心の傷は、受けた奴しか覚えていない
数年前、携帯のSNSを通じて、中学時代の部活の同級生と再会した。私も、まさか数多あるサイトで、十数年会っていなかった同級生とサイト上で再会するなどとは思っていなかった。その再会した友人Yを通じて、ほかのメンバーにも連絡が取れ、当時の同級生4人で小さな同窓会が催された。
中学を卒業してから、ほぼ会っていなかったので、部活の話や近況に華が咲いた。
そのとき、場も和んでいたこともあって、勇気を振り絞って、ずっと心に秘めていたことを聞いてみた。
「ねえ、部活の顧問にされた事で、私が教育委員会に訴えようとしたこと覚えてる? 」
「いいや」
彼女らはいっせいに首を振った。現実、そんなものだろう。私としては、母親と市の教育委員会に訴えようとまでしていたのだが、それらを阻止したのは、ここにいる彼女たちだ。
頭の中が沸騰しそうになるのを抑えて、もうひとつたずねた。
「じゃあ、それを顧問いなくなったら部活成り立たなくなるからやめてっていったのは覚えてない? 」
それを聞いた彼女らは一斉に驚いた表情を浮かべ、「そんなことを言った覚えはない」と言った。
言った本人は覚えてないが、こちらは今でも忘れられない傷だ。
その後、謝ってくれたし、十数年のしこりは少しとれたものの、言った本人が全く覚えていなかったことにかなり残念な気持ちにもさせられた。
私は、幼少から小児喘息やアレルギー体質が酷いせいで、体育の成績おろか、学年全員で行われるマラソン大会では、いつも最下位という有様だった。運動会や遠足を発作や高熱で何度休んだか、回数すら覚えていない。外で遊ぶこともあるものの、当然家にいることが多かった。
家庭の経済事情もそんなに裕福ではなかったので、特に低学年のころは、図書館の本を借りて乱読したり、テレビを見ることが主な娯楽だった。
そんな私は、友人や人と交わりたいが、その術を知らない子供だった。友人を作りたいが、どう接していいのかわからない。病弱なお蔭で、ガリガリで身長も小柄だった私は、いじめの標的にされた。体操服を隠されたり、学校帰りに家の近くまで集団で追いかけられたことも一度や二度ではない。
今覚えば、私は同年代の子供や人の気持ちを察することが、極めて下手な人間だったのだ。ただ、その頃は何故いじめの標的にされるのか理解できず、童話を読んだり空想することを覚えた。これが、私が創作するきっかけだったようにも思う。
今なら、それはポジティブに考えられるようになったから、文章に親しむきっかけになったと胸を張れるが、あの頃は空想や物語の世界に逃げることが、唯一の楽しみだった。
そんな私だったが、中学生になって病状が落ち着いてきた。その学校は、母の母校でもあったので、母が入っていた水泳部に入るつもりだったが、廃部になっていた。その次に、私が魅力的に感じたスポーツが剣道だった。当時流れていたテレビコマーシャルで剣道の面を取った女性の爽やかな表情に憧れ、剣道部に入部することになった。
しかし、当時先輩は2人しかおらず、一緒に入った3人の同級生は皆道場に通う経験者だった。その先輩は、中学からはじめた上に、お世辞にも上手くもなければ、練習熱心でもなかったので、私は同級生の友人が通う剣道の道場に週2回通うことになった。
だが、入部したての頃、私は致命的なミスを犯してしまう。勝気な先輩に「そんなこと言わないで下さい」というのを「ほざかないで下さい」と言ってしまったのだ。それから、先輩たちが私に対する風あたりがきつくなった。
しかし、元はといえば自分が蒔いてしまった原因であったことも自覚していたし、何より今まで短距離走も息が上がってへとへとになっていた自分が、剣道の練習など出来るとも思っていなかったので、あまり気にはしていなかった。
当時の剣道部の顧問のA先生は、初心者で少し気弱な先生であったものの、私が通う道場の先生に基本を習うなど、先生なりに努力されていた。
当時、剣道部には、冬休みに寒稽古という朝5時半から開始する稽古があり、正直きつかったが、滅多に見れない暗い校舎の中を歩くのは、一種の探検のようで楽しくもあった。
そうして。1年目が終わり、2年目になってA先生が転勤され、顧問が社会科のI先生に代わった。これが、私の悪夢の中学生活の幕開けだった。