ようやく・・・。
「よかった!急いで来たの。」
と言ったまま、玄関で靴も脱がないまま俺にしがみついている橘さんは、会えない間に想い描いていたよりもずっと可愛らしかった。
それに、橘さんは泣いていない。
以前のとおり元気そうで、俺に会えて嬉しいという気持ちが、その笑顔いっぱいに表れている。
それが何より嬉しい。
「ごめんね、心配かけて。それに、一人でがんばってくれて、ありがとう。」
橘さんの言葉に、思わず目頭が熱くなってしまう。
とりあえず中に入ってもらって、コーヒーを淹れる。前に約束したとおり、それは俺の仕事。
橘さんが買ったカップを出して注ぐと、彼女はそのカップを見てにっこりした。
「もうこのカップを見ることはないと思ってた。」
コーヒーを飲みながら、橘さんは話し始めた。
「今日はメールを待ってたの。」
今日はってことは、昨日までは違ったのか。
「どうして、今日になって、気が変わったの?」
「犬に追いかけられて・・・。」
そう言って、橘さんは思い出し笑いでしゃべれなくなった。
犬に追いかけられたことと、メールを待っていたことが、どうつながるんだろう?
ようやく笑いが治まると続きを話し始める。
「現場を見に行った途中で、道路沿いの家の生け垣から犬が出てきてね。ものすごい勢いで吠えながら追いかけてきて、佐伯さんと一緒に猛スピードで逃げたの。あとで、そんなふうに犬が出て来たこととか、必死で走ったことを思い出したら可笑しくて、大笑いしているうちに、何にでも立ち向かえそうな気がして、元気が出てきたの。」
笑ったら元気が出たなんて、橘さんらしい。
「で、椚くんのことはもういいやってあきらめがついて、」
「“もういい”って、どういうこと?!」
まさか、今日は別れ話をしに来たのか?!何にでも立ち向かうって、そういう意味?!
「そう思ったんだけど、コバちゃんと佐伯さんが、椚くんがわたし以外の人を選ぶはずがないって言うから。」
思いっきりうなずく。
「だから、今日、メールを待ってたの。読んでみようと思って。」
「ってことは、今までのメールはやっぱり・・・。」
「実は、あのあと、アドレス帳から椚くんを消しちゃったから、誰からかわからないメールになってて・・・。」
さすがに俺に悪いと思っているらしい。声が小さくなっていく。
「たぶん椚くんだとは思ったけど、最初は断りの言葉を見るのが恐くて、あとは、椚くんじゃなくて迷惑メールかもしれないと思って、全部、見ないで捨てちゃってた。」
なんと徹底してることか!さすがだ。・・・と思うけど、がっくりする。
メールが読まれていない可能性があるとは思っていた。でも、そう考えるのと、見ないで捨てたと言われるのとは全然違う。
「じゃあ、電話に出なかったのは・・・。」
「誰からの電話かわからないから。さっきはちょっと出てみようかと思ったけど、やっぱり勇気が出なくて。ごめんなさい。」
とにかくすぐに橘さんに携帯に、俺の情報を登録しなくちゃ!
「だから、とにかく今日は最初のメールを見てすぐに家を出たの。『ちょっと待ってて』って送ったとき。」
そういうときは、『ちょっと待ってて』とは言わないのではないのだろうか?
「で、ここまで来てから、もしかしたら外に出てるかもって思って、『どこ?』ってメールしたの。」
「夜なんだから、呼んでくれたら俺が行ったのに。」
「大丈夫だよ。このくらいの時間なら、残業とか飲み会で遅くなるのと同じだもん。」
すっかりたくましい橘さんだ。
「そういえば、椚くんのアドレスをコバちゃんに教えてもらえばよかったんだ!」
そうだね。
でも、こうやって来てくれて嬉しいよ。
「実家に電話をくれたんだってね。」
「うん。きちんと話をしておきたかったから。」
「お母さんが、お父さんには、椚くんの体調が悪くて来られなくなったって説明してた。わたしはお母さんに違うって言ったんだけど。」
お母さん、ありがとうございます。
「お母さんが、『また別れたなんて言ったら、お父さんが怒るから』って。」
「お父さん、怒ると恐いの?」
「恐いって言うか、長いの。あの連休の間、ずっと不機嫌だと面倒だから。」
それで俺は救われたのか。
「でも、お父さんが椚くんは体が弱いのかって訊いてた。そんな調子で結婚しても大丈夫なのかって。」
大丈夫です。ご心配をおかけしました。
そうだった!
「今でも、俺と結婚してくれる気持ちはある?」
「・・・うん。」
橘さんのはにかんだ表情が可愛い。
俺は引き出しにしまってあった指輪を出してきた。
橘さんに左手を出してもらって、薬指にはめる。
「もう返さないでください。」
俺が言うと、橘さんが笑った。
「うん。もし、返してくれって言われても、返さない。」
そんなこと、起こるはずがない。
「返さないで、売り払っちゃう。」
さすが橘さん!
彼女のこんなところが大好きだ。
マイナスを帳消しにするのではなく、ゼロを飛び越えてプラスにするぐらい強力なユーモア。
彼女と一緒にいると、前向きな気持ちがわいてくる。
ずっと考えていたことを話す。
「あのホルスタインの模様のソファを買おうと思ってたんだ。」
「あれを?嫌がっていたみたいだったのに。」
「でも、橘さんが面白がっていたのを思い出したら、すごくよさそうな気がしてきた。」
「緑色のカーペットも?」
「そう。緑色のカーペットも。」
「もし、わたしが椚くんと仲直りしなかったら?」
「それでも買うつもりだった。橘さんを思い出すから。」
橘さんは少しの間、黙っていた。
「・・・ありがとう。」
あれ?泣きそう?
テーブルの上の彼女の手を握る。
少し涙目になった顔を上げて、彼女が微笑む。
「でも、この部屋には置く場所がないと思うけど。」
「どうしようもなかったら、立てて置くよ。」
2人で部屋を見回しながら笑った。幸せだ!
なかなか言い出しにくかったけれど、俺たちの一番の問題である三上さんのことを橘さんに話す。
「いろいろ説得しようと思ってやってみたけど、ダメなんだ。」
意気消沈する俺を、橘さんがなぐさめる。
「好きな人を簡単にあきらめることはできないと思うよ。」
本当に俺を好きなのかは疑問だ・・・。
「もう、ただの意地だとしか思えないけど。」
「確かに、あんなふうにみんなの前で言っちゃったら、あとに引けないよね・・・。」
それだけじゃなさそうなんだけどね。
「コバちゃんから聞いたんだけど、三上さんが宣戦布告だって言ったって本当?」
「ああ。確かにそう言ってたなあ。」
「それ、わたしにってことだよね?」
「・・・まあ、そうみたいだった。」
「じゃあ、わたしが出て行かないとダメってことだよね?」
だけど。
「そんな必要ないよ。」
「ううん。そうじゃない。わたし、最近はみんなに守られてばっかりで、立ち向かうことを忘れてた。今回は、それじゃ解決できないと思う。」
何か考えがあるのかな?
「全面対決しかないかな。」
え?
橘さんと三上さんが向かい合っているところが目に浮かんだ。その間でおろおろする自分も。
大丈夫なのか?
不安が顔に出ていたらしい俺に、橘さんがにっこりと微笑む。
「大丈夫。大声でケンカするわけじゃないから。」
それでもやっぱり不安だ。橘さんがまたみんなの注目の的になってしまう。
そう言うと、彼女は笑った。
「もう慣れた。それより、本社にいる椚くんの方が苦労するよね。」
そうやって、俺のことまで心配してくれるんだね。
「あれ!こんな時間だ。」
立ち上がった彼女のそばに行って抱き締める。
そのまま彼女の耳元でささやいた。
「今日は泊って行って・・・・・!?」
「やだ!だめ!」
気が付くと、腕の中には彼女はいない。下からくぐって抜けだしたんだ!
それに、「やだ」って・・・?
俺たち、仲直りしたばかりの恋人同士じゃないの?!
ショックで呆然とする俺の前で、橘さんは耳を押さえて笑っている。
「ごめん!わたし、ないしょ話できないの。くすぐったくて。子どものときからずっと。あー、ぞわっとする!!」
本当に首や肩のあたりが気持ちわるいらしい。俺の腕をくぐって乱れた髪のまま、耳を押さえて体をくねらせている。
その姿が妙に色っぽい。・・・言葉はちょっとあれだけど。
もう一度、彼女を抱き寄せた。
今度は逃げられないように。
* −−−− * −−−− * −−−− * −−−− * −−−− *
橘 春香
あらら?