4月19日
翌週の月曜日。
朝、同期の女子社員から、佐伯との飲み会はどうなっているのかと訊かれ、河野さんのところに行くようにと伝えた。
先週の金曜日の夕方、西村と河野さんに“ファンの集い”(彼らにはこの言葉は秘密)の日程を伝え、メンバーのとりまとめを頼んだのだ。
女性は河野さんが、男性は西村がまとめてくれることになっていてる。
橘さんの注意どおり、佐伯かコバちゃんに会いたい人だけを限定して選んでくれるように言って、さらに、こういう会は今回一度きりだということも念を押しておいた。
「大丈夫。」
2人とも自信を持って請け合ってくれた。
これからは、催促されたら2人に回せばいいと思うとほっとする。
午前中の仕事がなかなか終わらなくて、12時半を過ぎてからに社員食堂に行った。
いつもは混んでいる社員食堂も、この時間になるとだいぶ空いている。
カレーライスを受け取ってカウンターから振り向いたとき、松井さん、松川さん、浅川さんの3人組が少し先の壁際のテーブルにいるのが見えたので、通りながら一言声をかけた。
「椚さん!金曜日はお世話になりました。」
3人組で一番元気のいい松川さんが、立ち上がって頭を下げてくれた。ほかの2人も慌てて立ち上がって同じように頭を下げてくれる。
俺は気恥ずかしくなって、「そんなに言わなくても。」と手を振って答えたけど、なんとなく彼女たちの様子がおかしい。浅川さんは泣いていたみたいだ。
「何かあった?」
4月も半ばになると、仕事で失敗したとか、先輩とうまくいかないとか、新人たちもいろいろな経験をしているはず。何か役に立てることがあるかと思ってきいてみた。
「実は、浅川さんが三上さんから怒られちゃって・・・。」
と松井さんが話し出す。彼女は確か、三上さんと同じ階なんだっけ。
話す気があるなら聞いてあげようと、俺も同じテーブルに腰をおろした。カレーを食べながらじゃ、あんまり真面目には見えないと思うけど。
浅川さんが、どうにか落ち着いた様子で話してくれた。
「今朝、駅で三上さんと一緒になったんです。先週のグループ指導の御礼を言ったら、飲み会に行けなくてごめんなさいって言われて、そこまではよかったんですけど。」
思い出したのか、一瞬、言葉が詰まる。
「椚さんと西村さんとご一緒したって話したんです。お世話になったことを話しておいた方がいいと思って。そうしたら、ほかのグループの指導担当に迷惑をかけた、新人だからって甘えすぎだって・・・。」
また泣きそうになったのをこらえようと、それ以上は話せないようだ。
「私、すぐ後ろを歩いていたんですけど、」
松井さんが続ける。
「かなり厳しい言い方で、私にもはっきり聞こえるくらいでした。会社に着いてから、私もロッカー室で三上さんと一緒になったのでごあいさつしたら、私が椚さんのグループだって知っていたようで、椚さんが親切だからって、ほかのグループの友達まで一緒に連れて行くなんて図々しいって、言われてしまいました。」
あれれ。こんなことになっちゃうとは思わなかった。
「ごめんね。俺たちが誘ったばっかりに、こんなことになっちゃって。」
「そんなことありません!私がよく考えなかったのがいけなかったんです。」
浅川さんはずいぶん落ち込んでいるようだけど、話して泣いたから、落ち着いたみたいだ。
「でも、これからのグループ活動を思うと、ちょっと憂うつで・・・。」
そうだよな。
「三上さんだって、いつまでも怒り続けたりしないと思うよ。それに、うちのグループと一緒の活動もあるし、どうにかなるよ。」
「はい。」
浅川さんが返事をして、あとの2人が彼女にうなずいてみせる。
「ありがとうございました。」
と3人は頭を下げて、それぞれの職場へ戻って行った。
今のこと、三上さんには・・・話さない方がいいな。
それにしても、ずいぶん厳しい人なんだな、三上さんって。
打ち合わせとか飲み会で一緒に話していても、全然気付かなかった。
午後、段ボールをかかえて階段を昇っていたら、踊り場で三上さんに呼びとめられた。
「金曜日、うちのグループの浅川さんがお世話になったそうで。」
ああ、その話か。俺も余計な御世話だって言われちゃうのかな。
「うん。三上さんが残業だって残念がっていたので、西村と俺が誘ったんです。来月は一緒に活動することもあるから、顔合わせも兼ねて。」
「そうなんですか。今朝、浅川さんから話を聞いて、お二人にご迷惑かけちゃったなと申し訳なくて。」
あれ、風向きが違う。よかった。
「いいえ。別におごったわけじゃないし、迷惑なんてことはありませんから。」
俺と西村が少し多めに払ったけど、それは言う必要はない。
「そうですか。よかった。」
そう言って微笑む三上さん。
「これ、御礼です。少しですけど。」
と、小さな箱?チョコレートだ。
「いえ、そんなことは・・・。」
と言いかけた俺の段ボールの上にその箱を乗せると、三上さんは「じゃあ、また。」と言って階段を降りて行った。
いやあ、怒られなくてよかった。
このチョコレートは西村と一緒に食べよう。
別に西村になら、昼に聞いたことを話しても大丈夫だろう。
残業中に小腹が空いてチョコレートを思い出したので、西村に半分あげながら、お昼にあったことを話した。
彼も、浅川さんが叱られるとは思っていなかったようで、驚いていた。
そもそも叱られるって知ってたら、誘わないか、口止めしてるよね。
「だいぶ厳しく言われたらしくて、かわいそうだったよ。」
と言うと、西村はうなずきながら言った。
「三上さんて、そういうところがあるかもな。自分が仕事ができる分、他人にも厳しい人だから。」
そうなんだ?
「うちの課にもときどき、処理が遅いって言ってくることがあるよ。遅いって言っても、十分に間に合うはずなんだけどね。自分の予定どおりに仕事が運ばないと気に入らないらしくて。」
「真面目なんだね。」
「真面目っていうか、自分の基準でなんでも考えているような感じだなあ。“あなたたちも、これくらいできるはず”みたいな。」
「なんだか、俺もそのうち叱られそうな気がしてきた。いい加減すぎるって。」
「それはないと思うよ。椚には“優秀”の評判が付いてるから。」
「評判だけじゃ、間に合わないよ。」
「この前の様子じゃ、相当信じてるようだから、ものすごい失敗をしない限りは大丈夫だと思うけど。たぶん、俺も大丈夫だな。」
そう言って、西村はハハハと笑った。
「もしかしたら、三上さんは他人の評価が気になるのかな?」
「ああ、そういうところもあるね。」
西村も同意する。
「橘さんに対抗意識を持っていたのはたぶん間違いないし、浅川さんのことも、自分の評判が気になったのかもしれない。ほかの指導担当にフォローされて面子が立たないとか。」
自分が頑張っても評価されないこともあるし、俺みたいに実力もないのにうわさだけが勝手に流れることもある。
なんだか不思議な世の中だね。
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橘 春香
椚くんへメール
『今日、康太郎くんが西村さんのことをものすごく褒めていました。あんなに褒めているのを聞くと、去年の秋、椚さんが本社に着くのがもう少し遅かったら・・・なんて、考えたりして。』
改行20行
『なーんて、ウソです!』