未来のお義母様の嫌味は、全部おばあさまの帳面に載っていました
「まあ、その色。喪服かと思いましたわ」
その直前に、孔雀の羽根の扇がぱちんと閉じた。
客の何人かが、くすくす笑う。アデール様だけは笑わなかった。
婚約者のお母様、ガルニエ侯爵夫人の木曜のお茶会は、今日で二十五回目になる。
毎回なにか言われ、その場では言い返せず、帰りの馬車で「ああ言えばよかった」と思ってきた。
嫌味の前の扇の音は、この半年で覚えた合図だ。
でも今日の私には、祖母の帳面がある。
一ページの心得どおり、まずは苦い紅茶を一口。
『心得 一、言い返す前に、紅茶を一口。』
膝の上の手提げの中で、帳面を開く。
手が震えて、索引を二度引き直した。
『服をけなされたら……十二』
十二ページ。
『服をけなされた場合/例「まあ、その色。喪服かと思いましたわ」/返し「ありがとうございます。お隣があまりにお華やかなので、私は控えめにいたしました」と言い、相手の服を上から下まで一度だけ見る。/※二度見ると下品。』
震える目で返しの欄だけを追い、そのまま読み上げた。
「ありがとうございます。お隣があまりにお華やかなので、私は控えめにいたしました」
言い終えて、侯爵夫人のドレスを上から下まで一度だけ見る。
二度は見ない。下品だそうなので。
客の視線が、孔雀色のドレスと羽根飾りに集まり、アデール様が紅茶にむせる。
侯爵夫人の扇が止まった。
おばあさま、これは返しというより、果たし状では?
十月三日、木曜の午後三時。
窓の外に秋の庭が広がる、ガルニエ侯爵邸の「青のサロン」は静まり返っていた。
楕円の卓の上座、窓を背に座るのがベアトリス・ガルニエ侯爵夫人だ。
孔雀色のドレスを着て、肩と髪にも羽根飾りをつけている。
その右隣が私、ブランシェ伯爵家の長女セリーヌ、十八歳。
亜麻色の髪を低い位置でひとつにまとめ、灰色の目で微笑んでみせる。
今日着ている深緑のドレスは、祖母のおさがりの生地を仕立て直したものだ。
左隣はロシュ子爵令嬢のアデール様、十九歳。
残る五席には夫人三人と令嬢二人が座り、客は毎回八人。
壁際には給仕が一人控え、私の膝の上には深緑のビロードの手提げがある。
川を挟んで隣同士の領地を持つ両家の父が、二十一歳の嫡男ユリウス様と私の婚約を決めたのは去年の十月十日。
翌春から通い続けたこのサロンの紅茶は、いつも濃すぎて苦い。
今年の三月十四日に七十一歳で亡くなった先代伯爵夫人、祖母オデットの机から帳面が出たのは昨日の十月二日だった。
二段目の引き出しの奥、薄い板の下に隠されていたのだ。
手のひら二枚ぶんの深緑の革表紙で、本文は百ページ、その前に番号のない索引が三ページある。
四十二ページと四十三ページは赤いリボンで綴じられ、ブランシェ家の紋である鈴蘭の封蝋で留めてあった。
表紙の裏には、新しい黒いインクでこうあった。『セリーヌへ。困ったら索引を。四十二ページだけは、ここぞという時まで開かないこと』
索引の一ページ目には、古い茶色いインクでこう並んでいる。
『服をけなされたら……十二』
『家柄を持ち出されたら……十九』
『物知らずと笑われたら……二十三』
『若さを笑われたら……二十七』
『よその娘と比べられたら……三十一』
『遠回しに脅されたら……三十六』
『親切のふりをされたら……三十九』
半年分の嫌味の博覧会である。
そのとき、侯爵夫人が茶匙でカップをちんと鳴らして給仕を呼んだ。
「お給仕。お茶が冷めてよ、新しいのを淹れ直してちょうだい」
「かしこまりました、奥様。ただいま新しい茶葉をお持ちいたします」
私はそれを黙って見ていた。
ぱちん、とまた扇が閉じる。
一日に二回も鳴るとは、よほどさっきの返しが悔しかったらしい。
侯爵夫人は新しい茶葉を注がせながら、私を見て微笑んだ。
「侯爵家のお茶の作法は、伯爵家の方には、難しいかしらね」
私は苦い紅茶を一口飲む。
手提げの中で、今度は一度で索引を引けた。
十九ページを開く。
『家柄を持ち出された場合/例「伯爵家の方には、難しいかしらね」/返し その日に相手がした不作法をひとつ、「侯爵家の作法」として教わりたいと頼む。/※不作法は、必ずひとつは見つかる。』
さっきの茶匙ですね、おばあさま。
探すまでもなく、目の前で鳴らしてくださった。
「はい、難しゅうございます。ですから、先ほど侯爵夫人が茶匙でカップを鳴らしてお給仕を呼ばれたのも、侯爵家の作法として覚えたく存じます」
「っ、あれは、その……少し手が滑っただけですわ!」
「まあ、手が滑られたのですね。私はてっきり、侯爵家ならではの雅な合図かと存じました」
「ち、違いますわ! 誰が茶匙を鳴らすものですか」
「左様でございますか。危うく次の木曜に、私も鳴らしてしまうところでしたわ」
夫人の一人が、ごほっと咳払いで笑いをごまかした。
侯爵夫人の顔が、耳まで真っ赤になる。
「……今日は、これでお開きにいたしましょう」
二十五回で初めて、お茶会は三十分早く終わった。
玄関を出るとき、アデール様が小声で話しかけてくる。
「セリーヌ様。来週も、絶対いらしてくださいね」
「ええ、もちろんですわ。お招きいただければ、喜んで伺います」
「約束ですわよ! 今日の侯爵夫人のお顔、私、一生忘れませんわ!」
「しっ、アデール様。お声が大きゅうございますわ」
帰りの馬車の中で、私は手提げから帳面を取り出し、十二ページを読み返した。
十二ページの『例』の欄には、一字一句、さっきの侯爵夫人の言葉が書いてあった。
◇
十月六日の日曜日、王立劇場。
夜七時開演の新作歌劇『灯台守の娘』全三幕の、第一幕が終わったあとの幕間だ。
時刻は夜八時ごろ。
二階の五番の桟敷には、前列に三席並んでいる。
左から私、侯爵夫人、そして婚約者のユリウス様だ。
いつも、私とユリウス様のあいだにお義母様が座る。
どちらが婚約者なのか、これではさっぱりわからない。
今日の私は、帳面の使いそうなページに、刺繍糸を切って作った付箋を挟んできていた。
右隣の四番の桟敷には婦人が二人座っている。
仕切りが低く、こちらの話し声は筒抜けだ。
「ユリウス様、第一幕の舞台装置、とても見事でしたわね」
「ああ、そうだな。母上もそうおっしゃっていた」
「まあ、お義母様もそう思われましたのね。この先、どうなるのかしら」
私がぽつりとつぶやいたときだった。
ぱちん、と孔雀の羽根の扇が閉じた。
侯爵夫人が、四番の桟敷にも聞こえる声で言った。
「あら、ご存じないの? 灯台守は、娘の本当の父親なのよ」
幕間に劇場の係が配ってくれた檸檬水が、手元にある。
紅茶ではないけれど、たぶん許してもらえる。
私は檸檬水を一口飲み、付箋を頼りに二十三ページを開いた。
『物知らずと笑われた場合/例「あら、ご存じないの?」/返し「存じません。ぜひ教えてくださいませ」と、皆に聞こえる声で頼む。/※たいてい、言った本人もよく知らない。』
おばあさまの注釈は、なぜこうも容赦がないのか。
私は四番の桟敷にも聞こえるよう、はっきりとした声で尋ねた。
「存じません。ぜひ教えてくださいませ。それは、どの場面でわかるのでしょう」
「え? それは……第二幕の……」
侯爵夫人が言葉に詰まる。
「第二幕の、どのあたりでございますか? 私、台詞を聞き逃さないようにいたしたくて」
「ですから、その……嵐の場面よ。灯台守がそう告白するのよ、たしか」
人から聞いた筋を、うろ覚えで言っただけにちがいない。
すると、四番の桟敷の婦人の一人が、プログラムを開いて声をかけてきた。
「侯爵夫人、灯台守は叔父ですわ。三幕目で明かされますの」
「まあ、ご親切にありがとうございます。おかげで正しい筋がわかりましたわ」
注釈どおり、言ったご本人が一番よくご存じなかった。
侯爵夫人が扇で顔を隠して黙り込むと、右端からユリウス様が身を乗り出した。
「母上の言う通りだ。伯爵家の者には、難しいんだろう」
「ユリウス様。プログラムの文字を読むのが、でございますか?」
「細かいことをあげつらうなと言っているんだ。母上が父だと言ったら父なんだろう」
私は内心で首をかしげた。
今のユリウス様の言い回し、木曜に引いた十九ページの『例』とほとんど同じだ。
まさかユリウス様のお言葉まで、索引で引けてしまうとは。
そのとき、ぱちん、とまた扇が閉じた。
侯爵夫人が、冷たい目で私を見据える。
「それでは、隣に立つのは難しくてよ」
私は檸檬水をもう一口飲み、席の並び――私、侯爵夫人、ユリウス様――を一度見た。
それから付箋で三十六ページを開く。
『遠回しに脅された場合/例「それでは、隣に立つのは難しくてよ」/返し 相手が母親なら、席の並びを見てから「はい。ご子息のお隣には、いつもお母様がいらっしゃいますもの」/※母親が言った場合にかぎる。』
私はにこやかに答えた。
「はい。ご子息のお隣には、いつもお母様がいらっしゃいますもの」
四番の桟敷の婦人二人が、さっと扇で顔を隠して肩を震わせた。
ユリウス様が胸を張って言い返す。
「母上の隣で、何が悪い」
「いいえ、少しも悪くございませんわ。とてもお似合いの並びだと存じます」
「そうだろう。私は母上の隣が一番落ち着くんだ」
「……ユリウス、もうお黙りなさい。幕が上がりますわよ」
侯爵夫人が、慌ててユリウス様の袖を引いて黙らせた。
自分でトドメを刺しにいくのはやめていただきたい。
やがて灯りが落ち、第二幕の幕が上がる。
暗がりの中で、私は初めて索引の三ページ目までめくってみた。
茶色いインクの並んだ下に、一行だけ、祖母が去年の冬に書き足した黒いインクの文字がある。
『婚約破棄されたら……百』。
縁起でもないので、そのページは開かずにおいた。
だが、そのすぐ下の行に、私の目は釘づけになった。
索引の最後の行には、祖母の字でこうあった。『ベアトリス嬢……四十二(封)』――その横に、新しいインクで『=ガルニエ侯爵夫人』。
◇
十月十二日の土曜日、大聖堂の中庭。
午前十時から午後三時まで、秋の慈善バザーが開かれている。
回廊沿いに並んだブランシェ家の売り台には、白い布の上に、私が縫った刺繍のハンカチが四十枚。
白糸で鈴蘭と蔦を刺した地味な刺繍で、一枚銀貨一枚だ。
けれど午前中、ハンカチは一枚も売れなかった。
自分でも思うが、華やかなバザーでは目立たなすぎるのだ。
右隣のロシュ家の売り台では、アデール様の焼き菓子がよく売れている。
「セリーヌ様、少しお休みになって。私のポットから紅茶をどうぞ」
アデール様が分けてくださった紅茶で一息ついたとき、正午の鐘が鳴った。
そこへ侯爵夫人とユリウス様がやってきて、私の売り台の前に立つ。
まわりには、買い物客が十人ほどいた。
侯爵夫人が、白い布の上からハンカチを一枚つまみ上げる。
ぱちん、と孔雀の羽根の扇が閉じた。
「まあ、地味な刺繍。アデールさんなら、そんなことはなさらないわ」
私はいただいたばかりの紅茶を一口飲んだ。
もう帳面は開かない。
三十一ページの文面は、すっかり覚えている。
『よその娘と比べられた場合/例「〇〇さんなら、そんなことはなさらないわ」/返し「では、その方にお伝えしておきますわね。とても褒めていらした、と」/※その娘が近くにいれば、なおよい。』
なおよいどころか、すぐお隣にいらっしゃいますね、おばあさま。
私は笑顔で一礼した。
「では、アデール様にお伝えしておきますわね。とても褒めていらした、と」
すると右隣から、アデール様がひょいと身を乗り出した。
まわりの買い物客全員に聞こえる、よく通る声だった。
「まあ、侯爵夫人。先週の木曜には『アデールさんの刺繍は品がない』とおっしゃっていましたのに」
まわりの客が一斉に侯爵夫人を見た。
アデール様は私の売り台に向き直り、いっそう大きな声を上げる。
「私、この鈴蘭の刺繍、大好きですわ。三枚くださいな」
白い布の上に、銀貨三枚がちゃりんと置かれた。
「まあ、近くで見ると本当に細やかな針目ですこと。お嬢様、わたくしにも二枚くださいな」
「こちらには四枚ちょうだい。娘たちへのお土産にしますわ」
「わたくしには五枚包んでくださる? 白い鈴蘭なんて清楚で素敵ですわ」
見ていた客が次々にハンカチを手に取り、銀貨を置いていく。
引っ込みがつかなくなったのか、ユリウス様が一歩前に出て声を荒らげた。
「母上に恥をかかせるな。君のためを思って言うんだ」
またお母様の受け売りですか、ユリウス様。
私は帳面を開かず、穏やかに言った。
「三十九ページですね」
三十九ページの返しは長いので、ページの数だけにした。
「は? 三十九ページとは何のことだ。私の話を聞いているのか、君は」
「ええ、一字一句たがわず伺っておりますわ」
ユリウス様は意味がわからず眉をひそめたが、侯爵夫人だけはさっと青ざめた。
その目が、私の手提げからのぞく深緑の革表紙に釘づけになる。
「……その緑の帳面。まだ、あったのね」
侯爵夫人は小さくつぶやいたあと、ユリウス様を連れて足早に去っていった。
どうして私の祖母の帳面を、お義母様がご存じなのだろう。
午後一時には、四十枚のハンカチが一枚残らず売れていた。
そのあと侯爵夫人は、帰るまで一度も扇を閉じなかった。
◇
十月十二日の土曜日、夜九時。
ブランシェ邸の祖母の書斎で、私は書き物机に帳面を広げていた。
そこへ四十六歳の父セドリックが戸口から入ってきて、机の横に立つ。
部屋には私たち二人きりだ。
「セリーヌ、まだ起きていたのか。ガルニエ家から、侯爵夫人の誕生日の夜会の招待状が届いたよ」
穏やかな父の顔が、少しだけ曇った。
ガルニエ家の使用人から、耳打ちがあったのだという。
「十九日の夜会で、ユリウス殿が婚約破棄を言い出すつもりらしい。行かなくていい」
私は表紙裏の言葉を思い出し、顔を上げた。
「行きます。……ここぞという時、というのは、たぶんそういう日ですもの」
父は帳面のことは知らなかったが、懐かしそうに目を細めて二つの話をしてくれた。
「母上は若いころ、社交界で『返しのオデット』と呼ばれていた」
返しのオデットって、まるで剣豪みたいな二つ名では?
「まあ、そんなに強かったのですか、おばあさまは」
「ああ。誰にも言い負かされたことがないそうだよ」
「母上は、ガルニエ侯爵夫人の話になると、いつも指を折って何かを数えていた」
指を折って何を数えていらしたのですか、おばあさま。
この穏やかな父を見るかぎり、間違いなく隔世遺伝だろう。
父が退室したあと、私は四十二ページの鈴蘭の封蝋を指でなぞった。
封蝋の鈴蘭は、まだ割らずにおいた。
◇
十月十九日の土曜日、夜八時半。
ガルニエ侯爵邸の大広間では、夜八時から侯爵夫人の五十八歳の誕生日の夜会が開かれていた。
集まった客は約百二十人。
奥の壇の前に、孔雀色のドレスを着て孔雀の羽根の扇を持つ侯爵夫人と、ユリウス様が立っている。
六十二歳のガルニエ侯爵アンセルム様は、壇の左端、柱のそばに黙って立っていた。
祝いの挨拶の最初に、婚約者の私が進み出る。
深緑のドレスを着て、深緑のビロードの手提げを手に、侯爵夫人の正面、三歩の距離に立った。
客が私たち三人を半円に囲む。
最前列の右にはアデール様。
劇場の四番桟敷の婦人二人や、木曜のお茶会の夫人たち、バザーで見ていた客の何人かも客の中にいる。
そのまわりを、給仕が林檎水の盆を持って回っていた。
「ガルニエ侯爵夫人、お誕生日おめでとうございます。心よりお祝い申し上げますわ」
私が祝いの言葉を言い終えるか終えないかのうちだった。
ぱちん、と扇が閉じた。
祝いの挨拶にまで嫌味を返すとは、ある意味で見事な徹底ぶりである。
侯爵夫人は周囲の客に向かって、勝ち誇ったように言い立てた。
「皆さま、この方は、人の嫌味を書きためた下品な帳面を持ち歩いていらっしゃるのよ。お出しなさい」
私が手提げを押さえるより早く、侯爵夫人が自分の手で手提げから帳面を抜き取った。
「あ、侯爵夫人、何をするのですか」
「証拠を皆さまにお見せするだけですわ。やましいことがないなら、構いませんわね?」
侯爵夫人は皆の前で索引を開き、三ページ目に自分の名を見つけた。
「封ですって? 何を書いたのかしら、あの方」
祖母の悪口を皆に聞かせるつもりで、侯爵夫人は自分の爪で赤いリボンを切り、鈴蘭の封蝋をばりっと割った。
私は止めなかった。
だって、割ったのはお義母様ご自身ですもの。
侯爵夫人は余裕を見せるように扇を開いて口元に添え、大広間に響く声で読み上げ始めた。
『四十二ページ ベアトリス嬢のこと
ベアトリス嬢の嫌味は、七つしかない。』
その一言で、客がざわめいた。
侯爵夫人の眉がぴくりと動くが、そのまま先を読み進める。
『一、「まあ、その色。喪服かと思いましたわ」……十二ページ』
木曜のお茶会の夫人たちが顔を見合わせ、アデール様が口を押さえた。
『二、「伯爵家の方には、難しいかしらね」……十九ページ
三、「あら、ご存じないの?」……二十三ページ』
四番桟敷の婦人二人が、さっと扇で顔を隠す。
『四、「お若いって、いいわね」……二十七ページ
五、「〇〇さんなら、そんなことはなさらないわ」……三十一ページ』
客のあちこちから「私も言われましたわ」「まあ、わたくしもですわ」という小声がした。
『六、「それでは、隣に立つのは難しくてよ」……三十六ページ
七、「あなたのためを思って言うのよ」……三十九ページ』
七まで読んで、侯爵夫人の声が細くなった。
そして次の行を読むために帳面を片手に持ち替えた拍子に、侯爵夫人の手が、自分の扇をぱちんと閉じてしまう。
その音が大広間に響き、百二十人の目が扇に集まった。
侯爵夫人は震える声で、残りの文を読み上げた。
『言う前に、必ず扇をぱちんと閉じる。
何十年たっても、きっと同じ七つでしょう。そのときは言い返さなくてよろしい。数えて、笑ってさしあげなさい。』
最後の文を読み終えたとき、最初に吹き出したのは柱のそばの侯爵アンセルム様だった。
次にアデール様が吹き出し、それから大広間じゅうがどっと笑った。
侯爵夫人が、力なく帳面を取り落とす。
私は静かにしゃがみ込み、その帳面を拾い上げた。
侯爵夫妻が結婚したのは四十年前の秋。
四十二ページの茶色いインクの部分は、その年の春、十八歳でまだ「ベアトリス嬢」だったころに書かれたものだ。
そしてページのいちばん下には、黒いインクで一行だけ、こうあった。
『セリーヌへ。ここまで来たなら、もう大丈夫』。
私はそれを一人で読み、目の奥がじんわりと熱くなった。
おばあさま。四十年前に、もう数え終わっていらしたのですね。
そのとき、ユリウス様が母の前に出て叫んだ。
「セリーヌ・ブランシェ! 母上を笑いものにする女とは結婚できない。この婚約は破棄する!」
私は手元の帳面で、最後の索引を引いた。
『婚約破棄されたら……百』。
初めて百ページを開く。
そこは真っ白な空白で、右下の隅に一行だけ『ここだけは、あなたの言葉で』とあった。
最後の最後で丸投げですか、おばあさま。
私は帳面を閉じ、手提げにしまった。
ここからは、もう帳面を見ない。
通りかかった給仕の盆から林檎水を取り、私は一礼した。
「紅茶がございませんので、林檎水で失礼いたします」
心得どおり林檎水を一口飲み、私はユリウス様をまっすぐに見た。
「ユリウス様。この一年、あなたに言われたことは、全部この帳面に載っておりました。どれも、お母様の七つのどれかとして」
「あなたご自身のお言葉を伺ったのは、今のが初めてです。……婚約破棄、謹んでお受けいたします」
ユリウス様は口を開けたまま、何も言い返せない。
すると、柱のそばから侯爵アンセルム様が静かに進み出た。
「ガルニエ侯爵家として、この破棄を認める。……すまなかった、セリーヌ嬢」
侯爵様が、私の前で深く頭を下げられた。
私は侯爵夫妻に一礼し、出口へと歩き出した。
その背後で、ぱちん、と扇が鳴った。
まだ鳴らすのですか、その扇。
私の背中に、侯爵夫人の絞り出すような声が飛んでくる。
「……お若いって、いいわね」
すかさず、最前列のアデール様が大きな声で数えた。
「四つ目ですわ」
扉が閉まる直前、大広間がもう一度、笑いに揺れた。
◇
十月二十六日の土曜日、午後二時。
ブランシェ邸の祖母の書斎には、穏やかな秋の日差しが差していた。
書き物机の前に私が座り、机の向かいの椅子には、お一人で来られたガルニエ侯爵アンセルム様が座っている。
机の上には、私が淹れた紅茶が二客と、あの帳面。
侯爵様は、両家の署名がそろった婚約解消の書類を机に置き、あらためて詫びられた。
侯爵様は紅茶を一口飲むと、その後のことを短く話してくださった。
「ユリウスは来月から、領地で帳簿係の見習いをさせる。自分の言葉で報告書が書けるまで、王都には戻さん」
自分の言葉で報告書が書けるようになるまで、何年かかるかわからないけれど。
「妻は、木曜のお茶会をやめた。客が皆、指を折って数えるのでな」
「まあ……皆さま、数えていらっしゃるのですか」
「ああ。妻が扇に手をかけるだけで、ご婦人方が一斉に指を折り始めるそうだ」
社交界の皆さま、おばあさまの言いつけを忠実に守りすぎである。
侯爵様はカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
「四十年、あれの七つを聞いてきた。笑ったのは、あの夜が初めてだ」
四十年は、さすがに長すぎると思う。
立ち上がりかけた侯爵様が、ふと帳面に目をやり、遠慮がちに口を開いた。
「……四十二ページを、写させてはもらえんだろうか」
「まあ。もしかして、侯爵様も数えられますの?」
「ああ。残りの人生、指を折って聞くのも悪くないと思ってな」
私は笑って、自分で四十二ページを書き写しておいた紙をお渡しした。
もちろん、いちばん下の黒いインクの一行だけは写していない。
「おお、すでに用意してくれていたのか。かたじけない、家宝にする」
侯爵様はその紙を大事そうに上着の内ポケットにしまって帰っていかれた。
一人になった私は、帳面の百ページを開いた。
祖母の一行の下に、自分の言葉で一行書く。
『婚約破棄された場合――お礼を言って、帰って、紅茶を淹れること』。
書き終えて、紅茶を一口飲んだ。木曜のお茶会の紅茶より、ずっとおいしかった。




