佐伯勇樹(8)回想・その6
橘さんを好きだと認めてはみたものの、そこから先へはなかなか進まない。
職場では同僚として、それまでと同じ関係が続く。
でも、認めたことで気持ちがすっきりした。
ドキドキしたり、感情が乱れたりすることに理由がついたから。
あとはそれをうまく隠せばいいだけで、感情を隠すことはもともと得意だった。
橘さん本人は、あまり恋愛関係に敏感な人ではないから、俺がそんな気持ちでいるなんてことは、まったく気付かないだろう。
だからといって、楽になったわけではない。むしろ苦しい。
橘さんと話したい。
橘さんに微笑んでほしい。
橘さんに触れたい。
自覚してしまったせいで生まれるストレートな想いは、ただつのるばかり。
休日ともなれば、日々の橘さんを思い出すばかり。
会いたい。会いたい。会いたい。
まるで呪文のように浮かんでくる言葉。
この気持ちをどうしたらいい?
1.伝える。
2.同僚としてこのまま一緒にいる。
3.捨て去る。
3番は無理!・・・今はまだ。
2番は今のまま。・・・つらい。苦しい。
建設的なのは1番だけど、それは、そう簡単に決心できることではない。
だって、断られるかもしれない。
断られたら、どうしたらいい?同じ職場なのに。
毎日顔を合わせるのがつらい。
橘さんだって困るだろう。
彼女の困った顔を見ながら、それが自分のせいだと思うのはつらい・・・。
そんなことになるなら、黙っている方がいい。
“断られるかもしれない。”
そう思うのは、橘さんとの距離が縮まらないから。
橘さんは相変わらず円の外側にいる。
前よりは近くなったようには感じる。でも、やっぱり椚さんやコバちゃんのうしろにいる。
それと、椚さんのこと。
橘さんは、どうしてあんなに椚さんには安心しているんだろう。
いくら同級生だったからって、あんなに仲良くなるものなのか?
絶対に、コバちゃんと椚さんの間より近い。
人間関係の距離だけじゃなくて、実際に、物理的な距離も近い。
だって、橘さんはときどき、椚さんを呼ぶときに椚さんの腕に触れるんだ。軽くだけど。
そりゃあ、隣なんだから、それはありかもしれないけれど、それでも!
それを見ると、椚さんのシャツの袖にまで嫉妬を覚える。
コバちゃんは男女関係なく肩に手をかけてきたりするけれど、橘さんが触れる男は椚さんだけだ。
俺と話すときは、手に持ったものを抱きしめているか、両手の指を組んでいる。
それを見ると、さびしくなる。
自信がなくなる。
もし、俺が橘さんに手を差し伸べたら、その手を取ってくれるだろうか?
そして、俺の隣に立ってくれるだろうか?
いや、絶対無理だ!・・・たぶん。
でも、今のところは橘さんと椚さんの間に恋愛感情はなさそう。
俺の考え過ぎで、2人の間にあるのは親友のような絆かもしれない。
もしかしたら、橘さんは俺の方を見てくれるかもしれない。
そう思うと、少し勇気が出てくる。
もしかして上手くいくかも。
告白の場面を想像してみる。
俺の前にいる橘さんは困った顔をして俺を見る。
返事は小さな声で「ごめんなさい。」。
そして、うしろに下がってしまう。背中は向けないけれど。
そのあとは、今までよりもっと距離が遠くなる・・・。
そんなことになったら、耐えられない。目の前にいるのに。
半年我慢して、異動できればいいが、そんな保障はない。
でなければ、笑って冗談にすり替えられてしまうかも。そういうところが、橘さんにはありそうだ。
その方が、距離が遠くなってしまうよりはいい。
でも、賭けだ。
こういうことって、誰かを好きになった人にはつきものの悩みなんだろうと思いつつ、これほど悩んでるのは自分だけのような気がする。
ある瞬間には、悩むことに耐えられなくなって、または希望的観測が勝って、伝えてしまおうと決心する。・・・けれど、次の瞬間には、断られることとそのあとの気まずい日々のことが浮かんできて断念する。その繰り返し。
悩みながら、日々が過ぎて行く。
仕事はもちろん忙しかったし、それに加えて、住んでいるアパートの建て替えの話が来ていて部屋探しをしないといけないことも、橘さんへの想いからくる苦しさを紛らわすのにはありがたかった。
そして9月のある日、俺にとっては決定的と思えるようなことが起こった。
その日、椚さんは朝から本社に出張だった。
俺は外回りに出て、3時ごろ事務所に戻った。
いつもの橘さんの声に迎えられて、ほのぼのとした気分で席に着いてしばらくして、「あれ?」と思った。
椚さんが出張から戻っていて、橘さんの質問に答えている。
それ自体はいつもと変わらない景色なのだけれど、微妙にいつもと違う。
何が?と考えて、気が付いた。椚さんの声とまなざしだ。
まなざし・・・というか、ほんのかすかな表情。
橘さんに向けられる声と表情に、以前にはなかったいたわるような優しさが加わっている。
たぶん、いつも2人を見ている俺以外は気付かないだろう。橘さん本人も。
椚さんだって自覚しているかどうか怪しいものだ。
椚さんに何かあったな。
あったとすれば、午前中の出張か?
何があったとしても、この2人の間に自分が入り込む隙がなくなった、と感じた。
2人ともよくわかっていないようだけれど、橘さんが特別に椚さんを頼りにすることを、椚さんは受け入れている。前からずっと。
今はそれだけじゃなくて、椚さんが橘さんに与える優しさを橘さんは受け入れている。
2人の間には、自然とそういう了解が生まれている。あまりにも自然過ぎて、お互いに気付いていないんだ。
あとは時間ときっかけの問題。
俺は失恋決定?
まだ何の行動にも出ていないのに。
それとも、俺の考え過ぎだろうか?
その日、一緒に残業になった椚さんに、本社で何かあったかと尋ねてみた。
質問の意図を知らない椚さんは、最初は仕事の話をしていたが、そのうち思い出したらしく、ちょっとためらってから話し出した。
「中村さんに会ったよ。」
中村さん?
「橘さんの別れた彼氏。俺が新人のときに世話になった人だって話したっけ?」
そういえば、聞いたかも知れない。
「いつも俺を見かけると声をかけてくれていて、今日も一緒に昼飯を食べたんだ。そのときに、橘さんのことを話してくれた。橘さんが俺たちの職場にいることを知っていて、きっと心配していたんだと思う。俺が、橘さんから直接話を聞いたって言ったら、少し驚いていたけど。」
「その人は橘さんのことを何て言ってたんですか?」
「詳しくは話せないけど、」
と言って、椚さんはちょっと考えた。
「付き合っている間に、橘さんが自分のせいで変わってしまったって。このままだとかわいそうだから別れ話をしたって。」
「・・・なんか、勝手ですね。」
「うん。俺もそう思った。でも、中村さんと一緒にいて橘さんが変わったっていうのは、ありそうな気がした。橘さんは期待に応えようとする人だから。」
そうかもしれないけど・・・。
「今の橘さんは元気でよく笑ってるって言ったら、中村さん、ほっとしてた。」
「椚さんは、橘さんのこと、どう思います?」
俺の精一杯の質問。
「そうだなあ・・・。今の、楽しそうにしている橘さんが、ずっとこのままでいられたらいいと思う・・・かな。俺たちで何かしてあげられることがあるといいけど。」
椚さんは十分に果たしていると思う。でも、椚さんは気付いていない。
「そうですね。」
心が重い。黒いペンキで塗りつぶしたようだ・・・。