表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

彼の追憶

作者: 木立 皐月

森の奥の静かな場所。僕より少し年上の彼は、それにしても落ち着いた雰囲気をもつ不思議な人だった。彼はいつもベッドの上にいた。僕は数ヶ月に1度彼を訪ねて、様々な話を聞く。今日もまた彼のもとを訪ねると、初めて“彼について”ゆっくりと話をしてくれた。



ほんの他愛のない話なんですよ。私が幼かった頃の、まだ未熟だった頃の、愚かな話なんです。少しだけ、耳を傾けてやって頂けますか?―――そうですね、どのあたりからがいいかな。




遠い日の風景を追うように目を細め視線を窓の外へ移しながら彼はそう言った。それが微笑ましいものなのか、忌々しいものなのか、表情からは読み取ることができなかった。ただ、いつもと同じ穏やかな表情だった。




あの頃私は14、5歳、ちょうど思春期を迎えた頃でしょうか。体が小さくて同級生は皆たくましく見えたものです。そんな自分に劣等感を持ってもいました。まあ、これはよくある話です。加えて内向的な性格でしたから、友人は多いとは言えませんでした。けれどその少ない友人とくだらない話ばかりして小さく笑い合う、そんな日々に私は満足していました。

少ない友人、私には2人仲のいい友人がいました。1人は体の大きい、とても心優しい少年でした。歳にしては落ち着きがあってよく周りが見えていて、外見も相まって一緒にいると兄弟に間違われることも度々でした。もう1人は私と同じく体の小さい華奢な少年でした。彼は体に似合わず――と言ったら怒られてしまうかもしれませんが――とても好戦的で勝気な少年でした。私とは正反対の性格です。大抵くだらない話題や提案を持ちかけてくるのは彼でした。私達はくだらないと馬鹿にしながらも最後には巻き込まれてしまうというのがお決まりでした。


慌しい夏が過ぎようとしていたころ、また彼が私達に悪戯っぽい口調で話を持ちかけてきたのです。夏をまだ終わらせたくはないだろ、と。

彼が提案したのはつまり家出でした。もうすぐ終わってしまう夏。楽しかった夏。それが過ぎ去ってしまうことからの逃避。私達にはとても魅力的なものだったのです。詳細な計画はありませんでした。幼い少年が考えることです、実に単純で、そして現実性のない内容ばかり3人で額を寄せるようにして話したのを覚えています。或いは、その行為だけで一種の満足感を得ていたのかもしれません。とても楽しい時間でした。気分を高揚させて、自由になったら、本当に夏が終わらなかったら、どうする?目を輝かせて何度も語り合いました。

有り得ないような計画もたくさん話して、最終的には海に行こうということに落ち着きました。子供が考える、短絡的な夏のイメージからです。海に行こう。海に行って夕陽を見ようか。長い長い浜辺を歩きながら水平線に沈んでいく夕陽を見て、辺りが暗くなってしまったら寝転がって星を眺めよう。星を眺めながらたくさんのことを語って、夜通し語り尽くして、そしたらまた地平線から昇る朝日を迎えよう。僕たちだけの朝日だ。自由の象徴だよ。家出の計画を持ち出した彼の言葉でした。なんだかくすぐったかったけれど、そんなことができたらどれだけ素晴らしいだろうかと、私たちは心を弾ませました。


けれど、家出の計画を立ち上げた頃から、私は不思議な夢を繰り返し見るようになりました。

そこは海でした。見たこともないような綺麗な海です。波の音が耳に心地よかったのをまだ鮮明に覚えています。私は浜辺にうちあげられていた流木に腰掛けて、何をするでもなく少し離れたところで寄ってはかえす波を見ている、ただそれだけの夢です。毎晩同じ夢を見ました。…いいえ、同じではありませんでしたね。変化に気付き始めたのはその夢を見始めて暫く経った頃です。心なしか、波打ち際がこちらへ近づいてきている気がしたのです。腰掛けていたのはいつもの流木の上でしたから、私の位置は変わりようもありませんでした。日に日に、僅かではありましたが、波打ち際はこちらへと近づいてきます。だからと言って、特に気にかけることもありませんでした。ただの、夢なのだから。

打ち寄せた波が、ちょうど私のつま先へ触れるようになった頃です。私たちの家出の計画もいよいよ実行へ移そうかと、そんな時でした。波の音が、いつまでも私に着いてくるのです。目が覚めてからも、ずっと。すぐそこに浜辺があるかのように鮮明に。同じ夢を見すぎたのだと思いました。そのうちあの夢も見なくなって、この音だってすぐに消えてしまうと。そう思っていなければ得体の知れない恐怖に飲み込まれそうでした。心地よかったはずのその波の音が、私にはもう無機質でそれでいてどこか狂気じみたものにしか聞こえなくなっていたのです。


計画実行の日になりました。親が起きるよりもずっと早くに起きて家を出て、少し遠くの海へ電車で行く計画でした。夢の中では、既に波が私の脛まで打ちつけるようになっていました。ですが、目を覚ますと、今までずっと聞こえていた波の音が消えていたのです。心底安心しました。これから海へ行くのに、あの狂気の音をずっと聞いていなければいけないのか。そのような、子供ながらに絶望にも似た感情を抱いていたからです。計画通り、事前に用意しておいた荷物を抱えてそっと窓から家を出ました。音を立てないように、音を立てないように。細心の注意を払って、家の前の通りまで出ると、もうこちらのものです。集合場所である駅まで全速力で走りました。あれもこれもと詰め込んだリュックが上下に大きく揺れました。少し減らせばよかったと内心後悔しながら、それでもスピードを落とすことなく走りました。


駅に着くと、既に2人は改札の前で私の到着を待っていました。2人とも、私と同じように少し大きくなりすぎたリュックを背負っていました。海の近くまで行く、少し高めの切符を買って電車に乗り込むと、朝が早い為でしょうか、その車両にはほとんど人がいませんでした。広く空いた座席の中央辺りに、3人でかたまって座りました。会話はありませんでした。時折触れる肩から、期待と、それと同じだけの不安も伝わってくるようで、ふと両親の声を思い出していました。


目的の駅に着くと、狭い世界に住んでいた私たちにとってそこは右も左も分からない別の世界でした。今思うと、小さな何の変哲もない港町だった筈です。でも子供の私たちにはすべてが新鮮だったのです。無人の改札を不器用に抜けて、駅前のベンチでお喋りをする住民に海への道を聞きました。体の大きな彼はこういうことで器用でした。愛想よく近付いていき、少しお喋りをしながら道を尋ねてお菓子を手に持って帰って来るのです。僕ら2人がそんな彼を讃えると、ご近所さんとよくお喋りするんだ、慣れだよ。と貰ったお菓子を僕らに渡しながら言いました。なんだか彼が大人に見えて、お菓子を受け取る自分の手が小さく小さく思えたものです。

教えられた道をせかせかと歩きます。子供の歩幅は小さくて、すぐ着くよと言われた筈の海岸へ到着するまでは予想より時間がかかってしまいました。波の音が聞こえます。海が近付いてきたからでしょう。少しだけ夢を思い出しました。四六時中ついてきていた波の音を思い出しました。僅かに歩を緩めると、波の音に気が付いた他の2人が嬉しそうに顔を見合わせて走り出します。私も遅れて彼らについていきました。

民家の並びから出ると目の前はすぐに浜辺でした。初めて海を見ました。2人もそうだったのでしょう。海だ、海だな、とそれまで忙しなく動かしていた足を思わず止めて会話にもならない言葉を交わします。思い出したように体の小さい彼が1番最初に走り出すと、負けるもんかと追いかけました。彼らは堤防の下へ降りる階段を何段もとばして砂浜に着地します。私も負けじと少し高い位置から砂浜に着地しました。


彼らは勢いそのままに波打ち際へと走っていきます。楽しそうな彼らの笑い声が曇って霞んで聞こえなくなりました。うるさいほどに聞こえていたはずの波の音も。手足を動かしてみようとしても何かがまとわりついたように自由に動かすことができませんでした。彼らに言葉を投げかけようとしても、言葉にもならないくぐもった塊が口から出るだけです。呼吸ができなくなっていました。私はパニックになって必死になってもがきました。いや、もがこうとしましたが手足はやはり自由には動きません。だんだんと苦しくなっていきます。ふわふわと、体の感覚がなくなっていく中で自分が膝をついたことだけを辛うじて理解しました。失せていく視界のなかで、私に気が付いて何かを叫んでいる2人と、浜辺に横たわる流木を微かに認識していました。あぁ、ここは。意識が沈んでいきます。夢の中で、波の音を聞いていました。




穏やかな口調だった。それっきり、彼は話すことをやめてしまった。僕も、深く聞くことはしなかった。

「外は随分冷えそうだ。」

そうですね、と窓に目を向ける。僅かに残る枯葉がはらはらと風に吹かれて落ちていた。冬の音が聞こえる。

お身体に気を付けて。コートを羽織っていると、後ろからそう聞こえた。えぇ、貴方も。振り返って言葉を返す。こちらを見つめる深い色の瞳に、先程の話を思い出す。

「……海はまだ聞こえますか。」

無意識に零した言葉。言ってからハッとした。

「…お身体に、気を付けて。」

窓から射す西日が、彼を背後から包んでいる。光に眩む視界に耐えてとらえた彼は困ったように微笑んでいた。えぇ、貴方も。再びそう返答する。伏せられた瞼で、もう瞳の色は見えなかった。

ドアに手をかけて後ろを振り向くと、彼は窓の外に視線を移していた。からからと、乾いた音が僕の耳に届く。彼の耳には、或いはーーー。そんな邪推を振り払って、僕は部屋を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ