真実は
9月のある日、本社に顔を出したら中村さんに呼びとめられた。
中村一真さん、橘さんの別れた彼氏だ。
「久しぶり。昼飯、一緒にどう?」
新人のときにとてもお世話になって、それからも会うと声をかけてくれる。
「はい。」
2人で社員食堂へ向かう。
定食を持って席に着くと、中村さんが先に口を開く。
「橘さんが、君と同じ事務所に異動したと思うけど。」
「はい、そうです。」
「彼女、元気かな。」
「元気ですよ。いつも楽しそうに仕事しています。」
「そう。よかった。」
中村さんはちょっと間を置いてから、話し始めた。
「彼女とは去年まで付き合っていてね。」
俺は中村さんの顔をまっすぐに見た。
「橘さんから3年間付き合っていた人と別れた話は聞きました。橘さんは相手の名前は言わなかったけど、同僚がうわさを耳にしたので、中村さんのことも知ってます。」
「だいぶ長い間、うわさが消えなかったからな。でも、その話を彼女が君にするなんて、ずいぶん仲がいいんだね。」
「どうせうわさで聞くと思うからって。それに、俺と橘さんは中学の同級生ですから。」
この際、佐伯とコバちゃんのことは言わなくてもいいだろう。
中村さんはちょっと驚いて俺を見て、ちょっとため息をついた。
「初めて彼女を見たのは避難訓練のときだったよ。その年はいつもより大規模にやることになっててね。」
中村さんは懐かしそうな顔で話す。
「3階あたりから降りる避難用の滑り台があるだろう?そこで順番を待っているとき、後ろに彼女がいたんだよ。ほかの女性社員は面倒だとか、怖いとか言っていたけど、彼女は僕と目があったときニコッと笑って「ちょっと楽しみですね」って言ったんだ。」
同じ会社の、たまたま近くにいた人への、ほんのあいさつ。でも、それで彼女の道が変わった。
「滑り終わったあとの彼女の満足げな顔が可愛いと思った。一度顔を覚えたら、同じ建物の中だからね、何度でも見かけた。彼女は一度では覚えなかったようだけど。」
残念そうに少し微笑む。
「申し込んだときはびっくりされたけど、一緒にいるときはいつも楽しそうだった。よく笑う人で。だけど、去年」
新しい人が現れた?
「気が付いたら、彼女は笑うんじゃなくて、微笑むだけになっていた。楽しそうなのは変わらないのに、何故だろうと思った。3年経って、大人になったのか?そうじゃない。彼女はたぶん、僕の恋人という型にはめ込まれてしまったんだと思った。」
・・・優等生の型。
「僕は自分が優秀だと言われていることは知っている。彼女とのことも真面目に考えていたから社内でも隠さなかった。彼女は僕の恋人として周囲の人たちが期待するような人物の型に、気付かないうちに自分をはめ込んでしまったんじゃないだろうか、と思ったんだ。」
橘さんの学校時代の話を思い出して、それは可能性があると思った。
「彼女は僕にわがままを言ったり、嫉妬したりしたことがなかった。そんなことを考え始めたとき、今の彼女が現れた。まさに、強引なわがままを引っ提げて。」
恋する女のわがまま?
「僕は春香・・・橘さんに話をした。本当は、僕にとっても賭けだったんだよ。彼女が嫉妬して「別れない」と言ってくれるか。そう言ってくれたら、彼女は僕の恋人の型を振り切って、本来の彼女に戻れると思ったから。このまま結婚したら、理想の僕の妻の型に、彼女が一生つかまってしまうようでかわいそうだった。このまま別れることになるのも、また、彼女をその型から解放する方法だと思った。」
なんとなく、勝手な理屈に聞こえる。
「彼女はわがままは言わずに去って行った。あとは、君が聞いたとおりだと思うよ。」
「橘さんは、今はとても元気です。きっと、避難訓練の日の彼女に戻っていると思います。」
「よかった。」
ほっとした顔でつぶやいて、中村さんはお茶を飲んだ。
帰りの電車の中で、中村さんの言ったことを思い出していた。
型から解放してあげるために別れ話をする・・・。
そんなこと、やっぱり変だ。
相手のことが好きなら、「ありのままでいい」って言ってあげればいい。
特に、橘さんはニブいんだから。
中村さんは大人だし、仕事もできる人だけど、今日の話を思い出すとちょっと腹が立つ。
そういえば、中村さんだってかなりのイケメンだけど・・・?
事務所に戻って、橘さんの「おかえりなさーい」に迎えられる。
そう、これこれ。やっぱり和むよねぇ。
「今日、中村さんに会いました。」
小声で橘さんに報告。
「大丈夫です。橘さんが解放感を味わっている話はしませんでしたから!」
橘さんがいたずらっぽく笑う。
「でも、中村さんもかなりカッコいいですけど、イケメンパニック症候群は出なかったんですか?」
「ああ、そういえば、けっこうカッコいいかもね。人気があったし。」
けっこう?
「あのくらいなら大丈夫みたい。普通の範囲っていうか・・・。」
中村さんが普通の範囲って、橘さんのイケメンのハードル、高すぎない?
「いいんです。別に顔で相手を選ぶわけじゃないから。」
そうですか。
「それに、そんなに苦手な人がたくさんいたら、生活そのものに支障が出るじゃないですか!」
ごもっとも。
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橘 春香
中村さんの話を聞いても、何ともないや。
ここに来てからたくさん笑ったからかも知れない。
中村さんには幸せになってほしいな。