佐伯勇樹(12)回想・その10
今年の4月。
椚さんがいなくなって、康太郎がやって来た。
それがまた、俺のごっこ遊びを変えることになった。
康太郎が来た日に内輪の歓迎会をした。
あの会では、康太郎を気に入っていたコバちゃんが、未成年の康太郎用にお酒をどんどん頼んでしまったのだ。
それを飲ませないように橘さんが割って入って、橘さんと俺がたくさん飲んでしまった。コバちゃんは、ただ大笑いしていただけだ。
今、考えてみると、康太郎にあんなところを見せてよかったものかどうか・・・。
橘さんはかなり酒に強くて、酔うと明るい。
まるで、康太郎の保護者のような顔をしていたのが可笑しかった。
コバちゃんと俺が「康太郎」と呼ぶので、弟みたいな気がすると言う。康太という名前の弟さんがいるのだそうだ。
康太郎が喜んで、自分も弟みたいに思ってもらえると嬉しいと言う。
それに続いたご機嫌の橘さんの一言。
「じゃあ、わたしも『康太郎くん』って呼ぼうかな」
俺はいつもより多めの酒で思考が普通じゃなかったんだろう。何も躊躇しないで口に出してしまった。
「じゃあ、俺も。」
「はい?」
橘さんが俺を見る。
「俺も名前で呼んでください。」
橘さんは目を丸くして、コバちゃんが吹き出しそうになってむせた。康太郎は・・・覚えていない。
「俺は康太郎の相談役だから、康太郎の兄貴分です。ということは、康太郎と同じように橘さんの弟です。だから、俺も名前で呼んでください。」
酔っ払いの理屈だ。
「名前でって・・・?」
橘さんは笑いをかみ殺している。
「俺の名前は勇樹です。」
「だいぶ酔っ払ってるね。」
「いいえ。そんなに飲んでいません。橘さんと同じくらいです。」
言っているうちに、なんだか弟という立場がすごく楽しそうな気がしてきた。しかも、今度は“秘密の”じゃない。
それに。
それに、今は椚さんはいない。
ちょっとだけ。
ちょっとだけ、橘さんにわがままを言ってみたい。
橘さんには椚さんという恋人がいるのはわかっているけれど、弟ならいいじゃないか!
無理に橘さんの心を自分に向けようとしているわけじゃないし!
禁断の地に足を踏み入れるような怪しい魅力に抗うことができなかった。
「でも、おかしいよ。」
橘さんは笑いながら止めさせようとしたけれど、俺は酒の勢いを利用して主張し続けた。
「おかしくなんかありません。」
「なんで康太郎はいいのに、俺はダメなんですか。」
「いいじゃないですか〜。」
「俺が年下なのは間違いないし。」
橘さんの困った顔・・・と言っても、去年のとは違って、お姉さんみたいな、駄々っ子を見るような顔が嬉しくて、ますます調子に乗ってしまった。
コバちゃんはひたすら大笑い。
笑われたっていい。弟がいいんだから!
結局、橘さんも酔っ払っていたこともあり、俺の粘り勝ちで、酒の席でだけという条件付きで、俺を「勇樹くん」と呼んでくれることになったのだった。
あとになって、椚さんが今でも橘さんから「椚くん」と呼ばれていることを思い出して、優越感に浸った。
翌週、係での歓送迎会があり、椚さんも来た。
さすがに課長や係長の前では言えなかったけれど、もう一軒行ったところで、橘さんに約束どおり「勇樹くん」と呼んでもらった。
椚さんが何も言わなかったということは、橘さんから話を聞いていたんだろう。
それはもちろん予想どおり。
椚さんの悔しそうな顔を見ることができたから、俺は満足。
それに、橘さんに「勇樹くん」と呼ばれるのは、ものすごく心地いい。
嬉しくて、幸せだ。
ほかの人とは違う、特別扱いだから。
そこで椚さんが、本社の女の人たちとの飲み会に参加しろという話を持ち出した。同じような話がコバちゃんにも持ち上がっているらしい。
2人とも嫌がっていたら、橘さんが一度に両方を済ませてしまおうと提案した。
あの調子だと、そのときもかなり飲んでいたみたいだ。妙に明るくて、楽しげだった。
面白がっているのがありありとわかる。
そのうちコバちゃんが、橘さんが一緒に行くなら、と言ってOKした。
橘さんはそれに勢いづいて、俺に「勇樹くん」と話しかけ、俺は断れなくなってしまった。
断れないということもあったけれど、橘さんが行く所なら、俺も一緒に行きたかったんだ。
そのときは、あんなことが起こるとは思っていなかったし。
弟だと宣言してみたら、不思議なことに、橘さんと距離が近くなっていた。
橘さんはもともと弟がいるから、俺に対しては姉として接する方が簡単なのかもしれない。
康太郎に仕事を教えることでお姉さんぽくなっている橘さんには、つい、甘えたくなってしまう。さすがに仕事中は気を付けているけれど。
甘えるだけじゃなくて、逆の部分も出やすくなった。“俺を頼りにしてください”と言いやすくなったんだ。
橘さんも、俺に遠慮することが減ってきた。
仕事の相談も、雑談も、コバちゃんや椚さんにするのと同じくらいしてくれるようになった。
そして、とうとう。
あんなにうらやましかった“腕に触れて呼ばれる”ところまで行き着いた!
初めて腕に触れられたときは、あんまり驚いて、橘さんの顔をまじまじと見てしまった。
用事があって、俺を呼びながらちょっと触っただけのつもりの橘さんは、そんな俺の様子に逆に驚いていた。
「ごめんなさい。そんなに驚かせた?」
急に呼ばれて驚いたと思ってくれたらしい。
せっかくここまで漕ぎつけたのに、ここで勘違いされて、触っちゃいけないと思われたら困る!
「いえ。大丈夫です。」
笑顔、笑顔。・・・なんて考えなくても、嬉しくて顔が緩む。
やったー!
と叫びだしたい気持ちを押し殺して、橘さんの話を聞くためには、ものすごい集中力が必要だった。
橘さんに触れられた腕に、いつまでもそのときの感触が残る。
帰ってからそのジャケットはクリーニングに出すのをやめようかと思ったほどだった。
そうやって自分の心を、ますます橘さんに縛りつけていた。
橘さんの心は椚さんしか見ていないのに、俺の心はひたすら橘さんを見ている。
そこから先へは進めないのに。
橘さんの“特別”を確保できたことが、ただ嬉しかった。
恋人じゃなくても、近くにいたかった。
ときどき悲しい思いをしても、近くにいられる喜びの方が大きかった。
そして、三上さんの事件が起きた。
橘さんは、椚さんが戻って来なければ、これから先、誰のことも愛さないだろう。
橘さんが言っているのはそういうことだった。
それを理解したとき、俺には弟として橘さんを守ることしか、自分に残された道はないのだと思い知った。