佐伯勇樹(5)回想・その3
引き継ぎが終わったあと、橘さんは本当によく勉強して、早く仕事を覚えようと一生懸命だった。
俺に分からないことを訊いてくるのは、自分でさんざん考えて、試したあとだった。
まずは一人でやってみて、どうしてもできないときだけ、俺にその一か所だけを訊きにくる。
そこを説明すると、「じゃあ、あとは自分でやってみます。ありがとうございました。」と戻って行く。
高校や大学のころ、俺の周りには、何かと頼って来る女子が大勢いた。そのくらい自分でできるだろうと思えるようなことを抱えて、俺を頼って来るのだ。
ただ近付く口実なのか、何もできない女が可愛いと思っているのかよくわからないが、とにかく、やたらと多くてうんざりした。
二十歳を過ぎたころから断るコツを覚えたのでだいぶ減ったけれど、そんな経験から、簡単に他人を頼る人は男女を問わず好きじゃない。
だから、橘さんの頑張る姿は、俺の彼女への評価をものすごくUPさせた。
それに、そんなふうに頑張ったら、仕事に慣れるのも早い。
彼女はあっという間に、俺のことは必要なくなってしまったようだった。
4月の後半に入ったころ、コバちゃん、椚さん、橘さんと俺で飲み行ったことがある。
そのときに、橘さんが、前の年の暮れに恋人にふられた話をした。
あんまりあっけらかんと話すので、俺の方が気が気じゃなかった。
本社ではかなりうわさになっていたそうで、俺たちもどこかで聞くこともあるだろうからと、自分から話してくれたのだ。
4か月の間に、橘さんの中で整理がついていたのだろう。
それでも3年も一緒にいた相手を自分の記憶の中で片付けるのは、簡単なことではなかったはずだ。
強い人だなあと感心した。
5月になると、橘さんが職場に馴染んで、リラックスして机に向かっているのがわかるようになった。
彼女の
「いってらっしゃーい。」
と
「お帰りなさーい。」
の声が事務所に響くのも、あたりまえのことになっていた。ときどき、コバちゃんの声も重なる。
橘さんは、実に表情豊かな人だった。
一人で仕事をしているときでも、パソコンに向かって独り言を言ったり、慌てたり、落ち込んだり、見ていて楽しい。
別に注目しているわけではないが、席が向かい合っているから、目に入ってしまうのだ。
彼女がいることで、毎朝、職場に来るのが楽しみになった。
ある日、こんなこともあった。
俺と橘さんと椚さんの席の真ん中に電話が1台ある。
誰でも取れるように真ん中にあるのだが、橘さんが来てからは、いつも1コールで彼女が取ってくれるので、俺と椚さんは申し訳ないと思いつつ、彼女に頼るようになっていた。
その日、電話が最初に鳴ったときも、俺はその音を聞きながら仕事を続けていた。
2コールめが聞こえて初めて、「あ、出なくちゃ。」と思って顔を上げて、思わず笑いそうになった。
橘さんが片手で口元を押さえて、もう片方の手で「ごめんなさい。」のポーズをしている。
机の上には今朝、誰かのお土産で配られた温泉饅頭の包み。
彼女が目に入ると笑いが抑えられなくなりそうで、電話を取りながら思いっきり目をそらした。
見ないようにしようと思っても、つい様子をうかがいたくなって、電話で話しながらチラチラと見ては笑いをこらえていた。
橘さんは、温泉饅頭をまるごと一口で食べてしまったのか、なかなか飲みこめなくて苦労している。
女の人が人前でそんな状況に陥っていることも珍しいような気がして、そんなことをする橘さんは子供みたいだと思った。
夏が近づいたころ、本社に行った俺は、同期の女の子に呼びとめられて、そこで橘さんのうわさ話を聞いた。
ずいぶん心ない内容で、その話を教えてくれた人も橘さんのことを好きではないように思えた。
でも、相手に断られた理由が、「真面目すぎて面白味のない女性」というところがよくわからない。
うちの事務所にいる橘さんは、確かに真面目だけれど、見ているとものすごく面白いから。
コバちゃんも橘さんのうわさを仕入れてきていて、本社では“お姉さん的存在”で、面倒見がよかったという話だった。
これもまた、どうも今の橘さんとは違うようだ。
とは言っても、まだ異動してきたばかりで、彼女が面倒をみるような相手がいないのだけど。
今のところ、俺が面倒を見てあげたい・・・というか、見てあげなくちゃと思える。
年齢は橘さんの方が上だけど、仕事を俺から教えたせいか、彼女の方が年下のような気がする。なんとなく子供っぽいところもあるし。
コバちゃんは橘さんとは初めから気が合っていたから、俺が聞いて来たうわさが癪に障ったようで、
「橘さんを守ってあげよう!」
と宣言していた。
だけど、うわさってひどいものだ。
俺も、学生時代に何度かいやな思いをした。
だいたい、人の興味を引く話は不幸話のことが多い。それと恋愛関係。
しかも、本人が知らない間に広まっている。
仲のいい友人が「本当か?」と俺に訊きに来るまで知らなかった、というのが普通だった。
でなければ、誰かにあてこすりを言われるとか。
橘さんは本社にいる間、どんな気持ちだったのだろう。
彼女の味方になってくれた人はいたんだろうか。
きっと、別れたという事実と、その理由の憶測が入り混じっていただろう。
まるでその場に居合わせたみたいに話す人もいただろう。
でも、あからさまに彼女にそれを尋ねた人はいなかっただろうな。
俺に話した人のように、橘さんにいい印象を持っていない人も多かったのかもしれない。
コバちゃんの話だと、相手の人が有名人だったそうだから、妬まれていたんだろうけど。
憔悴した様子の橘さんが目に浮かんできて、なんだか気の毒になった。
それと同時に、今の元気に仕事をしている橘さんを思い出して、うちの事務所に異動してきたことが、彼女の心にとてもよかったのだと思った。
俺も、それに一役買えているなら嬉しい。