一日目の夜
家に帰ってから、橘さんの声が聞きたくて電話した。
『お疲れさま。初日はどうだった?』
彼女の声で緊張が解けていく。ほっとしてソファーにひっくり返った。
「疲れた。緊張と情報が満載で。」
『そうだよね。』
くっくっく・・・、と橘さんの笑い声。
『去年のこと思い出した。わたし、佐伯さんに渡された資料で頭がふらふらになって。』
そういえば、そんなこと言ってたっけ。
『しかも、佐伯さんに仕事を教わると思って、ものすごく緊張してて。家に帰ってからも元気が出なかった。』
そんなに緊張してたのか。
「初日に一緒に飲みに行ったよね。」
『そう。コバちゃんが親切にしてくれて、本当にありがたかった。それに、椚くんがいてくれて、どれほどほっとしたか。』
「俺でも役に立った?」
『もう、十分に!だって、椚くんは知っている人だし、口調が“久しぶり。ようこそ。”っていう感じだったから。』
そうか。
俺が橘さんの役に立てたと思うと、嬉しかった。
今日、自分も彼女のことを思い出して頑張れたことを伝える。
新しい職場のことを質問されたので、中村さんが上司になったことを話した。
『あら。人事情報を見てなかったから・・・。』
「俺たちが結婚することも、中村さんには話したよ。まだ公表はしないって言っといたけど。」
『言わざるを得ないよね。総務課の様子はどう?』
「遠藤さんと組んで仕事をすることになった。席も隣。気さくでいい人だよ。緑川さんっていう人が俺の向かいの席。」
『緑川さんと向かい合ってるの!?』
やっぱり、そういう反応?
『誰かから、わたしと緑川さんの話を聞いた?』
「うん。西村と遠藤さんと3人で飲みに行ったから。」
『西村さんと仲良くなったんだ・・・。』
自分で仲良くしてってメールしてきたのに、びっくりしている。
「西村に『結婚相手は誰だ』って迫られて、橘さんだって言っちゃったよ。去年のことがあったから、彼の気持ちを考えたら言うしかなくて。」
『それも仕方ないか・・・。あれ?遠藤さんも一緒にいたの?』
「そうなんだよね。すごく驚いてた。でも、遠藤さんも秘密にしてくれるよ。大丈夫。それよりね。」
俺は遠藤さんたちから教えられた“対緑川さん同盟”の話をした。
橘さんは大笑いして、しばらくは話ができないほど。
ようやく笑いが止むと、
『もし彼女が、椚くんが自分を好きだってうわさを流しても、わたしは絶対に信じないから、心配しないで。』
と言ってくれた。
『それに、こっちの事務所には、うわさが流れてこないしね。わたしのことだって、椚くんは知らなかったでしょう?』
確かにそうだった。
いろんな話をしているうちに、河野さんと西村の要求を思い出して、橘さんに相談してみた。
『確かに、コバちゃんは嫌がるかもね。見た目だけに注目されるのは好きじゃないから。』
「佐伯だって絶対に嫌だろうな。普通の飲み会だって言っても。」
『それに、1回設定してあげると、ほかの人からも頼まれるかも知れないよ。そうなったら椚くんが大変だし、コバちゃんも、佐伯さんも、かわいそう。』
すぐにはいい知恵が浮かばなくて、しばらくの間、仕事にかこつけて時間稼ぎをすることにした。
幸い、俺は新人のグループ指導担当もやることになっている。
『ああ!あれに当たってるんだ!』
当たりっていうような、ありがたいものではないけど。
『一昨年、わたしもやったよ。新人の男の子4人、大変だったけど、あとで考えると面白い経験だったなあ。』
橘さんは、よく“おもしろい”って言う。
そういう明るい考え方の彼女が大好きだ。
『4人とも背の高い子でね。前に立たれると、壁に話しているようだったよ。その上、初めはわたしの声が小さくて聞こえないって、体を乗り出してくるものだから、すごい威圧感でね。』
その様子が目に浮かんで、思わず笑った。
『そうだ!社の車で、現場見学にも連れて行ったんだ。』
「その話、きいたよ。よくやる気になったね。」
『スケジュールが埋まらなくて、仕方なく。でも、4人のうち3人が車酔いしちゃって、かわいそうだった。』
本当に、よくやる気になったね・・・。
橘さんとたくさん話して元気が出た。
明日もなんとか頑張れそうだ。
日曜日に会う約束をして、おやすみなさい。
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橘 春香
西村さんと仲良くなったんだ。
タイプは違うけど、気が合うのかも。
それにしても、緑川さんと向かいの席だなんて。
椚くん、苦労しそうだな。