、またねー、と別れを告げて散り散りになって行く。そんな何時もの光景を尻目に、小走りで駆け抜けていく1人の少女がいた。少女の長く伸びた人影は、ある一軒家の前で停止する。
ピンポーン
インターホンを鳴らして応答が来るまでの間に、乱れた呼吸を整える少女。歳は10代半ばと言った所。背中まで垂れたポニーテールと上下ジャージのその姿は、スポーティ過ぎると言って差し支え無い。
「はい」
「今晩わ。ミユキです」
家人と少女がそれだけ交わすと、どうぞーの二言目と共に、少女の手によってあっさり扉が開かれる。留守ではないのでまだ良いが、鍵は掛かっていなかった。
「お邪魔しまーす」
ここまでのやり取りから察するに、少女はこの家の住人では無い様なのだが、少女は玄関にて何のためらいも無く靴を脱ぎ散らかし、脇目もふらずある部屋に突入した。人は見かけによらないという言葉があるが、この少女は見かけ通り活発な性格をしている事が伺える。
「レンのベッドにイーン!」
ボフッ
部屋に入るなりベッドにダイブインしたミユキ。彼女はこの部屋にベッドが有る事も把握している。その部屋は紛れも無く誰かの個室なのだろう。 奇妙なのは、そこが半ば化学実験室の体を成している点だ。
「やあミユキ。今日は遅かったな」
礼儀作法の欠片も無い客人に対して、机に向かい背を向けたままあっさりと返す部屋の主。こちらもミユキと同年代の少女で、上半身を覆い尽くさんばかりのロングヘアを先端で括り、学生服の上から白衣をだらし無く羽織っている。スポーティなミユキとは大違いのインドアな風貌だ。
「あー、疲れた…もうイヤだ…」
「ミユキが疲れたなどとは珍しい。余程部活がハードだったのだろうな」
ベッドにうつ伏せのまま会話を切り出すミユキ。布団に埋まった頭からくもぐった声が漏れる。インドア少女もまた、机に向かったままである。会話は続く。
「レン違う。これ心労だから」
「心労?フフッ」
「あー!笑う!?」
ミユキの発言が相当に可笑しかったらしく、インドア少女レンは何かから離した手を口元に当てて笑いを堪えた。笑われた事に腹を立てたミユキは両腕を突いて上体を起こし、レンを睨み付ける。
「ああ笑うさ。ミユキが心労等と言い出したものだから、笑わずには居られなかった。それに、笑いには健康効果が有るしな」
「健康言うなら外出ろ!」
「うん?誰も健康第一とは言ってないんだが…それに学校にはしっかり通っている。ただ自由時間を己の好きな様に満喫しているだけだ」
「はいはい」
喧嘩するほど仲が良いとでも表すべきか。どうもこの2人にとっては、これが通常運行の様だ。レンは何かを弄るのを再開し、ミユキは枕をポスポスし出した。勿論レンの使う枕である。しばらくの沈黙の後、レンが会話を切り出した。
「それで?その心労について興味が有るのだが。ミユキもそれを話したくて来たんじゃないのか?」
「まず興味っての止めてくんない?本気で悩んでんの」
「悪い悪い。撤回するよ」
ミユキはベッドに腰掛けて、本格的な対話に臨む姿勢を見せた。ミユキをからかい気味だったレンも流石に反省したらしく、回転椅子を回してミユキと対面する。
「浮気されたかも知んない…」
「ほう」
「ダイチが知らない子と歩いてんの見ちゃってさ。昨日。そんなキャラじゃ無かったのに」
「確定なのか?」
「分かんない。でも、聞けない…」
ダイチとは恐らく彼氏の名であろう。うつむくミユキ。膝の上の握られた拳が握力を持て余し、僅かに震えるのを、レンは見逃していなかった。それは、砕けた仲のレンを以って、これまで心労とは無縁とされたミユキが初めて見せる姿だった。
「ねえレン。あんたいっつも実験やってんじゃん。何か無い?」
「…友人を虎えもん扱いするのは如何なものか、と言いたい所だが、私にとってはむしろ賛美歌の一節とも受け取れるな」
「今あんたの話して無いから。てかサンビカって何?」
「言い換えるなら…そうだな、どんと来い、か?」
言葉の意味、会話の意味が繋がった時、ミユキの表情に希望の光が差し込んだ。どんと来い。どんと来い。持つべきものは友人である。
「やっぱ何かあんの!?」
「ああ、偶然の産物なのだが、いよいよこいつが日の目を浴びる時が来た様だな…いや、実際に太陽光に当たると良くないか…」
「マジ?マジで何かあんの?」
ミユキは人だかりの中心を覗こうとする通行人よろしく、レンの言う何かを一刻も早く知りたくて仕方が無い。恋に生きる乙女の必死さと言い、傍目から見てたわ言としか思えない発言を迷い無く信じる辺り、ミユキの純粋さ、そしてそれを信じさせるレンの科学力が、2人の様子から伺える。
「ミユキ、これがマジなんだ。いよいよ以って私も虎えもんだな」
「虎ミちゃんじゃね?女だし」
「成る程、これは一本取られた」
他愛の無いやり取りをしつつ、話題の何かを探しているのだろう、レンは机の引き出しを漁っている。紙の挟まったファイル、毒々しい色の液体が入った瓶、虫が何かの標本、謎の形状の金属具…隙間からちらつくそのいずれも、友人であるミユキには見慣れた代物だった。決して見たくて見ている訳では無いのだが。ミユキが待っていると、不意にレンが硬直した。
「は!」
「どしたの?」
「おいミユキ。女だからと言って虎えもんでは無く虎ミちゃんと呼ぶのは止めてくれ。あっちは欠陥品しか取り扱っていないじゃないか」
「どっちでも良いじゃん」
ミユキはどっちでも良かったのだが、10代半ばにしてその道を歩まんとしているレンにとっては虎えもんと虎ミちゃんには大きな差があるらしい。ミユキに向けられたレンの真剣な眼差しが、それを存分に物語っていた。
「良くない。以降は虎えもんで頼む」
「そこまで言う?」
「言う。これは私のこけんに関わる要項だ。何ならメモを取って置いてくれても良いぞ」
「あっはは、レンってやっぱ変わってるよねー」
「それは褒め言葉として受け取って置こう。さて、これがくだんの何かだ」
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レンはそう言うと、ミユキに何かを手渡した。透明な小包装の中に白い粉末。それは一見するとただの粉薬である。ミユキはキョトンとしている。彼氏の不倫疑惑を確かめたくて相談した筈だが、これを飲んで恋の病自体を直せとでも言いたいのだろうか?
「何これ」
「嘘発見菌だ」
「嘘発見器?」
「違う。うつわでは無くきん、納豆菌なんかの菌の方だ」
「はあ…」
「この粉末を甘みのある飲み物に混ぜて飲むと、菌が糖分で活性化し代謝物が生じる。その代謝物が腸で吸収され、脳の」
「ごめん。正直言ってあたし馬鹿だから。簡単にお願い」
ミユキの言うことも最もなのだが、ここまで表情の変化に乏しかったレンが少し不満の色を見せた。だがそれも何時もの事なのだろう。レンは直ぐに再開する。
「ジュース類にこれを混ぜて飲み干してくれ。そうすると数十秒後から約10分の間、聞いた言葉が嘘かどうかが分かる様になる」
「へえ」
「効果は私自身で既に検証済みだが、一応試しておくか?」
「うん」
ミユキの返事を聞いたレンは部屋を出た。ミユキが粉薬を軽く振ったり凝視したりしていると、直ぐにレンが戻ってきた。手には白い陶器のコップが握られている。
「今回は止むを得ず炭酸飲料で飲んでもらう。効果自体に支障は無いが、炭酸だと妙に泡立って目立つから、炭酸以外をお勧めしておく」
言い終わったレンは、ミユキにコップとスプーンを手渡した。ミユキが嘘発見菌をコップに入れると、確かにシュワァと泡が立っている。
「で、これを混ぜて…飲むと」
ミユキはコップに口を付けた。味は普通に飲むのと変わらないが、コップ一杯の炭酸飲料を一気に飲み干すのには少々時間がかかる。
「んく…ぷはぁ」
「今更だが、これについては口外しないでくれ。私はまだ目立ちたくは無いんだ。今はな」
「今はって、自信満々じゃん」
「さて…嘘発見菌の検証の為、これからしばらくの間、私は適当に事実と嘘を混ぜて話すから、そのつもりでな」
「な、なんか緊張するんだけど」
未知の体験を前にして、ミユキは素直に心境を語ったが、レンは事も無げに机に向き直り何かの実験を再開し、通常運行に戻った。
「とは言ったものの、下らない事に想像力を働かせるのも私らしく無いな。もっと単純な話題にするか」
「ちょ!下らなくない!あたしピンチだから」
「そうだったな。所でミユキ、今朝は何を食べた?」
少なくともここまでは、レンの発言に対して違和感等は感じられない。これは嘘では無いと言うことだろうか?
「えっとね、シャケおにぎり?」
「お前のご飯派振りは相変わらずだな。私は菓子パンだ。中身は粒あん」
嘘。
「あ!今嘘付いた!」
普通、嘘を見破られると人は同様するのが相場だが、レンの顔には不敵な微笑みが浮かんでいる。自分の発明の威力が証明されたのが嬉しかったのだろう。
「菓子パンは嘘じゃないけど粒あんじゃない!」
「フフッ。正しくその通り。実はあんこですら無い」
「…嘘ー!」
「おい、あんこ以外なのは嘘では無いぞ。馬鹿だから異常反応が出たか?」
「あ、ごめん。今のはびっくりしてつい」
レンの化学力を信じていたミユキだったが、実際に体験するとその効果に驚愕し、レンの発言に対してでは無く嘘発見菌の効力に、反射的な言葉が漏れた。ミユキは驚愕の余り、レンの発言に自分への悪口が含まれていた事に気付いていない。そしてその馬鹿発言はレンの本心らしい。今のミユキには、嘘なら嘘と分かっている。
「答えはクリームパンだ」
嘘。
「それも嘘でしょ!」
「イチゴジャム」
嘘。
「そもそもあんたそんな甘党じゃないし」
「もうこの位でいいか?正解はタマゴパンだ。どうだ、嘘ではないだろう?」
「ホントだ!凄ーい!これなら浮気も分かる!」
「ようやく本題に戻って来れたな。後はデートでも何でもして、聞きたい事を聞けば良い。私は何度か試しているが、今の所副作用や後遺症は出ていない。今の所はな」
「う…そう言う言い方されると怯んじゃう」
「確かにそう言う事も無いとは言い切れない。人間の体質は千差万別だからな。見返り等は要らないし、無理にとも言わない。最も、既に一度飲んでしまっているから、余り気にしても仕方無いだろうが」
「うん…あたしやるよ…逃げらんないから」
「ではもう一包渡しておく。そこそこ貴重な物だから、今回限りだぞ」
レンは嘘発見菌を確かに一包、ミユキに手渡した。ミユキは来たるべきその時を想像し、決意を固め、嘘発見菌をギュッと強く握った。
「おいおい、保管はなるべく冷暗所で頼むぞ」
「分かった。レンありがと。今日はもう帰るね」
「健闘を祈る」
素っ気無いやり取りを最後にして、ミユキはレンの部屋を出た。ミユキが玄関で靴を履いている最中、レンの母親がミユキに声をかけた。
「ミユキちゃんもう帰るの?もっと居ても良いけど」
「今日はもういいです」
「そう。ミユキちゃんだけがレンの友達だからね。何時もありがとうね」
「あ、はい。お邪魔しましたー」
バタン
「あれは嘘じゃないんだ…」
嘘発見菌の効果時間が残っていたせいで、余り快く無い情報まで知ってしまったミユキ。ミユキとレンは長い付き合いなので、分かってはいたのだが。帰り道、ミユキは極力人の少ない道を選んだ。