春に向かって(1)
1月31日の俺の誕生日は二人で夕食を食べに行った。
橘さんが「ありきたりだけど。」と言いながらくれたプレゼントはネクタイだった。
普段使えるものを彼女からもらうのは、俺はとても嬉しくて、そのネクタイを使う度、みんなに言いふらしたい気分になる。
2月14日のバレンタイン・デイはディズニー・リゾートへ行こうという話になった。
思い切って施設の周りのホテルに一泊して、2日間楽しもうと。
仕事があるから土日を利用するしかなく、そうすると2月14日直近は無理で、その1週間前に行くことになった。
行ってみたら、天気が悪くてものすごく寒かった!
土曜日はくもり、日曜日はみぞれ混じりの雨だった。海に近いせいか、風も強い。
でも、その分お客が少なくて、土日なのに屋外の施設は乗り放題だったし、食事も待ち時間なし。
俺たちは毛糸の帽子をかぶり、手袋とブーツの重装備で2日間を満喫した。
二人一緒だと、どんなことでも笑い飛ばせる。
3月の後半に入ったころ、課長に呼ばれた。係長の近藤さんもそばにいる。
「椚君、きみ、4月から総務課に異動が決まったよ。」
異動。総務課?
「今、とりあえず電話で連絡が来た。正式にはあらためて書類が来るけど、仕事のこととか、近藤さんと相談しておいてね。」
「はい。」
返事はしたけど、頭の中は真っ白。
近藤さんが「仕事の相談は明日にでも。」と言うので席に戻ったけれど、頭が混乱したままなので、休憩コーナーに向かう。
コーヒーを手にとって、椅子に腰掛ける。
コーヒーの温かさだけが確かなもので、視界は全部ぼんやりと歪んで見える。
異動の可能性はいつも考えていた。でも、実際に言われてみると、青天の霹靂だった。
最近は橘さんがいることで、この事務所がとても居心地が良かったせいかも知れない。
ちょっと考えてみれば、課長が橘さんと俺とのことを知っていて、このままこの事務所に二人一緒にいられる訳はない。
今年中に結婚するならなおさら、俺たち自身も仕事がしづらいだろう。
だから、異動は仕方ない。
そこまで順番に考えたら気持ちが落ち着いた。
でも、・・・総務課?
自分は漠然と、事業に関係のある部署を回ると思っていたから、総務課へ異動ということが不思議な気がした。
総務課が含まれる総務部は、経理課や人事課も含めて、社内の管理の部署だ。
この事務所のように社の事業を扱う部署とは、人も事務室も雰囲気がかなり違う。
やっていけるのか、俺?
不安だ。
帰りに、先に仕事が済んだ橘さんに駅前のコーヒーショップで待っていてもらい、異動のことを話した。
「総務課に?」
彼女もたぶん、異動は予想していたんだろう。自分は去年、来たばかりだから、動くとすれば俺だろうと。
でも、総務課は予想外だったようだ。
6年間、本社勤務だった彼女も、事業系の職場から総務部に移る人はあまり多くないと言った。新人を入れて育てることが多いように思う、と。
「椚くん、きっと優秀なんだよ。」
何を見てそんな判断をされたのか全く心当たりがない。事務所での成績も普通だし。
「あ、もしかしたらテレビに出たことがインパクトあったとか。」
「あれが原因!?やめてくれ!」
思わず大きな声が出る。
すると、橘さんは笑って言った。
「大丈夫!椚くんならどこでもやっていけるから。くよくよ考えても仕方ないもん。決まったら、とりあえずやってみるしかないんだよ。」
橘さんは前向きだ。
そうだ。
去年、彼女もこの事務所に来たとき、知らないことがたくさんあったんだ。
どんな仕事なのか、どんな人がいるのか、自分がうまくやっていけるのか、まったくわからなかったはず。
そこで彼女は受け入れられて、自分の居場所を確保した。
俺にも場所は用意されている。あとは努力するしかないんだ。
「でも、椚くんと毎日会えなくなるのが嫌だな。」
そうだよね!
「じゃあ、早く結婚することにしよう!来月から式場を探したりしようよ。」
「うん。」
と言った彼女の顔は輝いているようだった。
それから仕事の後始末と引き継ぎで、忙しい日が続いた。
俺のあとに入るのは、珍しいことに高卒の新人だそうだ。
コバちゃんは、「弟ができるみたいで楽しみ!」とウキウキしている。
橘さんの仕事から半分と俺の仕事の一部をその新人に引き継いで、俺の仕事範囲の指導は岩さんがする。
俺の仕事の残りは橘さん、コバちゃん、佐伯の3人で全体量を見ながら分担して引き継ぐ。橘さんも4月から、外回りの仕事に加わるのだ。
3人に引き継ぎの話をしながら、付け足した。
「橘さんに一人で車の運転はさせちゃダメだからね。」
彼女が睨むけど、かまわず続ける。
「誰かが一緒に乗るか、運転手としてついて行ってあげて。」
「あんまり上手くないんだ?」
と、コバちゃん。
「乗ったことあるんですか?椚さん。」
と、佐伯。
しまった!年末のことは秘密のつもりだったのに。
「そういえば、そうだよね。」
コバちゃんも気付く。
しどろもどろになる俺の顔を、呆れた顔で見つめる橘さん。
ごめん。
忙しい合間を縫って、橘さんの誕生日前の春分の日に二人で出かけた。
春の景色を見ながら散歩したり、買い物や食事をしたりしながら、これから結婚までの予定を組んでみた。
結婚式の目標は秋。
夏前には両家の顔合わせをしたい。(もう知り合いだけど。)
その前に、俺は橘さんのご両親に
「春香さんをください。」
っていうのをやらなくてはならないのか。
橘さんは、それはいらない、と言った。お正月に一度会ってるし、康太くんと挨拶したからって。
「それより、私の方が椚くんの家にちゃんと行かなくちゃ。」
彼女はそう言うけど、やっぱりもう一度ご挨拶しよう。どうせ、両方の家は近いんだし。
そうだ!
「指輪を買わなくちゃ!」
「え?今日?」
「今日は下見でいいか。とにかく見に行こう!」
橘さんと手をつないでジュエリーショップに行くと、どこの店でも様子を察した店員がにこやかに話しかけてくる。
最初に「下見です。」と断ってから、ショーケースを見て回った。
婚約指輪なら、やっぱりダイヤモンドかな。
彼女は、手が小さいから大きな石の指輪はいらない、と言う。
すかさず店員のレクチャー。
ダイヤモンドは大きさのほかにも基準があって、値段はそれぞれだとか。
ふうん。
俺の貯金でも買えそうなものがたくさんあるので、だいぶ安心した。
最後の一週間はあっという間に過ぎる。
俺が担当していた顧客に、次の担当を連れて引き継ぎの挨拶へ行く。
佐伯を連れて行くと、どこでも驚いた顔をされた。あんまりかっこよすぎて、男女を問わずびっくりするらしい。
コバちゃんを紹介すると、みんな嬉しそうな顔をした。特に男の人だけど。女の人もコバちゃんのさっぱりした雰囲気が気に入るようだ。
橘さんを連れて行くと、だいたいの人がほっとした顔をした。彼女のきちんとした誠実な様子が、相手を安心させるみたいだった。
みなさん、どうぞよろしくお願いします。
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橘 春香
忙しい〜、不安だ〜。