新しい仕事
午後も遠藤さんからのレクチャーは続く。
その途中、山口さんから声がかかった。
「遠藤さん。2階の女子トイレで水漏れだって。ちょっと行ってみてくれる?」
建物や設備の関係は俺と遠藤さんが担当。
「わかりました。椚くん、行くよ。」
「は、はい。」
「あ、デジカメ持って。」
「はい。」
そういえば、午前中に聞いたな。
故障のときは状態を写真に収めておく。何でも記録が大切だって。
でも、女子トイレにカメラを持って行くって、なんか嫌だ。
遠藤さんは慣れたもので、2階の女子トイレに着くと、出入り口の扉をノックして「総務課でーす。」と言ってから開けた。
「あ、遠藤さん。」
中から女性の声がする。
「水漏れって連絡がきたんだけど。」
「あ、ここです、きっと。」
場所を指示されたらしく、さっさと入っていく。
遠藤さんは1、2歩進んで、出入り口に立ちすくんでいる俺を振り返ると、
「大丈夫。女子トイレは全部個室だから、心配ないよ。」
と言って手招きした。そういう問題?
俺は恐る恐る女子トイレに足を踏み入れる。
「あれ?椚さん?」
慌てて声の方を見ると、同期の河野さんだった。
「そうか、総務課に異動になったんだったよね。御苦労さま。」
総務課の人間だというだけで、女子トイレにフリーパスか。
「ああ、これね。椚くん、写真撮って。」
ほっとしたことに、水漏れは個室じゃなくて洗面台だった。
遠藤さんの指示に従って、前、上下、左右、と写真を撮る。
河野さんに紙とペンを持って来てもらって、「故障中」の表示を貼る。
あとは、修理業者に連絡すればいい。
廊下を戻りかけたとき、河野さんに呼びとめられた。遠藤さんは、「先に行ってるよ」と言って、戻って行った。
そういえば河野さんにも、竹田の件で世話になったっけ。
「去年は竹田の情報をありがとう。」
「いいのいいの。それより、佐伯さんは元気?」
「昨日までは元気だった。」
「そう。今回、椚さんが本社勤務になったことだし、同期で飲みに行かないかっていう話になってるんだけど。」
今の話の流れでは、主役は俺じゃないよね?
「同期会?」
「ううん。もっと少人数で、なんだけど。」
「佐伯を誘ってほしいってこと?」
「そう!椚さん、勘が鋭いね。」
そりゃあ、河野さんの様子見てたらわかるよ。
「佐伯さんとは同期だっていうこと以外、接点がないでしょう?職場も遠くて、姿を見ることもほとんどないし。」
「異動してきたのが俺で残念だったね。」
ほんと、俺だって橘さんのそばにいたかった。
「そんなことない。佐伯さんは、私たちが直接誘っても来ないよ。間に椚さんが入ってくれないと。」
そんなものか。
「俺が言っても来ないんじゃないかな。」
「そんなこと言わないで、お願い!」
さんざん頼まれて、とりあえず検討すると言ったらようやく離してくれた。
もしかしたら、これから当分、こういうのが続くのかも・・・。
そのあとも1件、2件と機械の調子が悪いとか、倉庫の荷物が邪魔だとか、電話や人が来て呼びだされた。
そのたび、遠藤さんと俺、人がいないと中村さんも現場に行って確認する。
廊下や現場で友人と会うことも多く、「久しぶり」とか「がんばれよ。」と、声をかけてくれた。
それに励まされて、だんだんと気分が上向きになってきた。
山口さんと緑川さんは、おもに物品と会議室の管理を担当しているそうで、物を取りに来る人や鍵を返しに来る人がひっきりなしにいる。
ただ、あくまでも“おもに”で、いろいろ重なったときは、課全体でカバーし合うと説明された。
まだまだ、たくさんのことを覚えなくてはならない。
2回目に呼びだされたあと、腕時計をはずすことにした。荷物にひっかけたり、ぶつけたりして危ないのだ。
社内なら時計があちこちにあるから、時間の確認はどこでもできる。
それに、その時計は、去年のクリスマスに橘さんから贈られたものだった。壊れたりしたら困る。
フェイスカラーが違うからわかりにくいかもしれないけれど、橘さんとペアだったので、事務所では今までは使っていなかった。
でも、今日からは職場が別だから、本人に会えない代わりに使うことにしたのだ。彼女も今日から使っているはず。
はずすのは淋しい気がしたけど、壊れるよりはいい。
裏に、買った日付と一緒に「From HARUKA」と入っているけど、わざわざ持ち上げて見る人もいないだろう。
そうはいっても、無造作に置くのは悲しい気がした。
時間があるときに、何か入れるものを買って来よう。
終業時間になって、ようやくひと段落。
山口さんが、お子さんが待っているからと言って、急いで帰って行った。
緑川さんが片付けをしながら俺に話しかけてくる。
「お疲れさまでした。初日はいかがでしたか?」
「遠藤さんについて歩くだけで精いっぱいでした。何かを覚えるなんて、まだ無理そうです。」
そうですかと、緑川さんは可愛らしく笑う。
なんていうか、化粧品のコマーシャルみたいなイメージの人だ。
「椚さん、帰れる?」
横で立ち上がった遠藤さんに声をかけられた。
「あ、はい。」
「じゃあ、緑川さん、お先に失礼します。」
と、遠藤さんが言って、俺の腕に手をかける。早くしろという合図かな?
俺も立ち上がって、緑川さんにあいさつする。
笑顔で手を振る緑川さんをあとにして、足早にロッカーに向かう遠藤さんを追いかけた。
今日は異動や昇進で人が入れ替わった日なので、残業をしないで飲みに行く人が多いようだと遠藤さんが言った。廊下もロッカー室も混んでいる。
支度をして、1階の出入り口の手前で遠藤さんと一緒に西村を待っているその前を、たくさんの社員が前を通り過ぎていく。
何人かの同期が俺に気付いて「おーい。」と手を振ってくれたりした。
ほとんどの人が遠藤さんにあいさつをして通り過ぎ、顔の広さに驚いていると、
「総務課って、そういう仕事だから。」
と、あっさり言われた。そうなのか。
「おまたせ!」
と大きな声がして、西村が到着。
「椚と飲みに行くって言ったら、一緒に行きたいって言うヤツが何人かいたけど、今日は断っておいた。今月は飲み会がたくさんありそうだから、覚悟しといた方がいいぞ。」
橘さんの話が出る可能性があるから、気を遣ってくれたのかもしれない。
この辺りの飲み屋をたくさん知っていそうな西村の案内で、3人で居酒屋へ向かった。
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橘 春香
椚さん、どうしたかな。
今日は向こうで誰かに一杯誘われてるかも。毎年、そういうのってあったもんね。
そうだ。そういえば、西村さんが経理課にいたんだっけ。
椚くん、西村さんのこと覚えてるかな。
西村さんは椚くんのこと・・・覚えてるよね、珍しい名前だから。
同い年だし、仲良くできるといいんだけど。
一応、メールを送っておこう。遅いかもしれないけど。
「隣の経理課に西村さんがいることを忘れてました。声は大きいけど、いい人だから、仲良くしてね。」