佐伯勇樹(9)回想・その7
橘さんと椚さんの間には入り込めないとわかっても、橘さんを好きだという気持ちが、簡単に消えるわけではなかった。
自分の気持ちを伝えるかどうかで悩んでいたときと同じように苦しかった。
“もしかしたら”という希望も捨てきれなくて困った。
ただ、橘さんを見ていると、楽しいし、心が和む。
話しかけられると心が弾む。
嬉しいけれど、やっぱり苦しい。
10月になって間もなく、俺たちがびっくりすることが起きた。
橘さんが怒ったのだ。本当に、心の底から。
いつも穏やかで楽しい橘さんが、あんなに怒るなんて!
しかも、ものすごく恐い。
誰でも年に何度かは仕事中に頭に来て、悪態をついたり、怒ったりすることがある。
でも、そういうときでも、周りが「どうしたの?」とか「たいへんだったね。」とか、話しかける余地がある。
けれど、その日の橘さんの怒り方は違う。
一見穏やかに見えるんだけど、橘さんの周りに立ち込める気配が恐くて、俺も椚さんも話しかけることができないほど。
椚さんが急に外回りに出てしまったのは、きっと、その恐ろしさに耐えられなくなったからだ。
コバちゃんが橘さんから話を聞いて、終業後に飲みに行くから付き合うようにと、俺と椚さんに命令した。橘さんも笑って「よろしくね。」と言ったけれど、その笑顔からも怒りがにじみ出てくるようで、とても断ることはできなかった。
居酒屋での橘さんは、怒りを引きずったまま、速いペースで飲み続けた。
怒っている理由は、受けた電話の相手が、橘さんが女性だという理由だけで、仕事ができないと決めてかかったからだった。
ずいぶん古い考え方だ。それとも、その電話の相手は、そういうところで仕事をしているのだろうか?
・・・だけど。
荒れている橘さんは、それなりに面白かった!
椚さんがおろおろしているのも面白かった。
橘さんのこんな面を見るのは初めてだったし、怒っていても元気いっぱいの橘さんの世話をするのが楽しくて、俺は召使いみたいな気分でサービスした。
こういうのもいいな。
お世話係?執事?
ただの同僚じゃつまらないけれど、執事だったら、なんかいいかも。
好きな相手に仕えるなんて、楽しそう!
もちろん、秘密の、だけど。
本人も気付かないところで、いつも陰ながら守ってるなんて、かっこよくないか?
よし、これからはそれで行こう!
たぶん酔っていたのだと思うが、そのときの思い付きが、俺を苦しさから解放してくれた。
完全にではないけれど。
橘さんに拒絶されることもなく、守っているという言葉で満足感が得られて、そばにいる言い訳もできる。
やった!
ちょうどその直後、大学の友人から結婚するという電話があった。
お互いの近況を話しているうちに、俺が部屋を探しているというと、その友人が住んでいる部屋はどうかと言ってくれた。結婚で引っ越すから、大家に紹介してくれると。駅から近くて、通勤にも今よりもかなり便利になる。
しかも、
橘さんが住んでいる駅と近い!
俺は家賃もよく確かめずにそこに決めた。