0.プロローグ
蝉の声。
夏場の雨上がりの土の匂い。
ボールの跳ねる音。
赤ら顔のオジさんのぼーっとした表情から、驚愕へと変わる瞬間。
ブレーキ音に、アスファルトにタイヤの擦れる酷い臭い。
身体に響く、衝撃。
―――私は、私の最期の瞬間を覚えている。
―――…………
――――……ファ…ゼ
「リルファローゼ」
綺麗なお姉さんが、話しかけてくる。
全力で泣き過ぎてくらくらする。恐い夢…というか、過去にあった事を夢見て泣いてしまったのだろう。
お姉さんがそんな私の様子を見て、自分の乳房を差し出してくる。
それに私は、素直に吸いついた。
いや、だってお腹も空いてたんだもん。決して変態では無い!
お姉さんの胸に添える自分の両手は、『紅葉の様な』と表現出来る小さい赤ん坊そのものの手。
多分、姿形全てが乳児なんだろうな―――
まだ鏡で確認していないながらも、今の自分の姿は乳児だと簡単に想像出来てしまう。
だって、あーとかうーとかしか言えないし、ろくに首も動かせず寝返りも打てない寝たきり生活だし、何より華奢なお姉さんに、簡単に抱き上げられてしまうのだから。
最初はまぁ、この現状にパニックだったけど、なんか慣れた。うん、もう慣れたっつーか諦めた。
だってお腹は空くし、下の世話なんかも…未だに抵抗あるけど、面倒みてもらわなきゃ生きていけない。
もうね、完全に開き直りましたよ、ええ。
だから目の前の人に、素直に甘える。
この状況を考えると、この人が私のお母さんだろうなぁ。
私はちょっと前までは、日本の女子高生『櫻井葵』という人間だった―――
何ていうか、トラックに轢かれて気が付いたら今の赤ん坊なこの状況。
道端でボール遊びしていた子供を庇ってモノの見事に轢かれましたっていうのは、この場合お約束というヤツなんだろうか。
うん、状況判断だけで数日程かかってしまったけど……多分私、転生しました。
トラックにぶつかって、もの凄い衝撃が身体に走って――多分、痛みを感じる事も無い程の即死だった――暗転。
気が付いたら、目の前の女の人に泣きながら抱きしめられていた。周りにいたお手伝いさんっぽい女の人たちも皆泣いてたから、空気を読んで私も大泣きしといたけども。
これが神様だか天使様だか誰のミスだか知らないけど、ちょっと誰かに文句つけたい。
前世の記憶、ばっちりはっきり残ってますよー!
短いながらもそこそこ濃く歩んできた17年間、ほぼ全部の記憶が残ってるってどうなの?
どうせ新しい人生歩むんだったら、いっそ全部リセットしろよ!もしくは記憶残しますって断り入れろ、拒否するから!
だけど、一人嘆いたってどうしようもない。文句言う相手もいないし、もしいても乳児語で喚いたって理解出来ないだろう。
大きくなれば前世の記憶だとか『葵』の人格だとかが無くなるのかもしれないけど、今の所その兆候は一切無い。この先どうなる事やら、全くの未知数だ。
「リルファローゼ」
愛しそうに何度も囁かれるこの単語が、私の今の名前なんだろう。
後に続く優しげな言葉の数々は、残念ながら私には理解出来ない。
日本語では、無いのだ。
更には、地球に存在するどの言語でも無いっぽい。多分。
外国語ってよく解らないけど、強いていうならフランス語をベースに、イタリア語とスペイン語とドイツ語やらを混ぜたような感じ?一言にすれば、意味不明。
ってまさか、一からこのややこしそうな言語、習得しなきゃならない?め、面倒くせぇ!
(せめてここが、地球上の何処かだったら良いのに……)
少なくとも、ここは元居た地球じゃない事は確信している。異世界―――もしくは、別の惑星な事は確かだ。
何故そんな事が、乳児の分際で断言出来るのかというと………
この世界のお母様(?)は、淡い金髪に翡翠色の瞳で肌も白く、明らかに日本人じゃないし言語も違う。
家具や調度品は中世ヨーロッパを思わせる造りだ。アンティークってやつか。
それはまだ理解の範囲内。地球のどこか…ヨーロッパの隅の超マイナーな国とかでも、充分通用するだろう。
今世に産まれ落ちた瞬間からずっと、ちょっと前までの常識というものが通用しない相手がいるのだ。
今もお母様に寄り添って、お乳を吸う私を凝視していらっしゃる存在。
言語理解どころか、簡単な言葉も喋れない乳児の身だけど、今日は声に出して訴えてみよう。
「あー、うー?」
あのお母様、今更ですが改めて突っ込んでも宜しいでしょうか?
「リルファ?」
「うーうー、うあー」
お母様の後ろにいる、その翼の生えた巨大な蜥蜴もどきは、一体何デスカ?