うわさ話(1)
6月になって、蒸し暑い日が続く。
今日は特に暑いし、エアコンの効きも悪い。
橘さんはもう担当の仕事も電話もばっちり。
ばっちりどころか、みんなの仕事への気配りも怠りなく、どこがとははっきり言えないけれど、仕事がやりやすい。
こういうところが優秀と言われる所以か。
でも、暑いのが苦手だそうで、今日はパソコンを見ながらイライラしているのがわかる。
「ちょっと一休みしてきたらどうですか?」
事務所の廊下のつきあたりには自販機を置いた休憩コーナーがある。
「そうしようかな!すみません、ちょっと行って来ますね。」
パソコンをクローズにすると、お財布とハンカチを持って、ガラスドアから出て行った。
少しあと、佐伯が戻ってきた。
たしか、本社に行ってきたんだったよな。
本社はここから20分くらい電車で行ったところ。電車の主要駅の近くに自社ビルを持っている。
この事務所は車を使うことが多いから、道路の接続がいい場所のビルの2階に間借りしているのだ。
コバちゃんが「おかえりなさーい」と声をかけている。
別に男が言ってもいい言葉だけど、男性陣は照れくさくてなかなか言えないでいる。
佐伯は自分の席に行く前に俺のところに来て、小声で言う。
「聞きましたよ、橘さんのうわさ話。」
「?」
「本社に行ったら、知り合いに呼びとめられて。橘さんって、そっちに異動したんでしょって。」
女性社員か。佐伯と話すチャンスなら、どんなことでも逃さないだろうな。
「何?なんの話?」
コバちゃんが素早くやって来る。
「橘さんのうわさだって。」
「ああ、あたしもこの前の同期会でちょっと聞いたよ。」
そんなにあっちこっちで?
コバちゃんが夜に話そうと言い、橘さんは誘わずに飲みに行くことにした。
席に戻りながら、佐伯がこちらを向いて俺にきく。
「今日のネクタイ、変ですか?」
「いや。なんで?」
「さっき、自販機のところで橘さんに会ったんですけど、なんだか俺のネクタイから目が離せないようで。何か言いたそうな顔で、ネクタイと俺の顔を交互に見るんですよ。」
ああ、あれか。
「別に大丈夫だと思うけど、心配だったらコバちゃんにもきいてみたら?」
俺は笑いをこらえるのに必死だった。
“あれ”っていうのは、異動のすぐあとのこと。
その日は佐伯が引き継ぎの一環で、橘さんを連れて、マンションや住宅の建設現場を見学に連れて行っていた。
夕方、戻ってきた彼女はぐったりと疲れているようだった。
「初めての現場は疲れましたか?」
「ううん。普段は見られないところを見学できておもしろかった。それよりも、佐伯さんが・・・。」
周囲に人がいないことを確かめながら、彼女が言う。
「・・・?何かされました?」
まさか、セクハラか?あいつに限って、ありそうにないけど・・・?
「違う違う!わたしね、ああいう人が苦手なの。」
ああいう人って・・・?
「今風の、カッコいい人。」
ああ。要するに俺は大丈夫なわけね。
「28才にもなって恥ずかしいんだけど、ああいうタイプの人といるとどうしたらいいかわからなくて。顔を見るなんて無理だし、緊張して馬鹿なこと言ったりやったりしちゃうから。」
「いつもは平気そうですけど?」
「仕事中は顔に出さないように頑張ってるし、ほかに誰か一緒にいれば大丈夫。今日は、車の移動中は仕事の話でなんとかつないだけど、緊張のしどおしで。」
佐伯はきっと、仕事熱心な人だと感心しただろうな。
「たいへんなんですね。」
「まあ、あんなにカッコいい人が、しょっちゅう現れるわけじゃないけどね。なるべく佐伯さんと2人だけにならないように気をつければいいんだから。椚くんも、思い出したら協力してね。」
橘さんはちょっと困ったように笑っていたっけ。
逆のパターンは今までに何度かあった。
コバちゃんの前任の女性はよく佐伯と一緒に外回りをしていて、俺がたまに相乗りになると露骨に落胆した顔をしていた。
佐伯と同期で同じ職場の俺に、仲良くなりたいから協力してほしいって言ってくる女性社員もいた。
コバちゃんは佐伯に特別な興味はないようで、佐伯も気を許していて、俺たち3人は普通に仲がいい。
それが、苦手だから2人だけならないように気をつけるなんて。
自販機のところで、橘さんが佐伯を見ておろおろしている様子が目に浮かんで、笑いをこらえるのが苦しかった。
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橘 春香(休憩コーナーにて)
佐伯さん?!
どうしよう?
とりあえず、お天気の話・・・。
ダメ。顔を見て話せない!
そうだ!面接のときは相手のネクタイの結び目を見るって言われたよね?
でも、なんだか挙動不審?