お疲れさま。
橘さんを見送って振り向くと、三上さんがいた。
思わずうろたえる俺を見て、三上さんが笑う。
「そんなに恐がらないでください。」
そう言われても。
「ごめんなさい。椚さんにはご迷惑をおかけしました。」
あれ?
急に、どうしたんだろう?
「橘さんにも、悲しい思いをさせてしまって、すみませんでした。」
「いや、そんな・・・。」
いきなりの展開に言葉が浮かばない。
「私、橘さんコンプレックスだったのかも。」
橘さんコンプレックス?
「私が入ったとき、橘さんは仕事がよくできて、明るい先輩でした。職場の中でも人気があって、そのうち女子社員の憧れの中村さんと付き合うようになって。そうなっても、橘さんはそれを自慢したりしませんでした。」
うん。きっとそうだっただろうな。
「私はいくらがんばっても橘さんのようにはなれなくて、悔しくて、でも憧れで。」
誰にでもきっと、同じ経験はあるはず。
「橘さんが異動したあと、私がその位置に就けたと思ってた。」
三上さんは外を見た。もう橘さんは見えないけど。
「椚さんが総務課に来たとき、優秀だっていううわさがあったから、興味があって近付いたんです。決まった相手がいるって聞いていたけど、同期で知り合いだったし、もしかしたらって思って。そうしたら、椚さん、とってもいい人で。」
そうかな?ぼんやりしてるだけなんじゃないだろうか?
「私のこと全然疑わないで、そのまま信じてくれて、相談すると慰めてくれて。」
三上さんはさびしそうに微笑んだ。
そんなことくらいで嬉しいなんて、三上さん、よほど無理をしてきたのではないだろうか。
「椚さんの相手は橘さんだっていううわさが流れてきたときに、“橘さんに負けたくない”って思ってしまって。もしかしたら、橘さんがライバルじゃなければ、これほど意固地にならなかったのかもしれません。」
たぶんそうだろうな。
「今日、橘さんが前と同じように話をしてくれて、私、橘さんのことをやっぱり好きだな、って思いました。そうしたら、橘さんに幸せになってほしいって思えるようになって、私が椚さんのことを困らせていることが、橘さんに申し訳なくて。」
「そんなふうに気付いたなら、よかった。」
本当に。
「でも、椚さんのことを好きなのも嘘じゃありません。無理に私を見て欲しいとは言わないけど。それに、椚さんと橘さんの間には、誰も割り込めない雰囲気がありますよね。」
面と向かって言われると、やっぱり恥ずかしい。でも、“見せつける”っていう橘さんの計画は成功したんだ。あんな状態でも。
「そう?ありがとう。三上さんにもそういう相手がどこかにいると思うよ。」
「どうでしょうね?じゃあ、私、これで戻ります。」
そう言って、三上さんはエレベーターの方へ歩いて行った。俺は階段へ・・・と思ったら。
「椚さん!」
女の子たちの大きな声とともに、入り口から走ってくる松川さんたち3人の姿。
「三上さんと話してましたよね?!」
息を切らしながらの第一声がそれ?
「そうだよ。」
「やっぱり!さっき、この前で橘さんに会いましたけど、大丈夫だったんですか?」
「大丈夫って・・・?」
「お2人の対決とか。」
残念。3人とも見逃しちゃったね。
「お昼休みに社員食堂で何があったか、職場で訊いてごらん。みんな知ってるよ。」
「あーん、外に食べに行くんじゃなかった!」
そんなに悔しいんだ?
俺たちの騒ぎって、職場のビタミン剤みたいなものだったのかもしれない。
夜、電話で橘さんに、三上さんから言われたことを話した。
『お疲れさまでした。』
橘さんが俺をねぎらってくれた。
「でも、俺は何もしてないよ。おろおろしてばっかりで。」
『今日はね。慌ててる椚くん、可笑しかったよ。』
仕方ないよ。注目されるのは慣れてないんだから。
『でも、今までずっと、三上さんのことを一人で解決しようとしてくれたんでしょう?』
「だって、それ以外に方法がなかったから。」
『本当にごめんなさい。信じてあげられなくて。』
「いいよ。」
今とこれからが大丈夫なら。
俺たちの間に誰が割り込もうとしても、お互いの信頼が揺るがなければこわくない。
そうだ!
「あのさ、中村さんて、橘さんのこと“春香ちゃん”て呼んでたの?」
『あ・・・うん。そう。』
ちょっと歯切れが悪い。後ろめたいんだ。
『椚くんも、ほかの呼び方に変えたい?』
俺に気を遣っているのか?彼女の様子が目に浮かぶ。なんだか可愛い。会いたいな。
でも、ほかの呼び方っていっても、いざとなると思いつかない。
「今すぐに考え付くのはしっくりこないから、これからゆっくり考える。」
『結婚したら、わたしも“椚くん”って呼ぶわけにもいかないから、それまでに決めればいいよね。』
そうだ!
「ご両親にあいさつに行かなくちゃ!」
『いつ?』
「なるべく早く。」
『じゃあ、この電話が終わったら、お母さんに電話してみる。椚くんもね。』
とは言っても、すぐに電話が終わるわけじゃないけど。
『そういえば、椚くんと別れて外に出たところで松川さんと松井さんに会ったよ。』
彼女たちも、そう言ってたな。
『今日は浅川さんっていう女の子が一緒だったんだけど、浅川さんて、椚くんのこと好きなんだってね?』
「えっ?!」
そんなこと聞いたの?!
「あれ?そ、そう?」
焦りまくる俺を電話の向こうで笑う橘さん。
『うそ。浅川さん、『ファンなんです。』って言ってただけ。でも、赤くなっちゃって、可愛かったよ。松川さんたちが、椚くんにも言ってあるって言ってたから、ちょっとからかってみようと思って。』
「橘さんに言っておいた方がよかった?」
ちょっとふて腐れてみせる。
『言われたら?そうだなあ・・・。ヤキモチ妬いたかも。』
言えばよかった!数少ないチャンスだったのに。
「今は?」
『うーん、人気のある人が恋人で嬉しいかな。ちょっと自慢できるよね?』
「・・・中村さんの方が人気者だったよね?」
『ああ、そういえばそうだね。でも、中村さんは自慢するにはすごい人過ぎて厭味じゃない?』
「俺ならちょうどいいってことか。」
橘さんが笑う。
『そんなに拗ねないでね。自分の恋人なら、人気はほどほどがいいんだから。』
そりゃそうか。
「そういえば、橘さんだって人気があったって聞いたけど。」
『あれ?そうなの?』
やっぱり知らないんだ。
「西村だってそうだったし、コバちゃんの同期にもいたらしいよ。俺の同期にも何人かいたよ。先月の集まりで、俺と佐伯が攻撃された。」
『佐伯さんまで?』
「同じ職場だってことで。」
『それだけで?わあ、すごい。別に美人でもないのに不思議だね。』
まるで他人ごとだ。
『本社にいるときに、もう少し隙を見せておけばよかったのかな?』
今、それを言う?!
「どんなふうに?」
『うーん・・・。大胆に胸元の開いた服を着るとか。』
「それは見せるモノが違ってるし、合ってても、やっちゃダメ。」
橘さんにはいつも笑わされてしまう。
本気なのか、わざとなのか、わからないからちょっと心配だけど。
『そういえば、コバちゃんが、佐伯さんを秋葉原に連れて行くって言ってた。』
どういう企画なんだ?
『佐伯さんが何人から声をかけられるかっていう実験なんだって。』
「佐伯がOKしたの?」
『そこがよくわからないんだけどね。それに、佐伯さんが声をかけられるとしたら、秋葉原じゃなくて、もっと違う場所じゃない?渋谷とか、原宿とか、テンションの高い若い女の子がたくさんいるところ。』
なるほど。
「でも、コバちゃんが一緒じゃ、誰も声をかけたりしないんじゃないかな。」
『そうだよねー。行ったあと、どうだったか訊いてみよう。』
そんなとりとめのない話をもうしばらく続けてから電話を切った。
最後に
『お母さんに電話したら、メールするね!』
と言われて、俺も実家に電話をすることを思い出した。
こういうことを忘れないなんて、さすがに橘さんは優秀だ。
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橘 春香
「お母さん、椚くんがあいさつに行くって言ってくれてるけど、いつがいい?」
『ちゃんと椚さんに謝ったの?あなたは強情なんだから。』
「ちゃんと謝った。それと、お母さんに心配かけてごめんなさい。」
『椚さんのことは信頼できる人だってわかっていたけど、春香が頑固だから、どうなることかと思ったわよ。』
「お母さん、椚くんのこと気に入ってるんだ。」
『そうよ♪お正月に見たとき、けっこうタイプだったもの。』
「うそ・・・。」
『康太が、弟さんはもっと素敵だって言ってたから、今から楽しみで。でも、私は顔で選ぶわけじゃないけど。』
「お父さんを見ればわかるよ。それに、選ぶのはわたしだよ。」
『両家の顔合わせが楽しみね〜。あちらのお母様とゆっくりお話しできるし。』
「だから、まずはあいさつの日を・・・。」
『ああ、はいはい。』
・・・・・・・・・・。
椚くんへメール
『うちは今月の土日ならいつでもOKだそうです。』
それから
『お母さんが、わたしたちの結婚のこと、すごく楽しみにしているみたい。・・・っていうか、うちのお母さんも椚くんのファンみたい。なんだか複雑な気分・・・。間違っても、うちのお母さんと何か、なんてことにはならないでね。』
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椚 良平
なるわけないだろ!