100年あまり
たったの。
それまで日本に小説はなかった。
知ってのとおり、江戸時代以前は和紙を糸で閉じたあのタイプがソレ。
読み本とか赤本とか、人情ものとか世話物とか。
呼ばれ方に様々種類はあるけれど、書物といえばそれで、
人称、視点のルールも異なれば、
今に通ずる小説なんて存在しなかった。
そもそも言文一致ですらないし。
じゃ、小説はどこから来たかといえば遥か海の向こうから。
「小説」に関する形式全ては、舶来モノだ。
ご存じかとは思うけれど。
だから初めて目にして心惹かれたかの文豪は、極めんと本場に留学した。経て小説ってこういうものでっせ、と提示されたものを今もなおオイラたちは「小説とはこういうもだ」とアレンジ加え繰り返してる。
でもほんとに小説って、そうなのか? もうちょいうがって悪く言えば、もう百年以上経っているのにパクってきたそのままだったらどうよ? それは、これが「日本の小説です」と言えて通じるモノ足り得るのか? とかなんとか。
本場の歴史は数百年。
比べたらまだまだひよっこかもしれない日本の小説は、だから模索中なのだろうと思ってる。なのに「こうあるべき」なんて、がんじがらめになっていたら、ちょっともったいないかも、と。
その分、理解はされやすいけれど。
理解されるということは、既存でもあるという事実。
たまには、まっさらなものも。
なんてことを高橋源一郎さんの著書から感じたので、書いてみた。