佐伯勇樹(14)5月14日
連休が明けて1週間以上たつ。
今日は5月の2回目の金曜日、康太郎はグループ研修に行っている。
康太郎は先週のグループ研修で、椚さんと橘さんの諍いの原因が三上さんだと聞いて来た。あの会場では口止めをしたと言っていたけれど、やっぱり、人の口に戸は立てられない。予想はしていたけれど。
康太郎のグループは先週と今週の活動が、椚さんと三上さんのグループと合同になっていると言っていた。3人の指導担当のうちの2人が騒動の当事者になっていることで、戸惑っているようだ。
彼は橘さんに世話になっているから橘さんの味方だと宣言していた。
それで、先週の研修中の様子を詳しく俺とコバちゃんに報告してくれた。どうやら新人の中に、椚さんを助けようと動いているメンバーがいるらしい。
にもかかわらず、椚さんは、未だに三上さんとの決着をつけられないでいる。昨日も、憔悴した椚さんから電話があった。
三上さんのバイタリティにはあきれるを通り越して、尊敬の念すら覚える。
それとも、椚さんのとっている方法が甘いのだろうか?
何日か前、俺にしつこい相手の断り方を尋ねていたっけ。
無視するのが一番じゃないかと言ったけれど、仕事でつながりのある相手だと難しいかもしれない。
それに研修中は、さすがに新人たちの前であからさまに無視することはできないだろう。
橘さんは、連休明けから変わらず出勤している。
初日は心配だったので、その日の朝も、橘さんの乗る駅で待っていた。
翌日からは橘さんが大丈夫だと言うので、駅では待たずに、なるべく同じ電車になるように通勤している。
職場でも、橘さんはしっかりしている。
椚さんのことはひと言も口に出さない。
仕事はきちんと、前と同じようにやっている。相変わらず優秀な社員だ。
一緒に外回りに出るときは、車の中で冗談を言ったりすることもある。
でも、いつもさびしそうな雰囲気が漂っている。
そんな橘さんを、俺はそばで見ていることしかできない。
何もしてあげられないことが悲しい。
椚さん、俺、けっこうつらいです。
午後から、橘さんと一緒に車で外回りに出た。
橘さんが相談されている土地を見に行ってから、俺の担当の現場へ行く予定。
橘さんが見に行く土地は、古い住宅街の中だった。
地図で見ると簡単に行けそうだったが、途中の道が狭かったり、進入禁止だったりしてなかなか行き着けない。仕方がないので、コインパーキングに車を止めて、歩いて行くことにした。
住宅街には古い家と新しい家が混在している。
全体的に道は狭くて、両側にコンクリートの塀や生け垣が続く。庭で犬が吠えているのも聞こえるのどかなところだった。
駐車場から7、8分歩くと目的地に着いて、土地を一回りする。橘さんが俺に検討事項を相談をしながら写真を撮って、20分ほどで、ここは終了。
駐車場へと戻る途中、さっきの犬の激しい吠え声が、キャンキャンと生け垣のすぐ向こうから聞こえてきた。声からすると、小型犬だ。
橘さんがちょっと笑って言った。
「ずいぶん、わたしたちのことが気になるみたいですね。」
犬の吠え声の横を通る。明らかに俺たちに向かって吠えている。
「犬は好きなんですけど・・・。」
と振り返ったとき、ガサっという音とともに、通り過ぎたばかりの生け垣から犬の頭が出てきた。続いて体も!
「えっ?」
橘さんが驚いた声を上げる。
犬が激しく吠えながら俺たちの方に走ってきた!
いくら犬が好きでも、知らない犬に吠えながら追いかけられるのは恐い。
逃げちゃいけないって聞いたことがあるけれど、あんなに興奮している犬を見たら、逃げずにはいられない。
「橘さん!早く!」
橘さんの腕をつかまえて走る。
犬がますます吠えながら、全速力で追ってくる。飼い主の声は聞こえない。
どのくらい走ったのだろう。
いくつか角を曲がったところで、ようやく犬があきらめたことがわかって立ち止まった。2人とも話ができないほど息が切れている。
道の先に広い公園が見えたので、一休みしようとそちらへ向かう。木陰にベンチを見つけて、ほっと一息。
橘さんも俺も、しばらくは何もしゃべることができなかった。
ふと横を見ると、膝にひじをついて、手で頭を支えていた橘さんの背中が震えている。
ショックで泣いちゃった?!
どうしよう?!
おろおろする俺の耳に聞こえてきたのは、橘さんの笑い声だった。
間違いなく。
そのうち顔を上げてベンチの背によりかかりながら、空に向かって大きな声で笑い始めた。
橘さんのこんなに元気な笑い声を聞いたのは何日振りだろう。
「あんなところから、犬が出てくるなんて!」
そう言って、お腹を抱えて笑っている。
「あんなに・・・、あんなに夢中で走ったの、人生で初めてかも!」
笑いが止まらない橘さんを見ていたら、俺も笑いがこみ上げてきた。確かに、生け垣から犬が出てきたところなんて初めて見た!
その光景を思い出して、それと、隣で大笑いしている橘さんのことが嬉しくて、俺も思いっきり笑った。
少し離れた砂場で子供を遊ばせていた女の人たちが、俺たちを不思議そうに見ていたけれど、笑いが止まらなかった。
橘さんと一緒に笑うのは、すごく幸せな気分だ!
ようやく落ち着くと、橘さんは晴れ晴れとした顔をしてのびをした。
「ああ、すっきりした!こんなに笑えるなんて!」
そして、俺の顔を見て言う。
「今まで心配かけちゃって、ごめんなさい。」
と頭を下げる。
「何だか元気が湧いてきました。今なら何でもできそうな気がする。」
そう言って、橘さんは楽しそうな笑顔を見せた。
車を止めた場所まで行く間、橘さんはさっきまでとは打って元気いっぱいだ。弾むような足取りで歩く。
駐車場に着くと、車の運転をすると言う。
確かにさっき、何でもできそうって言っていたけれど、いきなりだし、椚さんから運転は上手くないってきいている。
「大丈夫ですか?」
不安を抱きながら訊くと、
「免許証はいつも携帯してるから大丈夫です!」
と、論点の違う答えが返ってきた。
まあ、次の現場までそれほど遠くないし、初心者じゃないんだから。椚さんも、誰かが一緒に乗ってればいいようなことを言ってたから、上手くなくてもどうにかなるんだろう。
それは間違いだった。
確かに、どうにかはなった。でも!
行き先が遠くなくてよかった。
もう絶対に、橘さんが運転する車には乗らない。
事務所に戻るときに運転を断っても、橘さんは笑っていたし、車の中でも元気は消えなかった。
戻ったあとも、コバちゃんに「心配かけてごめんね。」と謝り、以前のとおり明るい表情で机に向かう。
コバちゃんが驚きながら俺を見て、説明を求めた。
すると、橘さんが思い出し笑いをしながら説明する。
「犬が。」
「犬?」
「犬が生け垣から飛び出してきて、思いっきり吠えながら追いかけてきたの!わたしたちも思いっきり逃げて、逃げ切ったあと、今度はそれが可笑しくて・・・。」
また笑いが止まらなくなったようだ。
コバちゃんはよく分からないながらも、橘さんが笑ったことで元気が出たことは理解できたようだ。
「とりあえず、元気になってよかったですね!」
「ありがとう。」
だけど、椚さんのことはひと言も口にしない。
仕事中だから避けているのだろうか?
俺たちも、なんとなく言い出しにくい。
まさか、椚さんのことをすっぱりと忘れて元気が出たなんてこと、あるのか?
俺の心配をよそに、橘さんはコバちゃんと俺に向かって言った。
「今日、ちょっとだけ飲みに行かない?」
椚さんのことはどうしたらいいんだろう・・・、と思いつつ、橘さんの元気がこのまま続いてほしいと思うと、その申し出を断ることはできなかった。