衝撃と沈黙
「椚さん。私、椚さんのことが好きです。椚さんには橘さんがいるのはわかっているけど、私にチャンスをもらえませんか?」
あまりにも思いがけない言葉で、すぐには理解できない。
カタン、と小さな音がして、そちらを見ると、橘さんが青ざめた顔をして、お皿をテーブルに置いたところだった。
そのまま俺の方を見ずに、さっと横を通り抜けて部屋から走り出て行く。
「橘さん!」
すぐに反応したのは佐伯だった。
俺も追わなくちゃと体を扉の方に向けたとき、誰かが近付いて来た気配がして、いきなり強烈な平手打ちを食らった!
あまりの勢いに、そのままよろけて床に尻もちをつく。
あわてて見上げると、コバちゃんが、俺の前に仁王立ちになっていた。
「なにやってるのよ!!」
え?これって、俺のせい?
「男にはね!好きな女ができたら、ほかの女を近付けないように警戒する、義務があるのよ!!」
・・・・・。
「それに、あんた!」
コバちゃんが三上さんに指を突き付ける。
「わざとやったでしょう。」
え?
「春香さんに聞こえるように、タイミングを見計らってやったでしょう!」
なんて!?思わず、三上さんを見る。
「そうよ。宣戦布告だもの。でも彼女、逃げちゃったわね。」
三上さんは平然と言った。
「あたしの大好きな春香さんに、こんなことするなんて!絶対許さない!これからあんたが好きになる男、全部あたしが奪ってやる!!」
そう言って、コバちゃんは怒りに震えながら泣き出した。
呆然としている俺の目に、誰か女の人が彼女に駆け寄って、肩を抱いているのが見える。
「椚。追いかけなくていいのか。」
腕に手がかけられて、はっとした。そうだ。行かなくちゃ。
なんとか立ち上がったけど、頭がくらくらする。
頬を叩かれたことと、目の前で繰り広げられた光景で、思考が混乱している。
でも、橘さんのところへ行かなくちゃ、という思いだけは心にあって、どうにか脚を動かすことができた。
外へ出たものの、どこを探せばいいのかまったくわからない。
暗い道が左右に延びているばかり。
とりあえず右へと走る。どうか見つけられますように。
やみくもに走り回ったけれど、橘さんも佐伯も見つからなかった。
そうだ、携帯・・・と思って、橘さんに電話したけど、出ない。そういえば、彼女はいつも、バッグに携帯を入れているんだっけ。
佐伯は、と思ったところに、西村からかかって来た。
「橘さん、戻って来たけど、佐伯さんが付き添って、そのまま帰ったよ。とりあえず戻って来い。」
思いのほか遠くまで来ていたようで、レストランに着くまで10分以上かかった。
暗い道を急ぎ足で戻りながら、今までに起こったことを頭の中で繰り返していた。
三上さんのことは、まったく予想外の出来事だった。
いや、それとも、コバちゃんの言うとおり、俺の警戒が足りなかったのだろうか。
それより、三上さんが言った、あの言葉だ。
去年、橘さんから聞いた、中村さんに断られたときのセリフ、そのままじゃないか。
なんてことだ。
橘さんの気持ちを考えたら、三上さんを許すことはできない。
レストランのロビーで西村と河野さんとコバちゃんが待っていてくれた。
とりあえずお開きにして、今回のトラブルについては口止めをしておいたと西村が言った。
「ああ、そうだ。お金を払わなくちゃ。」
心は橘さんのことでいっぱいなのに、そんな事務的なことが浮かんできて口に出すと、西村が黙って俺の鞄を渡してくれた。
「椚さん、ごめんなさい。」
河野さんがしょんぼりと謝っている。どうして?
「まさか、三上さんが椚さんを好きだなんて思わなくて。てっきり佐伯さんだとばかり・・・。」
そんなこと。
ふう・・・とため息が出た。
「気にしなくていいよ。俺だって、そう思っていたんだから。」
「今、思い出してみると、三上さんが私のところに来たときに、『椚さんも来るの?』ってきかれたの。でも、気付かなくて。」
「うん。わかるよ。大丈夫。」
河野さんのせいじゃない。
「椚さん、ごめん。」
コバちゃんの声。もう落ち着いた?
「バレーボールの要領で叩いちゃったから。顔、腫れてる。」
そういえば、バレー部だったんだっけ?どうりで強烈だったわけだ。
「いいよ。橘さんをかばってくれて、ありがとう。」
きっと、橘さんが聞いたら喜ぶ。
「あとは俺がやっておくから、彼女のところに行け。」
西村。すまない。
「うん。ありがとう。」
鞄を取って立ち上がる。
橘さんのところに行かなくちゃ。
途中で橘さんに電話やメールをしたけれど、応答はなかった。
橘さんの駅に着くと、改札口の手前で佐伯に呼びとめられた。
俺が来るものと思って、待っていたらしい。
「橘さんの代理で、椚さんに話があります。」
佐伯が思いつめた顔で俺を見る。
・・・橘さんの代理?
どうして?
佐伯に促されて、駅の隅にあるベンチに並んで座る。
「まず最初に、橘さんは無事に部屋に着きました。」
・・・よかった。
「俺が玄関まで送って、見届けましたから大丈夫です。」
「うん。ありがとう。」
「橘さんは、椚さんに会うのが恐いと言っています。」
恐い?
「椚さんに、橘さんではなく三上さんを選ぶと言われるのが恐い、と。」
どうして。
「そんなこと、ありえない。」
「俺も、そう言いました。椚さんが橘さん以外の人を選ぶはずがないと。そうしたら、」
佐伯もつらそうな表情になる。
「前と同じだと、橘さんは言いました。3年も付き合っていたのに、相手の心は変わってしまった。人の心に“絶対変わらない”はないんだって、橘さんは言うんです。」
あの言葉。
「椚さんの口から、別れの言葉を聞くのは耐えられない。今日は言われなくても、次は言われるかもしれない。会う度にそう思うのはつらい。だったら、会わない方がいいって。」
彼女の恐れが佐伯の言葉を通して伝わってきて、胸がきりきりと痛む。
「佐伯。覚えてる?去年、橘さんから聞いた話。中村さんと別れたときのこと。彼女が中村さんから言われた言葉と、今日、三上さんが言った言葉が、ほとんど同じだったんだ。」
偶然にしてもひどかった。
わざわざ橘さんの目の前で言うなんて。
「椚さん。俺から頼みがあります。」
改まった口調に、佐伯の顔を見る。
「三上さんのことがきちんと片付くまで、橘さんに会わないでください。」
・・・そんなこと、耐えられるだろうか?
佐伯が俺に頭を下げている。
「橘さんは、俺にとっても大切な人です。彼女が不安や悲しみを抱えている姿は見たくありません。椚さんが戻るまで、俺とコバちゃんで橘さんを支えます。だから、」
佐伯。
「椚さんが次に橘さんの前に立つときには、橘さんが安心して椚さんの隣にいられるようにしてあげて欲しいんです。」
ゆっくりと目を閉じる。
橘さんの笑顔が次々と浮かんでくる。
会う度に、この笑顔が悲しい想像で歪むのはいやだ。
俺のせいで、彼女がいつも不安を抱えているなんてダメだ。
すぐに彼女に会って、大丈夫だと安心させてあげたい。
だけど、頑固なところがある橘さんは、一度決めたことを簡単には覆さない。
今、無理に会って話をしようと思っても、ますます意固地になってしまうかもしれない。
「・・・わかった。」
俺が言うと、佐伯が顔を上げた。
「三上さんのことを早く片付けて、橘さんの前に戻る。それまで、彼女のことを頼む。」
「はい。」
佐伯がうなずく。
「ひと言だけ、橘さんに伝えてほしい。“絶対に、橘さんのところに戻ります。”って。彼女は俺からの電話には出ないし、メールも見ないかもしれないから。」
「わかりました。」
それから思い出したように、佐伯がポケットから指輪を取り出した。
「橘さんから渡されました。椚さんに返してほしいと言って。」
約束の指輪。
「ありがとう。次は返されないようにするから。」
「絶対ですよ。」
佐伯が青ざめた顔で俺を見た。
* −−−− * −−−− * −−−− * −−−− * −−−− *
橘 春香
椚くんからの電話。椚くんからのメール。
出るのが恐い。読むのが恐い。
いっそのこと、アドレスを消してしまう?
そうすれば、もう「椚くん」じゃなくて、ただの数字と記号の羅列。
ただの数字と記号の羅列は知らない人。
知らない人の電話には出ませんよ・・・。
でも、それじゃ、もう何も関係がなくなっちゃうってこと?
そんなのは嫌だ・・・。でも。
異動でたいへん!編はここで終了です。予想外に長くなってしまい、自分で困惑しています・・・。
次からは、今まで存在感の薄かった佐伯さんが語ります。