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逆鱗。



火曜日の朝、駅から歩く途中で西村と一緒になった。


前の晩の橘さんのメール(改行が多過ぎ!)に焦った記憶も生々しい俺は、彼の顔を見てドキッとした。


俺があの場に到着するのが、あと5分遅かったら・・・?


いや、彼女は断ったはずだ!絶対に!


そんな俺の心の葛藤には気付かないで、西村は今日も声が大きい。


本社の玄関を入ったところで、昨日の3人組に会った。今日はだいぶ元気そう。


3人で口をそろえてあいさつしてくれる。


「今日は元気そうだね。」


と言うと、浅川さんが


「ご心配をおかけしました。」


と、頭を下げた。なんだかしょっちゅうお辞儀をされている気がする。


松川さんがニコニコしながら話し出す。


「浅川さん、椚さんは優しいって、昨日からずっと言いつづけてるんですよ!」


浅川さんは、松川さんに「なんてこと言うのよ!」と慌てて制止してる。


「それは、どうもありがとう。俺にはそのくらいしか取り柄がないからね。」


俺がふざけて言うと、浅川さんは真っ赤になってしまった。


あれ?どうしよう?


「すみません!あの、椚さんに彼女がいらっしゃるのは知ってますから、心配しないでください!ただファンなだけで。」


「椚のファン、第一号だ。やったな!ははは!」


西村が豪快に笑っている。


なんだかおかしな気分。


自分にファンができるなんて、思ってもみなかった。


橘さんは何て言うだろう?






午後、俺の横を通りかかった緑川さんが立ち止まった。


今までのところ、緑川さんとの間にトラブルはない。初めに警告してくれた遠藤さんと西村のおかげだ。


「あら?ステキな時計ですね。」


そう言って、俺が机の上に置いていた腕時計を素早く手に取った。


「すみません。大事なものなので、返してもらえますか?」


慌てて手を出したけど、緑川さんは気にせずにながめている。


「どこのメーカーですか?」


と言いながら、時計を裏返す。


「・・・あら?名前?」


見つかった・・・。


「ハ・ル・カ。椚さんの彼女、ハルカさんっておっしゃるの?」


隣で遠藤さんが息を詰めるのがわかった。


「そうです。すみません、返してください。」


今度は返してくれたけど、何か考えるような表情が気になる。


ちらっと奥の席の方を見た?中村さんを見たのか?


俺もそっちを見たけど、中村さんは席をはずしていた。


ほんの少しの間のあと、緑川さんの声。


「前に、3階に同じハルカっていう名前の人がいて、」


俺がさっと顔を上げると、彼女と目が合った。


「男の人に取り入るのがお上手で、他人の恋人にまで手を出したんですよ。結局は自分も、どこかの誰かさんにその人を奪われちゃったけど。まあ、因果応報ってことですよね。」


なんてことを!


橘さんのことを言ってるのは間違いなかった。


「そうなんですか。」


俺は、落ち着いた声でありますようにと祈りながら、緑川さんに笑顔を向ける。


「僕の春香さんは、僕にとっては世界一、素敵な人です。緑川さんみたいに、人気はありませんけど。」


そして、一矢。


「緑川さんは、今までに何人くらいから申し込まれたんですか?モテるそうですから、きっと10人は超えてますよね?」


緑川さんの表情がさっと変わった。周りに誰もいなければ、きっと唇をかみしめて、悔しそうな顔をしただろう。


でも、彼女のプライドがそれを抑えたようだ。


「そんなこと自慢するなんて、くだらないから言いません。」


そう言って、彼女は廊下へ出て行った。


言えるはずがない、と思った。


自分が誰かに好かれているなんていううわさを流す人は、そうしないと自分のプライドを保てない人だ。


自分が誰にも好かれないことを、自分で受け入れられない人。


そう。たぶん、彼女の勘違いは、お芝居だと俺は思う。


初めて彼女の勘違いの話を聞いたときはわからなかったけど、今の彼女の態度が、そのことを証明していると思った。


勘違いのふりをしてうわさを流すことはできても、嘘をつくことはさすがにできなかったのだろう。


周りから「ふう。」みたいな、ため息の合唱が聞こえた。遠藤さん以外にも、今のやり取りが聞こえていたらしい。


「椚。よくやった!」


うしろから西村がバンバンと肩をたたいてきた。


「いやぁ、どうなることかとハラハラしたよ。」


と遠藤さんも言う。


「お騒がせしてすみません。」


と頭を下げると、周りの人たちも、親指を立てて合図をしてくれたり、うなずいてくれたりしていた。


「緑川さん、僕の相手が誰か気が付いたでしょうか?」


と小声で遠藤さんにきいてみた。


「あの名前を知って、きみの元の職場を思い出せば、気付いたんじゃないかな。だから、あの話で試したんじゃないかと思うよ。」


ということは、この場のやり取りを聞いていた人も気付いた可能性が高いってことか。


「でも、椚くん、1つ勘違いしてるみたいだけど。」


遠藤さんが声をひそめて言う。


「橘さんは人気があったんだよ。」


え?


「中村さんがいたから、誰も本人には言わなかったと思うけど、彼女のファンだった人を何人も知ってるよ。」


そうなのか?俺、その人たちに恨まれるんだろうか・・・。


西村が続ける。


「男女ともに人気があったからな。それを、みんなの前で『緑川さんみたいに人気はありませんけど』なんて、緑川さんにとってはものすごい厭味だったね。」


そんなつもりはなかったのに。


もういいや。起こってしまったことは、もう戻らない。


このエピソードは『緑川さんが椚の逆鱗に触れた話』あるいは『椚が自分の彼女を世界一だと自慢した話』として、男性社員の間に静かに広まって行ったらしい。社内で知り合いに会う度に、「聞いたよ。」と言われた。


でも、橘さんが俺の相手だということはみんな知らないのか、誰からも言われなかった。





夜、橘さんに電話して、緑川さんとのことを話した。


「というわけで、ドキドキだったよ。」


緑川さんに反撃した話にひとしきり笑ってから、彼女が言う。


『でも、わたしのために怒ってくれたんだよね。ありがとう。』


そう言ってくれるだけで俺は満足。


『よく考えると、緑川さん、なんとなく気の毒だね。前はこんなふうに思わなかったけど。綺麗な人なのに、うわさで気晴らしするしかないなんて、淋しい人だね。』


「そうは言っても、男にとっては、勘違いされたうわさを流されるのは恐怖だよ。」


『それはわかるけど。誰か本当に、彼女を好きになってくれればいいのにね。そしたら緑川さんも幸せになって、うわさを流したりしなくなると思う。』


そんな人、いるのかな。


『わたしは椚くんに会えたから幸せ。』


彼女の言葉に頬がゆるむ。


「俺も。」





そういえば。


「“ファンの集い”は西村と俺の同期が人を集めてるよ。あの条件はちゃんと言っておいたから。」


『佐伯さんもけっこう乗り気になってきて、タキシードでも着ようかな、なんて言ってる。』


橘さんが笑って言う。


「あの会でも『勇樹くん』て呼ぶつもり?」


『ダメだよ!そんなことしたら、みんなに殺されちゃう!』


そりゃそうか。


いくら佐伯でも、橘さんの命にかかわるようなわがままは言わないだろう。


「でも、あの調子で橘さんに甘えてたら同じことだよ。」


『厳しく言いきかせるから大丈夫!』


あとで、褒美をくれとか言わなければいいけど。


“ファンの集い”の言葉で、今朝の浅川さんのことを思い出したけど、橘さんには言えなかった。


自慢話みたいになるのも嫌だし、デレデレしてるって思われるのも嫌だし、どんな風に話せばいいのか、よくわからなかったから。






* −−−− * −−−− * −−−− * −−−− * −−−− *




橘 春香




椚くん、何か言いたそうな雰囲気だったけど、なんだったんだろう?


今度会ったときにきいてみよう。


だけど、緑川さんは相手がわたしだって気付いたよね、きっと・・・。








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