橘さん、張り切る。
朝からそわそわと落ち着かない。
今日は橘さんが本社にやって来る。
週末に相談したことを実行するために。
三上さんと対決する、と橘さんは言っている。
まさにそうなんだけど・・・。なんだか心配だ。
橘さんの計画は単純で大胆なものだった。
「見せつけてやるのよ。」
にこにこしているけど、その表情は復讐の女神みたいに見えないだろうか?
そうやって前向きに考えてくれていることが嬉しい反面、なんだか恐い。
やっぱり怒っているのかな?
宣戦布告という言葉で火が付いたというか。
「来週、わたしが用事を作って本社に行くから、そのときに、みんなの前で仲がいいところを見せるの。三上さんが何をしようとも、わたしたちが平気だってことがわかるように。」
というわけで、それが今日。
午前中に用事を済ませた橘さんが、俺と一緒に社員食堂でお昼を食べる、という計画。
それ自体はたいしたことではないけど、あの事件が社内に広まっているから、俺と橘さんが一緒に食堂に行くだけで注目の的になるだろう。それを考えると、落ち着かない気分だ。
昼が近付くにつれて、心臓がどきどきしてきた・・・。
「椚くん。」
「!」
カウンターからの呼びかけにあわてる。この呼び方は橘さん以外にありえない。
時計は11時45分。まだ早いよ!
焦りながら立ち上がって橘さんのところへ行くと、彼女は元気に話しかけて来た。
「わたしの用事は終わったから、美樹ちゃんのところに顔出して、食堂に行ってるね。」
はっきりとした通る声で話しているのがわかる。これも彼女の計画のうちなのか?
それに美樹ちゃんて、3階の渡辺さんだよね?三上さんの隣の係じゃないか。
俺はハラハラしたまま、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
「あれ?春香ちゃん?」
誰?こんな呼び方する人・・・中村さん?!
どこかから戻って来たところらしい。俺の横で立ち止まっている。
なんか、もう、俺・・・どうしたらいいんだろう?
「中村さん。お久しぶりです。」
俺の動揺をよそに、橘さんは平気な顔であいさつをしている。
「ご結婚されたそうですね。おめでとうございます。」
「ありがとう。」
和やかに話している2人。さすがに度胸が据わっている。
俺は背中に好奇の目を感じつつ、身動きができない。
「今日は出張のついでに、椚くんと一緒にお昼を食べようと思って。」
自分の名前が出て、急いで橘さんに注意を向ける。
「じゃあ、あとで食堂でね。中村さん、失礼します。」
彼女は中村さんに軽く会釈をして、事務室内の誰かに手を振ると颯爽と去って行った。
今のだけでドッと疲れた・・・。昼休み、大丈夫かな。
「彼女、溌剌としてるね。」
中村さんの声。
「・・・ちょっと張り切り過ぎかもしれません。」
俺の言葉に、中村さんは軽く眉を上げて不思議そうな顔をした。
「橘さんの作戦なので。」
「ああ、そうなんだ。なるほど。」
中村さんは拳で笑いを隠した。
昼休みがこわい・・・。
席に戻ろうとうしろを向いたら、事務室にいた人たちが一斉に視線をそらしたのがわかった。
12時になったので、あわてて社員食堂へ向かう。
橘さんの計画は“あくまでも目に付くように”だったけど、俺には既にそんな余裕はない。早く席に座ってしまおう。
7階まで階段で上がると、すでに食堂の入口は混みあっていて、ゆっくりとしか進めない。
彼女は「食堂に行ってる」と言ってたから、もう中にいるはず・・・?あれ?
入り口の横で手を振っているのは橘さん?
超目立ってる!
まるで食堂の案内係みたいに、入り口の横に立ってにこにこしている。
とりあえず名前を呼ばれなかったのは助かった。でも、彼女が誰に手を振っているのかと、こちらを振り向く人もいる。
彼女は俺に手を振る合間に、食堂にやってくる知り合いたちに「こんにちは。」とか「お久しぶりです。」と、あいさつをしている。
やるときは徹底的にやるんだな。
ああやって社内の人たちに、今日、自分が来ていることを知らせているのだ。
俺が近付くと橘さんがやってきて隣に並ぶ。ここからは2人一緒。またいっそう緊張してきた。
覚悟はしていたけど、周囲からチラチラと視線を向けられるのが気になる。
「大丈夫?」
橘さんに尋ねられて返事をしようとしたけど、声が出ない。引きつった笑い顔だけ。
彼女はくすくす笑っている。
どうしてこんなに平気な顔をしていられるのかわからない。
くらくらする頭のまま、どうにか定食を買って席へ。
ここで、橘さんは食堂の中央あたりの場所を選んだ。そこまでの間も、知り合いに会釈したりすることに怠りない。6年も本社にいたので、顔見知りも多いようだ。
ようやく椅子に座ることができて、ほっとする。
橘さんと俺が仲良くしているところを見せるっていう計画だったけど、今までの俺を見た人は、橘さんに無理矢理連行されているとしか思えないんじゃないだろうか?
ダメだ!こんなことじゃ!
橘さんと2人で一緒にやらなくちゃ意味がない。
しっかりしなくちゃ!橘さんがこんなにがんばっているんだから!
まあ、がんばって、というよりも、すでに面白がっている方が大きそう。みんなが驚く顔を見て楽しんでいるんだ。
なんとか落ち着きを取り戻した俺に、橘さんが小声で報告する。
「さっき、美樹ちゃんのところに行って、三上さんがいるのを確認してきた。ついでに美樹ちゃんが、三上さんを食堂に誘ってくれることになった。」
「面白がってるよね?」
絶対そうだ。
小声で尋ねると、彼女はいたずらっぽい笑顔で答えた。
「せっかくだから。」
俺たちは楽しそうに見えるように食事をする・・・はずだったけど、楽しんでるのは橘さんだけ。
と、思ったら、
「お邪魔じゃないよね?」
と聞きなれた声がして、向かいの席に西村が座った。よかった!救いの神!
「珍しいね。」
西村が橘さんに尋ねた。
橘さんはフフフと笑って答える。
「ちょっと計画があって。」
ん?何か、ニュアンスが違う。
俺が知っている計画は、一緒に食堂でご飯を食べるところまでだけど。それ以外にも何かあったっけ?
・・・とにかく、楽しそうにしなくちゃ。
西村が加わってくれたことで緊張が解けて、俺もなんとか話ができるようになった。これなら仲が良さそうに見えるだろう。・・・3人で、だけど。
少し経つと、最初に来た人たちが帰り始めて、お客が入れ替わり始める。この時間帯に来るのは女の人が多い。
ふと、隣の橘さんの手が止まったのがわかった。
なんだろうと彼女を見ると、入り口の方を見ている。視線の先には三上さんがこちらに歩いてくる姿。渡辺さんと話しながらやってくる。
何かするつもりだ!
橘さんの様子を見て確信した。それでこの席を選んだんだ。
「橘さん?」
と呼んでみたけど、彼女は俺を見てひと言。
「大丈夫。」
何が?どう大丈夫なんだ?
西村は入り口に背中を向けていたので、橘さんが何を見ているのか気付いていなかった。
ちょうど俺たちの横に差しかかろうとした三上さんの前に、橘さんが立ち上がる。
「三上さん。」
橘さんの声が食堂内のざわめきを縫って聞こえた。周りの話声が止んだような気がする。
「橘さん?」
三上さんの声。驚いているのがわかる。
それに答える橘さん。
「こんにちは。この間はきちんとごあいさつしないでごめんなさい。よかったら、久しぶりにお昼を一緒にどう?椚くんもいるけど。」
彼女の表情は明るくて屈託なく、本当に昔の同僚と一緒に食事をしたいという様子だった。
三上さんはほんの少し動揺したようだったけど、すぐに気を取り直して「そうですね。」と言った。
三上さんが食事のトレーを持ってやって来ると、橘さんは俺を西村の横に移動させて、自分の横に三上さんと渡辺さんを座らせた。俺は2人の間に挟まれて座らずに済んでほっとした。・・・けど、いったいどうなるんだろうか?
「仕事は忙しい?」
橘さんから三上さんへの最初の一言はこれだった。
そのあとも、特に当てこすりや意地の悪い言葉が交わされることはなく、渡辺さんも交えた3人で、職場の様子や上司のうわさ話が続いた。ときおり笑い声も上がる。
俺は蚊帳の外。
なんだか気が抜けた。
隣では西村が、やっぱりあっけにとられた様子だった。
「椚くん。わたし、そろそろ戻るね。」
橘さんに声をかけられてはっとする。
「じゃあ、下まで送ってくよ。」
「うん。三上さん、美樹ちゃん、またね。西村さんも。」
そう言って、俺と2人分の食器をささっとまとめて立ち上がる。
俺が返しに行くと言うと、
「じゃあ、洗面所に行ってくるから、エレベーターの前で待ってて。」
と小声で言って、食堂から出て行った。
エレベーターで降りながら、橘さんが笑いながら尋ねる。
「心配だった?」
「ものすごく。」
どっと疲れた・・・。
「はじめはね、何かビシッと言おうと思ってた。だけど、三上さんの顔を見たら言えなくなっちゃった。」
そうなのか。
「どうしてだろうね?」
「一緒に仕事をしていたときのこと、思い出して。三上さん、よくわたしのフォローしてくれたし、けっこう仲良くやってたから。」
三上さんはどうだったんだろう?本当のところは、誰にもわからない。
「それに、わたしって、人と争うのは向いてないみたい。“こう言ってやろう”とか、想像するのは楽しいんだけど、その場になってみると無理。」
ふと、中学生のころの橘さんが浮かんできた。
ほかの人から優等生だというイメージを押しつけられて、その期待に応えて来た橘さん。
“そうじゃない”って言えていたら、彼女はあんなふうな優等生ではなかったかもしれない。
でも、言えなかったから、その分、自分が頑張ってきたんだ。
その頑張りが、今の橘さんを作ったともいえるわけだけど。
「夜、電話するね!」
笑顔でそう言って、橘さんは事務所へ戻って行った。
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橘 春香
わたしって、弱虫かな。
だけど、やっぱり酷い言葉は言えないよ。
それにしても、みんなが驚く顔を見るのは面白かったな!




