夏の日々、そして明日へ。 -Tomorrow with summer-
「夏」をテーマに書き上げた企画小説です。
他の作家さんの作品は「夏小説」で検索をすると見つかるかと思います。是非、読んでいってくださいね。あと感想もよろしくお願いします。
今日の日差しは、いつもよりも強そうに感じた。
ただただ毎日を繰り返すばかりの学校と、きっと死ぬまで好きにはなれそうにない梅雨の時期がとうとう終わりを告げた今日この日。
代わりに訪れたのは夏を呼ぶ蝉の鳴き声と、朝日を浴びて一杯に咲き誇るアサガオと、高く大きく広がる入道雲だった。
夏が訪れていた。
掛け替えのないモノを亡くした日、いつになっても忘れられない日、私が一人になってしまった日、嘘をついた日、泣き崩れた日、雨の日。
夏は確かに訪れていた。
そして私は一人、ここに取り残されてしまったんだろう。亜美が突然いなくなったんじゃない、本当は私自身が何処かに消えてしまったんだ。だから私は一人でいる。
「――暑い」
今日の気温は、いつもよりも高そうに感じた。
今日はきっと暑い日なんだろう、そう思う私はやっぱり一人ぼっちなのかもしれない。
夏は、もう訪れていたんだろう。
それに私が気づかなかっただけなんだと思う。
学校は気がつけば終わっていた。
進級して、クラス替えをして、新しい学年と教室になって、勉強して、掃除をして、テストをして。それを四ヶ月も繰り返したんだ。時間にしたら、それはとっても長い時間だったんだと思う。きっと嫌気が差すくらい面倒だったに違いない。
でも、学校は終わった。
そして、夏休みが始まっていた。
「あー、暑いな」
今の私にとってのせめてもの救いは、汗を掻いた麦茶とさっきから首を左右に振り続ける扇風機だけ。暑い、それ以外の言葉なんて何も浮かばなかった。もともとエアコンは使わない家だったし、そもそもそのエアコンすら家にはない。夏には全ての部屋の窓を開け放ち、一人一台と与えられた扇風機を全て動かす。それが私の家の夏だった。
蝉が遠くで鳴き始める。
それは五月蝿いようで、でもそれを聞くと夏が来たんだなって実感できて、だけどやっぱり暑いことには変わりがなくて、けど嫌いじゃない。夕方にひぐらしが鳴くよりは、日中からけたたましく鳴く蝉の方がまだ良いと私は思っていた。
今の家には誰もいない、いるのは私だけ。
お父さんもお母さんも仕事で家にはいない。ううん、私自身も親をあまり見たことがない気がする。どっちも朝早くから夜遅くまでの仕事らしいし、仕事が休みの日には寝室でずっと寝ていて部屋からは出てこない。だから、ご飯を食べるときとかくらいにしか顔を見たことがない気がする。
周りの皆みたいに家族で旅行とかも行ったことがないし、なによりあんまり喋ったこともない気がする。
そんな親だから、あの時だって……。
あー、やめよう。こんな話ばっかりしてたら何もかもが暗くなりそうだ。
とにかく家に親はいない。それだけで、それ以上にも以下にもならないのは確かだ。一つだけ付け加えるなら、この夏休みの間に親が帰ってくることは絶対にない。何でも、仕事の関係だとか何とかで二人とも出張らしい。本当、ひどい話だ。
だから親が帰ってくるまでの一ヶ月くらいは私一人だけってことになる。そう、私が一人だけ。たぶん買い物とか以外には何にも用事なんてないし、誘われて出かけようとも思ってないから、本当に一人になるんだと思う。
「今夜は暑いから蕎麦にしよう」
でも、それでも良いかなって少しだけ思ってもいた。
誰かに言われるわけでもなく、誰かに強要されるわけでもなく、ただ何となく日々を過ごしていた。朝に起きて、ご飯を食べて、暑い日中を扇風機だけで過ごして、お昼を食べて、夜になって食べて、そして寝る。その繰り返しだった。外に出ることもなく家の中で一日を過ごす日々。毎日の繰り返し。一つの習慣。
まるで学校にいるみたいだった。
朝の決められた時間に登校して、決められた時間に授業して、お昼を食べて、午後の授業を受けて、掃除をして帰る。それの繰り返し。同じことを繰り返す日々。
そう考えると、この毎日を繰り返すだけの日々が嫌になってきた。別に学校が嫌いと言うわけでもないけど、でも学校と同じことをしていると思うと自然と体が嫌がった。何とかしたいと本気で思った。生活のスタイルとかリズムとかを変えようと考えた。外に出ようと自分で自分に言い聞かせた。
そして一週間があっという間に過ぎていった。
結局、私は自分から何もしてはいなかった。しようとも思っていなかった。今度こそと思っても、次の日には忘れていた。きっと面倒くさかったんだと思う。何か新しいことをして苦労するより、今のままで楽をしようと思っていたに違いない。そして気がついたら一週間が過ぎていた、それだけの話。
何だかんだ言って、きっと私はやる気がないだけなんだと思う。
全く関係のない話をするけど、もしこの地球の何処かに神様って言う存在がいるとしたらきっと私はその神様ってのに嫌われているんだろうと思うことがある。
何で、って言われると「奪われてるから」って答えたんだろう。きっとそう答えた。だって本当に奪われているから。何もかも奪われている。私の周りにあるものはことごとく消えていってしまうんだ。酷いにも程がある。
そして今日も一つ、私の大切なものが奪われようとしている。それは私の日常だ。この夏休みだけの生活。私一人だけの生活。それがさっきから鳴るチャイムに奪われようとしているんだ。もし、そのチャイムがたった一回だけだったら私も出ることはなかった。それとは逆に何度も何度も鳴らすのにもだ。なのに今も鳴るそれは違うものだった。早すぎることもなく遅すぎることもなく、常に一定のリズムで鳴り続けるチャイム。私は何故か、それは誰が鳴らしてるんだろうと気になっていた。
もう、その時には奪われていたんだと思う。その神様って言うのに私の生活を奪われた瞬間なんだと思う。
気がついたら、私は立ち上がって玄関に向かっていた。
「はーい、どちら様ですかー?」
ピンポーン。
「今開けますからー」
ピンポーン。
「はいはい、今開けますってば」
ピンポーン。
「はいはいって」
鍵を開けて、扉に手を置く。ノブを一杯に回してゆっくりと開けていく。ドアが開いた瞬間に外のもわっとした空気が私を通り過ぎて家の中にまで入っていった。
扉が開く。
ゆっくりと静かに、それでも確実に。
「よ、元気してたか」
そう言って迎えたのは河田くんだった。ううん、はじめは誰だかわからなかった。河田くんに似た誰かが立っているようにしか見えなかった。でも、そこに立つのは本物の河田くんだと私の中の誰かが言っていた。
はじめに思ったのは「何で?」次に「どうして?」どっちにしろ疑問しか私の頭には浮かんでこなかった。河田くんが私の家に来る理由なんて今はもうないし、そんな予定をした覚えもない。大切な人を失って、それで二人の接点もなくなった私達に出会う意味はないし、必要もないと思う。なのに彼は来た。それがどうしてもわからなかった。
「あのさ、中に入っていいか?外は暑くて死にそうなんだよ」
「あ、う、うん。いいよ」
居間に案内する。前にも何度か家に来たことがあるから、たぶん案内しなくてもわかるんだろうと思うけど、でも私の後ろにつく河田くん。後ろに誰かがいると思うだけで、少しだけ緊張するのは何故だろう?ちょっとだけ不思議に思った。
扇風機が回る居間に座る。河田くんも同じように座る。
そもそも彼は何をしに来たんだろう。もう一度だけ考えてみた。私、に用があったんだよね、たぶん。だって親が出張でいないことは知っている筈だし、妹がいないことも知らない筈がない。なら私に用があったことになる。でも、何で?彼から私に対しての話なんて、そんなことあるわけがないし。あったとしても、それはあんまり大事な話じゃないと思う。だから河田くんが私の家まで来ることなんてない。何より、河田くんは私と話すことすらないんじゃないかとも思える。
じゃあ、どうして?
やっぱり考えても考えても、何にもわからなかった。
「あのさ、ちょっといいか?」
そんな中、先に口を開いたのは河田くんの方だった。やけに真面目そうな顔をしながら問う彼の表情に何処か心配の色が見えていたのは私だけだろうか。うん、きっとそれは私だけなんだろう。
「あ、うん。何?」
「お前、外に出てるか?」
「え、出てないけど」
夏休みに入ってからは一度も家の外には出ていない。あの雨の日以外はだけど。でも、それが悪いことだとは思っていないし、それを変えようとも今は思っていない。
「やっぱり。それは良くないって」
「良くないの?」
「良くないに決まってる。お前、気づいてないだろうけど顔色悪いぞ」
「そんなことないって。ほら、全然ピンピンしてるよ」
そう言いながら両手で両方の頬を叩いたり、腕をくるくる回してみたりして見せる。自分でもこれはやり過ぎだと思っている。なんだか焦っているような気もするし、冷や汗を掻いた気もしてる。まるで、言われたくないことを言われてしまったみたいに。
「いや、それだって無理してるだろ。だいたい家から出ないで何してんだよ」
「いや、だって」
なんだか目の前に座る人が河田くんじゃんない人みたいに思えてきた。例えるなら、そう学校の先生みたいな人。その人がずっと喋り続けていて、私が言い返せないような状況。今はきっとそんな感じなんだと思った。
「だってじゃないだろ。そうやって自分の殻に篭って何処が良いんだよ。それで良いとか本気で思ってんのか?それで何とかなるとか、忘れられるとか思ってんのかよ。お前は本当にそれで良いのかよ!」
何かが、私の中にある何かの糸みたいなのが切れた気がした。ブチンって大きな音を立てて、確かに千切れたんだと思う。
切れた。
確かに、切れたんだ。
「ねぇ、悪いの。私って本当に悪い?自分が出たくないから出ないだけなのに、それだけでそこまで言われなきゃいけないの。河田くんの言う通りかもしれないよ。殻に篭ってるだけなのかもしれない、でもそれって本当に駄目なことなの。誰にだってきっと殻はあるんだよ。なのに、それに篭るのはいけないことなの?どうして、どうして駄目なのよ。もう、私、何もわからない、わからないよ」
もう自分で何を言って良いのか、何を言ったら正しいのかなんてわかっていない。考えてもいない。それ以前に考えられないんだと思う。ただただ河田くんが言う言葉に反応して私が答えるだけ。
答えるといっても単に私の中に埋もれた膿みたいなのを吐き出すだけなんだろうけど。
「悪いとは言ってないだろ。ただ、そうやって自分だけで考え込もうとするのがどうなんだってことなんだよ。それじゃ自分だけが悪いみたいじゃねーか。それにな、皆だって殻はあるって言ったよな。それはそうかもしれない、誰にだって、俺にだって殻って言うのがあるのかもしれない。でも、だけど俺はそんな殻には篭ってないんだぞ。俺だけじゃない、皆だってきっとそうだ。なのに、お前だけはそうやって篭るのかよ。それって逃げてるってことなんじゃないのかよ」
「逃げてるって、それは本当かもしれないけど、でも、それって私だけじゃないでしょ。皆だって逃げてるよ。それが何なのかは知らないけど、だけど人は逃げてるんだよ。とてつもなく大きな何かから必死で逃げてるんだよ。なのに私だけが逃げてるみたいな言い方するなんてずるいよ。河田くんだって何かから逃げてるんでしょ?それと一緒なんだよ」
冷静に考えたら、私の言うことは理不尽なのもなんだと思う。ううん、理不尽そのものなんだ、きっと。人は確かに何かからは逃げているんだ。それは人それぞれなんだろうけど、でも何かから逃げていることには変わりはない。そのことは正しいと思ってるし、自分の意見が間違ってるとかは思えない。ただ、それに対して皆が皆、逃げているかは違う。
逃げる以外にも、人には出来ることがある。
立ち向かうことだって人には出来る。
でも、私は――
「そうかもしれない。俺だって何かから、いや何かじゃない、死んだ亜美から逃げてるのかもしれない。でも、でもさ、それでも俺達は生きてるんだ。亜美は死んだけど、でも俺達は生きてる。だから生きていなきゃいけないんだって。それはお前も同じことの筈だろ。お前も、俺も、生きてるんだよ。だから、俺達は前を向いて進まなきゃいけないんだよ。過去に囚われて先に進めないんだって言うなら、それは逃げてることと同じなんだって。立ち止まったらいけないんだ、俺達は前を向いて、それで先に進んでいかなきゃいけないんだよ」
「わかるよ。河田くんが言いたいことも凄くわかる。そうだもんね、そうやって前を向くことが大切なんだと思う。うん、わかる。だって私達は生きてるんだもんね。でも、でもね、それで全部が全部を片付けちゃいけないと思うの。それで、はいお終いみたいなことには私はしたくないの。だから、河田くんが言うこともわかるけど、でも納得は出来ないと思う。だって、私、亜美のこと忘れたくない」
亜美と過ごした日々。私と亜美と、それに河田くんとでいた日々。その思い出の中に埋もれた日々は、もう二度と戻ることのない日々。私が亜美の姉として、河田くんが亜美の彼女としていられた日々。私にとって、きっと彼にとっても忘れられない、それでいて大切なものなんだと思う。いや、そうであってほしい。そんな思い出を簡単に忘れるなんてこと私には出来っこない。
でも、それは思い出に縋っているだけなのかもしれない。
だけど私は、捨てたくない。
忘れたくない。
「俺は別に亜美のことを忘れろとか言ってるわけじゃないんだ。ただ、その過去とかに囚われ続けるのが良くないって言っているだけで、お前がそのせいで前を向けなくなっていることが心配なんだよ」
「ううん、やっぱりわかんないよ。何で?どうして河田くんはそうなの?そうやって割り切れるわけ。私にはそんなこと出来ないよ。忘れるなんて、そんなこと簡単に出来るわけないじゃない!」
そこで言葉が途切れた。
私の上げた怒鳴り声に続いたのは静かな虚無だった。
誰も、何も喋らない。静かな時間が流れていく。河田くんは黙り込んだみたいで身動き一つしない。顔は……見えないけど、きっと暗そうな顔をしているんだろう。私も似たような顔をしているに違いない。
外から、それも遠くの方からだけど、聞こえてくる車の音以外に何も聞こえてこないのが不思議で仕方がなかった。次第にその車の音でさえ聞こえなくなってくる。
無音。
そう思えるくらしの静けさがあった。まるで河田くんの心臓の音が聞こえてきそうな程に静かな時間。もしかしたら、今この瞬間に地球上にいる全ての生き物が絶滅して、それで生き残ったのは私達だけなのかもしれない。
そんな、どうでもいいようなことを考える暇さえ与えるくらい時間が流れていた。
ついさっきまで自分の意見を言い通していたのが随分と昔のことのようにも思えてくる。でも、側の時計を見ると五分がやっと過ぎた頃だった。その感覚としての時間のズレにも驚くものがあったけど、それより私が驚いたのは、私が時計を意識して初めて時計の針の音が聞こえてきたことだった。
私はやっぱり何処かが壊れたのかもしれない、そう思った。
でも、こうして何もしないで時間を過ごすことが懐かしいように感じた。ちょっと前の私は目に見えない何かを抱え込んで生活している、そんな風な感じだったと思う。だけど、今の私には背負うべきものがない気がした。もしかすると、さっきの喧嘩みたいなもので落としてきたのかもしれない。それが良いことなのか、今の私に確かめる術はないのかもしれないけど、素直に楽だと感じていた。
音のない世界。
気が付けば、また針の音が聞こえなくなっている。
けど今の私にそんなことはどうでも良くなっていた。私の視界に捉える河田くんにだけ意識が集中しているような感じ。相変わらず黙り込んだままの河田くんはさっきと何処も変わっていない。顔も見えないし、その下で怒っているのか泣いているのかもわからない。
ただ一つだけ、疑問が浮かんできた。
彼はどうしてここにいるんだろう?よくよく思えば、さっきの言い合いで河田くんから言うことは何もなくなったようなものなんじゃないの?もしそうなら、彼が私の家にいる理由なんて何処にもない。なのに彼はまだいる。とい言うことは、まだ何か用事があるってことなんだろうか?でも、これ以上のことで私に用なんかあるのかな?それに、もし彼が私に何か用事があったとしても、それはさっきので全てなくなったような気もする。
結局は、今の私には確かめることなんて出来そうもないけど。
ただ私がわかることは、今この場に私と河田くんがいて黙り込んでいることだけ。彼が何を考えているのかはもちろん、彼が黙り込んで何も喋らない理由なんて一つもわかる筈がなかった。
結局、人っていうのはそんなくらいなものなんだと思う。人にはそれぞれ、それもたくさんの思いや、考えや、信念っていうのがあって、それは決して他人に知られることはない。少しくらい感づかれたとしても、それは絶対に全部が見透かされた訳じゃなく、そのちょっとした一部を当てられたに過ぎないんだ。
つまり、自分だけの世界。
そういうことなんだろう。人は自分だけの世界を持っていて、その中で生きている。河田くんには河田くんの、私には私の世界がある。誰にも邪魔されたくない世界がある。
きっと喧嘩とか言い合いとかそういうのは、自分の世界のぶつけ合いなんだと思う。ぶつけて、相手にわからせようと無理をしているだけなんだと思う。
それは少しだけ悲しい気がした。
だって、本当ならそれは自分が信じるものを相手に伝えるだけのこと。それが行き過ぎた形でぶつけ合ってしまう。その思いを相手に伝えたいだけなのに、その思いだけが先に進んでしまって空回りするようなもの。
それはやっぱり悲しい。
だから、今の私達のこと、二人の間に挟まれた世界も悲しい。
それだけじゃない、死んでしまった人が信じた世界はもっと悲しい。
だって、死んだらもうそれっきりでしょ?
「ねぇ、一つだけ聞かせて」
自然に、それとも勝手になのかもしれない、私は口を開いていた。
「何だ」
さっきまで俯いていた河田くんが顔を上げて私を見つめる。その瞳に映る私は、それは彼にはどう見えているんだろう。ちゃんと私を見ているんだろうか?それとも私じゃなくて何処か遠くの方を見つめているのだろうか?それはやっぱり私にはわからない。だって、それは河田くんが見ているのもであって、私が見ているものじゃないから。それは私の入れる世界じゃないから。
「私だけじゃわからないから聞かせて。亜美はきっと幸せだったよね?きっと幸せでいられたよね?私みたいにちっとも悲しくなんかないよね、泣かないでいられるよね?今頃、天国で笑って私達のことを見ているよね?」
何だかんだ言って、偉そうなことも言って、一つだけだってこともいったのに、なのに私はたくさん聞いていた。本当に失礼な奴だと思ってる。でも、聞かないとどうしようないくらい不安だったのも本当なんだ。
それを彼は、河田くんは知っているのだろうか?私の不安を全て理解してくれているのだろうか?ううん、それはきっとない。少しくらいなら、私の不安もわかっていてくれているんだろうけど、でも本当に少しだけなんだと思う。だって、そこから先にあるのは私の世界、私だけの世界だから。
でも彼は、私の言葉にちゃんと答えをくれた。
「半分あってるけど、半分は間違ってると思う。あいつは、亜美は幸せだったんじゃない。きっと今も幸せなんだよ。泣くかどうかなんて俺達にはわからないことかもしれないけど俺は泣かないでいると思う。あいつのことだから、笑ってるよきっと。だから俺達も笑っていよう。じゃないと亜美に笑われる」
「うん。そうだよ、そうだよね。笑う、ずっと笑うよ、私」
「あぁ、そうしよう。それにさ、俺達が覚えている限りあいつはきっと幸せなんだって。そりゃあ絶対に自信があるわけじゃないけど、でもそう思えるんだ。毎日、少しだけでいい、あいつのことを思ってると亜美は笑っているような気がするんだ」
「うん。うん、うんうん」
何度も何度も頷いてた。それで少しだけ泣いていた。涙が流れているわけじゃないけど、そう私の心が泣いていた。まるで私達の世界がはじめて一つになったみたい。二人の世界が溶けて、崩れて、交じり合って、そして一つになる。そんな感じがした。それが凄く嬉しいと、素直に感じて喜んだ。
私達が思っている限り亜美は笑っていると思う。
河田くんはそう言った。それは私にとって実感でもある。だって、私が亜美のことを思う時、亜美は必ず笑っているから。家でも、学校でも、あの雨の中でも。彼女は私に笑いかけてくれる。それは、まるで私に「心配しないで」と語りかけているようにも思えていた。そんなこと単なる思い過ごしかもしれないけど、でも今はそう信じたい。だって私と同じことを思う人が一人いたから。彼も私と同じ境遇の人だったから。
共感。
つまりはそういうことなのかも知れない。その共感だって、一度きりのものなのかもしれない。だけど、それでも構わない。
人を信じるってことはこんなことなんだと初めて知った気がした。
それだけで少しだけ何かが軽くなったように思えた。
ずっと私の中にあった重りが、私一人では抱えきれない思いがほんの少しだけ消えていった気がした。ううん、少しだけ河田くんに持ってもらったんだ。少しだけ彼に助けてもらったんだと思う。
そう思うことにしよう。
だって、そう思ったほうが私も楽だし何より嬉しいから。
「ねぇ、河田くん?」
「何だ」
「蕎麦でも食べてく?今日のお昼なんだけど」
「おう、食べる食べる」
「じゃあちょっと待ってて。今、作ってくるから」
「おう、待ってる待ってる」
「うん、待ってて」
今日の日差しは、いつもよりも強そうに感じた。
夏を呼ぶ蝉の鳴き声と、朝日を浴びて一杯に咲き誇るアサガオと、高く大きく広がる入道雲が台所の窓からでも聞こえたり、感じたり、見ることが出来た。
夏が訪れていた。
夏をすぐ側で感じていた。
掛け替えのないモノを亡くした日、いつになっても忘れられない日、私が一人になってしまった日、嘘をついた日、泣き崩れた日、雨の日。でも、きっとそれだけじゃない。私はあの日に全てを失ったわけじゃない。小さなものかもしれないけど、でも確かに何かを手に入れていたんだと思う。
だから、大切なものを失って大切なものを得た日。
そういうことにしておこう。
夏は確かに訪れていた。
誰に言われるまでもなく、夏はすぐそこまで来ていたんだ。
「――暑いなー」
今日の気温は、いつもよりも高くなる。
今日はきっと蒸し暑い夜になるんだろう、そう思う私は流水麺を水で洗いながら台所で一人なっていた。でも何でだろう?一人なのに私はちっとも不安じゃなかった。
あー、そうか。だって今は一人じゃないってわかったからだ。私はいつだって一人じゃないんだって、近くに誰かがいてくれるってわかったら、だから不安になんてならない。
そう、今の私には河田くんがいる。
私と同じ境遇の中を生きているのに、しっかりと立っている。しっかりと自分の世界を持っている。いつか私も彼みたいに強く生きることが出来るのだろうか?彼のようにちゃんと自分の世界を持つことが出来るのだろうか?ううん、はじめから弱音なんか言ってちゃ駄目だ。絶対にそうなってみせる。
夏は、もう訪れていたんだろう。
夏の日々がいつまでも続き、そして明日へと流れていくこの当たり前なほどの日々を、私は大切に抱えていてあげたい。
これから夏は私にとって大切な季節になるんだろう。
そう思えることが嬉しかった。
そして何より、隣で亜美が笑っている気がした。
もう季節は夏になっていた。