6.ガル爺の引っ越し・前編
孫息子の嫁である、リランメーゼとその愛竜セラフィーリラの葬儀が終わり、屋敷は哀しみの静寂に包まれていた。
執務机に突っ伏しながら一人、ヴィルグリッドの鎮魂歌にも似た細く長い哀しげな鳴き声を聴く。
何もかもが、虚しかった。
こんな短期間に、愛する者達をたて続けに失うとは、思わなかった。
長い時を過ごす中で、妻、息子二人にその嫁、孫息子、そして各々の愛竜―――皆、死の国へと送り出した。
妻や息子の嫁達は幸いな事に寿命による穏やかな死だったが、息子二人に孫息子は戦による壮絶な死だ。どれも身を切る様な辛さを味わった。
孫息子――ギルファランスが敵の卑劣な攻撃に敗れ、戦死の報告を聞いた時、今までに無い脱力感がこの身を襲った。
己の身を包む鎧を初めて重く感じ、初めて、老いというものを深く意識した。
何とか敵国ユレンフールを退ける事が出来たが、戦士が鎧を重く感じたら、もうそれは戦士では無い。唯の足手纏いの老人になってしまう。
かつて孤児であった自分がヴィルグリッドを得、死に物狂いで掴んだ幸せが、掌に握った砂の様に一つまた一つとサラサラと零れ落ちていく様な感覚。
全身に感じる疲労感と虚しさだけが、この身を支配する。
「ガルトラント様……」
いつの間に部屋に入ったのか、伏せていた顔を上げると執事頭のイーヴァソールが紅茶を執務机の端に置く所だった。
「ああ、……すまんな」
「いえ」
かなり強いブランデーを垂らしているのだろう。仄かな酒の味が、舌を刺激する。
紅茶を啜ると、温かい液体が胃の中に納まり、冷え切った身体が温まって、沈んだ気分がほんの少し浮上する。
ついこの間まで鼻を垂らしていた小僧が、いつの間にか屋敷の使用人の中で最年長の執事頭で自分を気遣っている。―――成る程、自分の老いにも気付かない訳だ。
「………リルファローゼは?」
大切な忘れ形見でもある曾孫の様子を訊ねると、「泣き疲れて、眠っておられます」との答が返ってきた。
まだ幼いながらも母の死を理解しているらしく、棺の中でファノベルの花に包まれて眠る母とその愛竜の姿を見て、葬儀の間中ずっと泣いていた。
自分の腕の中で泣き続ける幼い子供のその姿は痛々しく、とても遣る瀬無かった。
「……っなんで、…なんで、お母しゃまに、セラフィまでっ、いっしょにしんじゃうの?」
大事な存在が二つ一遍に消えてしまい、疑問に思ったのだろう。嗚咽交じりでつっかえながらも、懸命に訊いてくる。
悲痛なその問いに、子供だからと誤魔化す事無く、真剣に応える。
「リランメーゼとセラフィーリラは、魂を結んでいたんじゃよ。どちらかが死ねば、もう一方も死ぬ」
その言葉の意味が良く解からなかったらしく、「なんで?セラフィ、お母しゃまぁ……」と弱々しく漏らしながら、リルファローゼの涙は止まる事を知らない。
無理も無い。まだまだ幼い子供に、人と竜の繋がりなど理解は出来ないだろう。
人と竜が魂を結べば、非力な人の子は忽ち身体も丈夫になり、寿命も竜に合わせて常人よりも遥かに長くなる。そして、常人には到底宿す事の出来ない魔力をその身に宿し、魔法が使えるようになるのだ。
竜も不安定だった精神も魔力も安定し、今までの何倍もの力を得る。
竜―――特に大型の竜を得た人間は、己が国の為にその身を捧げ、国を守護する存在となり、元の身分など関係無く特権階級となる事が約束される。元々闘い好きな竜は喜んで相棒となった人と空を翔けた。
そうして太古の昔より、人と竜は共存していた。
一度互いの魂と魂を結べば、離れる事は二度と無く、もしどちらか一方が死ねばもう一方も同じく死ぬ運命にある。
そういった事から、竜は自然と心身ともに強い相棒を自ら吟味し、選び出す。
人の方にほとんど選択権が無いのは、竜に比べ人の方が遥かに脆弱だからだろう。
もちろん、人に興味の欠片も無く、一生人と結ばない自由な竜もいれば、多少脆弱でも強引に魂を結んでしまう例もある。
例えば、歌が上手かったというだけで、魂を結んだ変わり者の竜もいる。何を基準に相手を選ぶかは、完全に竜次第なのだ。
リランメーゼは元々身体の弱い少女だった。だが、その魂の美しさと優雅な佇まいだけで、セラフィーリラの心を射止めた。
竜の力によって身体も強くなり、寿命も長くなるとはいっても、それは決して万能では無い。
夫の死から間をおかずの出産、慣れぬ育児と心労が重なって、リランメーゼの元々弱かった身体は、少しずつ衰弱していった。
そして、なんの変哲も無い風邪だけで、あっと言う間にこの世を去ってしまった。
セラフィーリラは小型の竜だ。大型の…所謂上位種の竜だったら、この程度で身体を壊す事は無かっただろう。
だが、人と魂を結ぶのは、下位種で数の多い小型の竜が殆どだ。中型や大型の上位種になるにつれてその数は少なくなり、更に魂を結ぶ相手はより強い者を求める傾向にある。
女の身で、身体の弱かったリランメーゼが竜に選ばれた事自体が奇跡なのだ。
更には、竜と結べば、元々健康な人間でさえ出来難くなるという子供まで、無事に産んでくれた。
余程相性が良かったのか、次々と順調に子供を5人も産んでいる、子沢山な侯爵家もあるにはあったが、そんなのは例外だ。
子供が生まれず、一代で終わってしまう貴族の家だって多いのだ。
貴族という地位に拘りは無いが、かつて孤児だった自分には、家族が増えるという事は何よりも嬉しかった。
与えられるばかりで、何も還してやれなかった事が悔やまれる。
老いぼれのこの身で、リランメーゼの儚い命と変わってやれるならと、思わずにはいられない。
リルファローゼは、産まれ落ちたその瞬間から、我が家の宝だ。
ギルファランスを思い出させる、黒い髪に濃紺の瞳。
基本的な顔立ちはリランメーゼに似ているとはいえ、いつも好奇心に満ちてキラキラ輝いている表情やふとした仕草等、幼い頃のギルファランスやその親で自分の息子のアルトランスにそっくりだ。
何より、リルファローゼは人生初の女の血縁者。
自分の子や孫は、皆可愛かったが全部男だった。
そしてその嫁となった義理の娘達もいて、それぞれ実の娘や孫娘と思い可愛がった。だが、やはり義理は義理。ある程度の遠慮や線引きはどうしても互いに必要だった。
昔、同僚である竜騎士に、娘が生まれたとにやけ顔で無理矢理酒につき合わされ、いかに娘が可愛いかとの一晩中の講釈に辟易した事があるが、今ならその気持ちが良く解かる。
フォスファの丘に行ったと、可愛らしい花束をこれまた可愛い笑顔付きで渡された日には、悶え死ぬかと思う程だった。息子達も孫息子達も、そんな細やかな気遣いなんぞした事が無い。
もう愛しくて愛しくて、堪らない。
将来結婚したい人がいると男を連れてきたら、絶対その男に殴りかかる自信がある。というか、出来れば嫁になんか行かせたくも無い。
愛竜のヴィルグリッドにさえ、そんな自分の感情が伝染しているのか、魂を結んだ相棒以外の人間には相棒の血縁者でさえ関心の薄い竜にしては、事の外リルファを気に入っていた。
竜持ちである事が、王侯貴族の最低条件のこの世界。
愛竜を持つ女性は、貴族にとって希少で重要な存在だ。竜持ちでない女性では、その身に流れる時間の差が、圧倒的に違うのだ。
竜持ちで無い人間は、精々生きて80年位の寿命。それが、小型の竜でも竜持ちになれれば、最低でも150年位には寿命が延びる。大型竜ともなれば、700年以上の寿命になる。
寿命の違う家族や友人と、何度も死に別れる。何百年も生きる者程、その孤独は大きかった。
愛する者と出来るだけ長く共に生きたいし、何よりただでさえ繁殖力が低いのに竜持ち同士でしか、子は出来ない。
竜持ちだって人間だ。戦に明け暮れ荒んだ心に、愛しい妻や子は、絶対的な癒しとなり力となる。
故に、たとえ女の身でも貴族として生まれれば、同じ貴族の男の伴侶となる為に、竜を得る為の教育を受ける事になるのだ。
竜持ちならば平民とも婚姻出来るとはいえ、貴族としての教育を幼い頃から受けた者との婚姻の方が、やはり互いに混乱も少なく好ましい。
このままだとリルファローゼも、貴族に生まれた婦女子として、竜を得る為の英才教育が始まってしまうだろう。
自分の様に、特に何の教育も受けていなかった平民が、あっさり大型竜を得る場合だってあるが、厳しい教育で己を磨けば、高確率で竜を得る事が出来るのだ。
竜を得る為の教育は、とても厳しい。
自由な竜が己が魂を結ぶ者として興味を持つのは、12歳から19歳までの、10代の子供のみ。
竜に人間のコネや権力、ましてや財力等関係無い。たとえ王族でも、実力で竜を勝ち取るのだ。
この国の成人となる15歳位には、貴族の子供は大体皆、人生の相棒となる愛竜と魂を結び、竜持ちとなる。
そしてどんなに厳しい教育をして己を磨いても、19歳までに自由な竜に興味を持たれなければ、そこで終了だ。
竜を得られなかった貴族の子は、貴族の籍から外され、平民として生きる事になるのだ。貴族の子の愛竜を得るまでの重圧は、計り知れない。
竜を得られなかった者は裕福な平民の嫁や婿になったり、商会を興して商売をしたりと、それぞれの道を探していく。
平民として生きるのも、それはそれで幸せな事だ。
戦になれば、必ず駆り出されるのが貴族である竜騎士達。
そして戦に往った夫を待ち続け、陰で泣くのは、いつだってその妻だ。―――そう、リランメーゼの様に。
リルファローゼには、そんな思いは絶対にさせたくなかった。
もう二度と、あんな悲痛な涙は流させたくない。
眩しいまでのあの笑顔や、好奇心に満ち溢れ、この世のどれも楽しいと語っている瞳を、勝手な大人の手で曇らせる必要は無い。
あの娘には、貴族社会の過剰な教育や余計な重圧等、一切不要だ。
リルファローゼが平民として生きれば、その短い一生を、この老いぼれでも最期まで見守ってやる事は可能だ。
幸せな家庭を作り、戦など知らず平和に暮らせば良い。……凄く嫌だが、伴侶となる者をこの眼でしっかり見極めてやる事も出来る。
そうする為には、後はやる事は決まっている。
――――よし、隠居しよう。
一瞬で固めた決意は、何よりも固かった。




