結婚前夜、婚約者が弟との間に子供がいることを告げた
結婚前夜、婚約者の水城美月は女友達との送別会で酔い潰れた。
彼女を車で送る途中、彼女は私を実の弟・高瀬蒼真と間違えた。
「蒼真、明日は月斗を会場に連れてこないで。私が彼の実の母親だってこと、絶対に悠真に知られちゃダメだから」
私は急ブレーキを踏んだ。彼女はシート背もたれにぶつかって目を覚まし、私だと気づいて一瞬慌てたが、すぐに落ち着いた口調で言った。
「聞かれちゃったなら仕方ないわ。結婚式は中止よ。蒼真が一人で子供を育てるのは大変だから、月斗が小学校に上がるまでは、私が彼らのそばにいるわ。子供がある程度大きくなったら、戻ってきてあなたと結婚するから」
そう言い終えると、彼女はスーツケースを引いて立ち去り、結婚式のことは二度と口にしなかった。
私は涙を拭い、がらんとした新婚の部屋に一人座っていた。すると携帯電話が鳴った。
幼なじみの黒瀬蘭が掠れた声で言った。
「悠真、彼女と結婚しないでくれない?」
「……ああ。」
1
結婚後の生活のために整えた部屋を見回し、初めてすべてが滑稽に思えた。
玄関には俺と美月の名前が書かれたウェルカムボードが置かれ、ダイニングテーブルには未開封の席次表が積まれている。リビングの隅には、明日、招待客へ渡す予定だった引き出物まで並んでいた。
昨日までは、飾りつけに使った白い花が少なすぎるのではないかと心配していた。
今は、目に入るものすべてが息苦しかった。
大学時代、俺は水城美月を二年間追い続けた。交際を始めて三年後にプロポーズし、明日ようやく、ずっと愛してきた人と夫婦になれるはずだった。
それなのに結婚式の前夜、彼女が三年前から俺の実の弟と関係を持ち、すでに子どもまで産んでいたことを知った。
付き合い始めて間もない頃、美月は家族の勧めで海外留学することになったと言い、俺たちは一年近く遠距離恋愛をしていた。
今になって思えば、留学などではなかった。
妊娠と出産を隠すために作った口実だったのだ。
あの一年間、美月はずっと蒼真と連絡を取り合っていた。
婚約者と実の弟による二重の裏切りが、重い鉄槌のように心を打ち砕いた。信じてきた数年間が、音を立てて崩れていく。
こぼれそうになった涙を無理やり押し戻し、俺は立ち上がった。
この部屋にいると、まともに息もできなかった。
その時、再びスマートフォンが鳴った。
美月からだった。
「悠真、蒼真は月斗の世話で今まで何も食べていないの」
「栄養のあるものを作って届けてあげて。最近、子どもの世話で痩せてしまったのよ」
美月はいつものように一方的に命じ、俺の返事も待たずに電話を切った。
暗くなった画面を見つめながら、俺はゆっくり笑った。
二年ほど前、蒼真は突然、赤ん坊を抱いて実家へ戻ってきた。子どもの母親は責任を負いたがらず、自分一人で育てるしかないと説明していた。
俺は詳しい事情を問い詰めなかった。
むしろ、若くして一人で子どもを育てる弟を不憫に思い、月斗の世話を手伝った。
おむつを替え、ミルクを作り、夜中に熱を出せば病院へ連れていった。月斗が成長するまでの多くの時間を、俺も一緒に支えてきた。
兄としても、伯父としても、俺は誰にも恥じることはしていない。
蒼真が子どもの母親について何も話そうとしないたび、俺は心を痛めていた。無責任な女に裏切られたのだと思い込み、本気で弟に同情していた。
まさか、その女が毎晩のように俺の隣で眠っていたとは思わなかった。
さらに滑稽なことに、この二年間、俺は何度も蒼真へ新しい相手を紹介しようとしていた。
しかし蒼真はそのたびに拒否し、美月も必ず彼をかばった。
「月斗はまだ小さいのよ。蒼真には恋愛をする余裕なんてないわ」
「私たちが結婚した後も、子どもの世話を手伝う人は必要でしょう?」
今考えれば、それは二人が関係を続けながら、俺を無料の保育係として使うための口実にすぎなかった。
これまで気に留めなかった出来事が、次々と意味を持ち始める。
家族で出かける時、美月はいつも人目を引く服を着ていた。蒼真とふざけ合う時も距離を取らず、彼の飲み物を自然に口にしたり、肩へ身体を預けたりしていた。
俺も嫉妬し、もう少し距離を考えてほしいと伝えたことがある。
だが、美月はいつも不機嫌になった。
「蒼真はあなたの実の弟で、私はあなたの婚約者よ」
「私たち二人を信じられないなら、誰を信じるつもりなの?」
たった数言で言いくるめられ、俺は自分が神経質すぎるのだと思い込んだ。
今なら分かる。
俺は疑い深かったのではない。
ただ、あまりにも愚かだった。
デリバリーアプリを開き、近所で最も評価の低い店を選んだ。口コミには、味が濃すぎる、油っぽい、二度と頼まないという不満が並んでいる。
適当に数品を注文し、届いた料理を家の皿へ移した。
俺は袋を持って部屋を出た。
これまで何もせずに世話を受けてきた水城家のお嬢様と、幼い頃から甘やかされてきた高瀬家の次男が、どうやって自分たちの子どもを育てるのか見てみたかった。
白嶺タワーレジデンスの最上階へ着くと、俺は蒼真の住む部屋の前でしばらく立ち尽くした。
広さは百五十平方メートル近くある。頭金を払ったのも、今なお住宅ローンを返済しているのも俺だった。
両親は当時、子どもを抱えた蒼真が狭い部屋に住んでいたら、再婚相手も見つからないと言い張った。
俺はまず普通の賃貸住宅で暮らし、余裕ができてから広い家へ移ればいいと提案した。
しかし、両親は聞く耳を持たなかった。
「蒼真は一人で子どもを育てているのよ。住む家まで貧相だったら、誰も嫁に来てくれないでしょう」
結局、俺は貯金の大半を頭金に使い、長期の住宅ローンまで抱えた。
名義も借入人も、今なお俺のままだ。
蒼真には無償で住まわせていただけだった。
もう両親が、弟の再婚を心配する必要はない。
子どもの母親も見つかり、妻になる女まで見つかったのだから。
俺はインターホンを押した。
扉を開けたのは蒼真だった。
俺を見ても、少しも気まずそうにはしなかった。いつもと変わらない態度で身体を横へずらし、中へ入るよう促した。
「兄さん、先に座っていて」
「美月が月斗の顔を洗っているんだ。さっきまで二人で楽しそうに遊んでいたよ」
美月。
随分と自然な呼び方だった。
俺の前では、ずっと「美月さん」と呼んでいたのに。
今ではもう、隠す気さえないらしい。
俺は死体のように身体をこわばらせたまま、リビングのソファへ座った。
やがて、美月が月斗を抱いて洗面所から出てきた。
二年以上世話をしてきた子どもの姿を見て、俺は反射的に笑顔を向けた。
しかし月斗は、いつものように俺の胸へ飛び込んではこなかった。
小さな指で俺を指し、まだ不明瞭な声で言った。
「ママを取る、悪い人」
俺の笑顔が固まった。
三歳にもならない子どもが、自分でこんな言葉を思いつくはずがない。
誰かが普段から、俺は両親の邪魔をする悪い人間なのだと教えていたのだ。
蒼真は俺を一度見た後、形だけ眉をひそめた。
「月斗、そんなことを言ってはいけない」
「悠真おじさんは、いつもお前をかわいがってくれただろう」
美月は慌てて月斗の耳を両手で覆った。
「子どもを怒鳴らないで」
「まだ小さいんだから、意味も分からず言っただけよ」
美月は俺へ顔を向けた。
「悠真は、子どもの言葉くらいで怒らないでしょう?」
俺は苦笑しながら、その場に座っていた。
今の俺は、幸せな親子三人の時間へ突然割り込み、家庭を壊そうとしている部外者のようだった。
明日、美月と結婚する予定だった男には見えない。
月斗。
名前に使われた「月」の字は、美月と同じものだった。
今日まで、俺はその意味に気づかなかった。
この子は生まれた時から、二人の関係を示す名前を与えられていた。
何も知らなかったのは俺だけだ。
美月は何の問題も感じていないらしく、月斗を俺へ渡そうと近づいてきた。
俺は素早く後ろへ下がった。
「食事は持ってきた」
「俺は帰る」
美月は片手を伸ばし、俺の手首をつかんだ。
「蒼真は一日中、月斗の面倒を見て疲れているの」
「悠真は今、ほかにすることもないでしょう。ちょうどいいから、子育てに慣れておいて」
俺は自分の手首をつかむ指を見下ろし、思わず冷笑した。
「水城美月。俺は確かに馬鹿だったが、まだ正気まで失ってはいない」
「どうして、婚約者と実の弟に裏切られて、その二人の子どもの世話までしなければならないんだ?」
「お前たち親子三人は俺を邪魔だと思わないのかもしれないが、俺にはお前たちが邪魔だ」
美月の表情が険しくなった。
「誰が二人の関係に割り込んだ人間だと言うの?」
「蒼真はあなたの実の弟よ。自分の弟に対して、そんな言い方をするの?」
美月は月斗を抱き締め、まるで俺に譲歩しているかのような声を出した。
「それに、私がこの子を産んだのは、高瀬家の血を引く子どもだったからよ」
「私たちが結婚した後、月斗とあなたが養子縁組をすればいいでしょう?」
「蒼真の子でも、あなたの甥であることに変わりはないわ。自分の子どもとして育てても、大きな違いなんてないでしょう」
そう言いながら、美月は慰めるように蒼真の肩を押した。
けれど、その身体は自然に蒼真へ寄り添っている。
蒼真は目を伏せ、傷つきながらも身を引こうとする人間を演じた。
「もういいよ、美月」
「兄さんと帰った方がいい」
「俺は長い間、一人で月斗を育ててきた。もう慣れているから」
「兄さんが子どもを欲しくなった時に、養子縁組の話をすればいいよ」
場の空気を感じ取ったのか、月斗が突然、大声で泣き始めた。
美月はすぐに慌て、背中をたたきながらあやし、ティッシュで涙を拭った。月斗がようやく泣きやむと、蒼真へ子どもを渡し、俺へ苛立った顔を向けた。
「悠真、もういい加減にして」
「あなたと一緒にいるために、私は月斗へ十分な母親らしいことをしてあげられなかったのよ」
「今から埋め合わせをしようとしているだけなのに、あなたは父親と子どもを引き離すつもり?」
美月は命令するように続けた。
「これまで何度も月斗の面倒を見てきたでしょう。月斗だって、あなたに世話をしてもらうことに慣れているの」
「これからもきちんと面倒を見て。そうでなければ、私と結婚できると思わないで」
一瞬、呼吸が止まった。
今になっても美月は、俺が最も恐れているのは彼女と結婚できなくなることだと思っている。
俺はそれ以上、言い返さなかった。
振り向き、足早に部屋を出た。
2
建物の外へ出て車のドアを開けると、美月が追いかけてきた。
彼女はドアへ手をかけ、ようやく事情を説明する気になったようだった。しかし、その顔には罪悪感も反省もなかった。
「悠真、妊娠した時には、きちんと話そうと思っていたの」
「でも蒼真はあなたの実の弟でしょう。私のせいで兄弟関係を壊したくなかった」
「子どもが生まれて、もし蒼真が育てられなかったら、あなたと月斗を養子縁組させればいいと思っていたのよ」
美月は、ごく普通の家庭計画を説明するような口調だった。
「月斗は高瀬家の子どもで、私の子でもある」
「あなたが育てても、蒼真が育てても、本質的には同じじゃない?」
俺は信じられない思いで彼女を見た。
目の奥が熱くなる。
「残念だったな。今夜、酔って口を滑らせた」
「実の弟の子どもを助けることならできたかもしれない」
「だが、婚約者と弟に裏切られて生まれた子どもを、自分の息子として育てることはできない」
目を赤くした俺を見ても、美月は同情しなかった。
むしろ、面倒そうに眉を寄せた。
「あなたは兄でしょう? どうして、その程度のことで蒼真に譲ってあげられないの?」
「それとも、蒼真が先に子どもを持ったから面白くないの?」
腕を組み、俺を責めるように見つめる。
「蒼真は、あなたが先に結婚することを嫉妬したりしなかった」
「私たちの結婚を祝福してくれていたのよ」
「少しは弟を見習って、心を広く持てないの?」
鼻の奥が痛くなった。
俺は深く息を吸い、感情を無理やり押し込めた。
「俺はお前に言い勝てない」
「もう、何も話したくない」
美月は眉をひそめ、俺の考えなどすべて分かっているという顔をした。
「あなたが何を気にしているか分かっているわ」
「月斗が蒼真の子どもだから、弟に負けた気がしているのでしょう?」
「それなら私たちが結婚した後、悠真との子どもも二人産めばいいじゃない」
「そうすれば、蒼真に負けたなんて思わずに済むでしょう?」
俺はとうとう笑ってしまった。
人はあまりにも呆れると、本当に笑うしかなくなるらしい。
「必要ない」
「婚約は解消しよう」
美月は一瞬、言葉を失った。
すぐに怒りが顔へ表れる。
「悠真、月斗を産んだのは、高瀬家の血を引く子どもだったからだと説明したでしょう?」
「あなたとの子どもを二人産むとまで言っているのに、まだ何が不満なの?」
「怒るのにも限度があるわ。婚約解消なんて、脅しに使っていい言葉じゃないでしょう!」
俺はハンドルを強く握った。
胸の奥で、長年押し殺してきた怒りが激しく渦巻いている。
以前の俺なら、自分から謝っていた。
本当に美月が離れていくことを恐れ、不満をのみ込んでいた。
今回は、もう譲らない。
「確かに、高瀬家の血を引く子どもではあるな」
「ただし、父親は俺ではなく、俺の弟だ」
俺は美月を見つめ、一言ずつ告げた。
「兄と弟と、一人の女と、その子ども」
「考えるだけでも複雑で、気分が悪くなる」
「婚約を解消すれば、お前はこれから蒼真と月斗だけを見ていればいい。もう二つの家を行き来する必要もない」
この三年間、美月と結婚することは俺の夢だった。
ホテルは早くから予約し、前撮りも済ませていた。衣装を着替える順番まで何度も確認し、万一に備えて、規模の異なる会場候補まで用意していた。
ようやく結婚できると思った前日に、彼女はすでに俺の弟との子どもを産んでいたと知った。
美月は、母親になる準備ができていなかったのではない。
俺との子どもを産む準備がなかっただけだ。
美月はなおも俺を責め続けた。
「だから、ただの事故だったと言っているでしょう?」
「妊娠したと分かった時、高瀬家の血を引く子どもを簡単に諦めればよかったの?」
「月斗の命を守ったことが、そんなに悪いことなの?」
いつの間にか、蒼真も建物から出てきていた。
彼は自然に美月の肩を抱き、俺へ目を向けた。
「兄さんは昔から、俺と比べたがっていた」
「美月が先に俺の子どもを産んだと知って、受け入れられないんだよ」
蒼真はわざとらしくため息をついた。
「美月、兄さんを責めないで」
「昔から、俺に嫉妬していたから仕方がないよ」
蒼真を見ながら、幼い頃の記憶が次々とよみがえった。
両親は、いつも弟をひいきしていた。
蒼真が欲しがるものなら、どれほど理不尽でも手に入れようとした。
子どもの頃、俺と蒼真が同じゲーム機を欲しがったことがある。俺が泣いて頼んでも、両親は勉強の邪魔になるから諦めろと言った。
数日後、蒼真が何気なく欲しいと言っただけで、そのゲーム機は彼の部屋へ置かれた。
似たようなことは、何度もあった。
両親にとって、蒼真だけは常に特別だった。
俺は幼い頃から、兄は弟を守り、譲らなければならないと教え込まれてきた。
その言葉に従い続けてきた。
しかし今回だけは、自分が結婚するはずだった相手と人生まで弟へ譲ることはできなかった。
俺は二人を無視し、そのまま車を走らせた。
本来ならすぐに弁護士へ連絡し、蒼真に白嶺タワーレジデンスから退去するよう求めるつもりだった。
だが、スマートフォンが鳴った。
表示された名前は、美月の母親だった。
「悠真さん、美月から話を聞きました」
「明日の結婚式を急に中止すると言い出したことは、確かにあの子が悪いわ。私たちも、孫がもうすぐ三歳になるまで知らされていなかったのよ」
彼女はため息をついた後、すぐに俺を説得し始めた。
「でも、月斗はもう生まれているの。存在しないことにはできないでしょう?」
「美月と結婚した後、あなたがあの子と養子縁組をすればいいのよ。美月が本当に愛しているのはあなたなのだから、結婚生活には影響しないわ」
「蒼真さんも、あなたから美月を奪うつもりはないと言っているそうよ。父親として子どもの世話だけを続ければいいでしょう」
「どうしても月斗を見たくないなら、水城家で育ててもいいわ。あなたの前には出さないから」
喉が締めつけられた。
しばらくして、ようやくかすれた声を出した。
「お義母さん、美月との婚約は完全に解消しました」
電話の向こうが一瞬静かになった。
次に聞こえてきた声は、急に鋭くなっていた。
「高瀬悠真さん。二人が交際を始めた時から、私は娘があなたの前で立場を失うのではないかと心配していたの」
「美月は、多くの人が一度くらい犯してしまう過ちを犯しただけよ。それに今は、真実をあなたへ話したでしょう?」
「たった一度、許すこともできないの?」
ハンドルを握る手へさらに力が入り、指先から血の気が失せていった。
「ご心配なく」
「あなたの娘さんは、もう俺の前で立場を失うことはありません」
「蒼真とはとてもお似合いです。俺は自分から身を引きました。これからは、親子三人の邪魔もしません」
そう言って、電話を切った。
車を道路脇へ止め、ハンドルへ身体を預けた。
呼吸がうまくできない。
美月の尊厳を守るため、俺は必死に働いてきた。高価な贈り物を買い、友人たちの前で彼女が恥をかかないよう、いつも体裁を整えた。
婚前契約さえ求めなかった。
自分が持つものを、すべて彼女へ渡すつもりだった。
それが最初から最後まで、ただの笑い話だったとは思わなかった。
しばらく車内で呆然とした後、俺は新居へ戻った。
間もなく、今度は母から電話がかかってきた。
通話を始めた途端、怒鳴り声が耳へ飛び込んできた。
「悠真、蒼真に何を言ったの?」
「さっき泣きながら電話してきたのよ。兄なのに、どうしてあの子をそこまで追い詰めるの!」
俺は自嘲するように笑った。
俺はまだ泣いていないのに、蒼真はもう被害者として泣いているらしい。
「母さん」
「月斗の実の母親は、美月だ」
電話の向こうに、長い沈黙が落ちた。
次に聞こえてきたのは、父の声だった。
「悠真。実は、蒼真と美月さんのことは、俺たちも前から知っていた」
「黙っていたのは、お前が受け入れられないと思ったからだ。兄弟関係まで壊れてしまうのも困る」
指先が少しずつ冷たくなった。
父は淡々と続ける。
「もう知られた以上、隠す必要はないだろう」
「美月さんは、俺たちも気に入っている。お前が結婚したくないと言うなら、予約したホテルを無駄にする必要はない」
「高額なキャンセル料を払うより、新郎を蒼真に変えて、明日の披露宴を予定どおり開けばいい」
「ウェルカムボードと席次表、司会の原稿はホテル側で変更できる。前撮り写真は間に合わないから、三人で撮った家族写真に差し替えるそうだ」
あまりにも手際よく説明する。
すべて、すでに話し合われていたのだ。
「親戚への説明は、こちらでしておく」
「お前の評判が必要以上に悪くならないようにするから、心配するな」
俺は全身が冷えていくのを感じた。
ホテルの変更手続きまで済ませておきながら、今さら俺の意見を聞くふりをしている。
決定した後で通知するなら、相談の形を取る必要などない。
俺は歯を食いしばった。
「分かった」
「それでいい」
電話を切ろうとすると、父が付け加えた。
「ホテル代の残金と、変更手数料は払っておけ」
目を閉じ、長く息を吐いた。
「蒼真のために金を払うのは、これが最後だ」
3
翌朝、両親から何度も催促され、俺は自分の結婚式のために用意したスーツへ袖を通した。
胸元には、ホテルが急いで作った名札がつけられていた。
そこには、こう書かれている。
【新郎の兄・高瀬悠真】
本来なら式の中心に立っていたはずの俺が、披露宴会場の入口で新郎側の受付を担当することになった。
結婚式当日、俺の婚約者は実の弟と結婚する。
そして俺は、笑顔で招待客に頭を下げ、この披露宴へ来てくれたことへの礼を伝えなければならなかった。
午前中をどう過ごしたのか、ほとんど覚えていない。
ホテルのロビーには、美月と蒼真と月斗の家族写真が並んでいた。昨日まで俺の名前が書かれていたウェルカムボードは取り替えられ、舞台の背景も席札も司会原稿も、すべて新しく作り直されている。
まるで最初から、今日が二人のための結婚式だったかのようだった。
親戚たちも、驚くほど協力的だった。
祝福を求められれば祝福し、司会が盛り上げれば笑い声を上げる。
結婚式の前日に、新郎が婚約者の実の弟へ変更されたことへ、誰も表立って疑問を口にしない。
受付の近くにいたホテルスタッフたちが、小声で話していた。
「あの人、本当は今日の新郎だったらしいよ」
「結婚式の前日に、実の弟へ変更されたってこと?」
「婚約者と弟には子どもまでいたのに、兄は受付をさせられているんだって」
「高瀬家の人たちは、どうしてこれを普通のことみたいに扱えるんだろう」
彼らは俺が近くにいると気づき、慌てて会話をやめた。
けれど、言葉はすべて耳へ届いていた。
俺をまったく知らない人間でさえ、この状況が異常だと理解している。
両親と美月と蒼真だけが、すべて当然のことだと思っていた。
俺は披露宴会場へ顔を向けた。
美月は、本来俺との式で着る予定だったウェディングドレスをまとい、蒼真の隣で招待客から祝福を受けている。蒼真の胸には新郎用の花が飾られ、月斗は小さな礼服姿で二人の手を握っていた。
あの景色は、俺のものになるはずだった。
しかしその瞬間、心に残っていた最後の未練まで消えた。
不思議なくらい、身体が軽くなった。
長く息を吐き、胸につけられた「新郎の兄」の名札を外した。
そのまま、近くのごみ箱へ放り込む。
そして俺は、ホテルを後にした。
正面玄関を出ると、道路脇に一台の黒い車が止まっていた。
黒瀬蘭が車のそばに立っている。
何があったのか尋ねず、慰めの言葉も口にしなかった。蘭はただ俺の手を取り、助手席へ連れていき、身体をかがめてシートベルトまで締めてくれた。
「家まで送るね」
運転を始めた蘭の両手は、ハンドルを強く握っていた。
指先がわずかに白くなっている。
ホテルから離れたところで、俺は突然口を開いた。
「蘭」
「俺と結婚してくれないか」
蘭は驚いてブレーキを踏み、安全な場所へ車を止めた。
喜ぶのではなく、真剣な表情で俺を見つめる。
「悠真、美月さんへ仕返しをするためなら、今は答えなくていい」
「私はあなたをここから連れ出せる。必要なら、これからの手続きも全部手伝えるし、いくらでも待てる」
「でも、誰かに復讐するための妻にはなりたくない」
瞳の奥に隠された期待を見て、初めて自分の言葉がどれほど無責任だったかに気づいた。
「ごめん」
「俺が焦りすぎた」
蘭の目が一瞬だけ暗くなった。
それでも彼女は、柔らかく笑った。
「大丈夫」
「少なくとも、あの披露宴に残らなかった。それだけで十分だから」
月ヶ丘の新居へ戻ると、蘭は長居せずに帰っていった。
俺は一人で部屋へ入り、壁に飾られた前撮り写真を眺めた。
昨夜のような、身体を引き裂かれる痛みはなかった。
婚約指輪を外し、引き出しの中へ置いた。
自分の衣類、書類、私物をすべてスーツケースへ詰める。二人で写った写真から自分の部分だけを外し、ペアで買った食器やタオル、スリッパも、自分のものだけを持ち出した。
管理会社には、美月の入館権限を停止するよう連絡した。
弁護士を通じ、蒼真には白嶺タワーレジデンスから期限内に退去するよう、正式な明け渡し通知を送った。
最後に、美月、蒼真、そして両親の連絡先をすべて拒否設定にした。
すでにまとめてあったスーツケースを引き、俺は新居を出た。
三日後、俺は自分から黒瀬蘭の会社を訪ねた。
蘭は会議室で仕事をしていた。
俺が現れると、その目に驚きが浮かんだ。
俺は彼女の前に立ち、もう一度同じ言葉を口にした。
「蘭、俺と結婚してほしい」
「今度は、誰かに仕返しをするためじゃない。行く場所がないからでもない」
「過去を完全に忘れるまで、どれくらいかかるかは分からない」
「でも、みんなが俺に犠牲を求める中で、蘭だけが俺自身の意思を聞いてくれた」
深く息を吸った。
「俺は、自分の意思で蘭を選びたい」
蘭は長い間、俺の顔を見つめていた。
やがて目が赤くなる。
「悠真」
「今度は、後悔しても取り消せないよ」
「後悔しない」
蘭はようやく俺の胸へ飛び込んできた。
声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「ずっと待っていた」
俺たちはすぐに結婚式を挙げるのではなく、まず白嶺市役所へ婚姻届を提出した。
一か月後、黒瀬家が所有する迎賓館で、親しい人だけを招いた結婚式を開くことになった。
4
一方、一週間後――。
美月はようやく、月ヶ丘の新居へ戻ることを考えた。
この一週間、彼女は白嶺タワーレジデンスに泊まり、月斗の世話をしながら親子三人の生活へ慣れようとしていた。
しかし蒼真は料理も掃除もできず、夜中に月斗が泣けば、すぐ美月へ押しつけた。
これまで家政婦代や生活費、住宅ローンの大部分を負担していたのは悠真だった。
彼が去ると、隠れていた問題が一斉に表へ出た。
新居へ戻る前、美月は月斗に汚された服を着替え、シャワーを浴びた。
さらに百貨店へ寄り、悠真のために高価なスーツを買った。
悠真は一時的に怒っているだけだと信じていた。
自分が戻り、少し優しい言葉をかけ、月斗の生活を早く整えると約束すれば、以前と同じように許してくれる。
美月は疑っていなかった。
蒼真が背後から彼女を抱き締めた。
「シャワーを浴びたの?」
「今夜は残らない?」
美月は反射的に眉をひそめた。
この数日、蒼真はしわだらけの部屋着を着て、身体からは粉ミルクと幼児食の混じったような匂いがしていた。
秘密の関係だった頃に感じた刺激は、生活の細かい現実によって急速に薄れていた。
「今日は悠真のところへ戻るの」
蒼真の表情がわずかにこわばった。
「もう俺から離れられるの?」
美月は蒼真の腕を振り払い、触れられた服を嫌そうに払った。
その仕草に気づき、蒼真の目に不満が浮かぶ。
「今日は月斗の物を買いに行く予定だっただろう?」
「今まで母親らしいことをしてこなかったんだから、少しくらい責任を持ってよ」
美月の忍耐はすぐに尽きた。
「明日になったら、店が全部なくなるの?」
「どうして今日でなければならないのよ」
冷たい目を蒼真へ向けた。
「あなたまで悠真みたいに、しつこくしないで」
「忘れたの? 私が悠真と付き合っていた時、二人の間に割り込んできたのはあなたなのよ」
蒼真はその場で固まった。
美月が、自分たちの披露宴を開いたばかりなのに、もう彼を関係へ割り込んだ人間として扱うとは思わなかったらしい。
美月は気に留めず、悠真へ買ったスーツを持って部屋を出た。
一時間後、美月は月ヶ丘の新居へ着いた。
新しいスーツを着た悠真が喜ぶ姿を想像し、思わず口元を緩めた。
ところが、扉を開けた瞬間、目の前の光景に立ち尽くした。
家具や結婚式の飾りつけはほとんど変わっていない。
それなのに、生活している人間の気配がなかった。
「悠真?」
名前を呼びながら、部屋中を捜した。
返事はない。
壁の前撮り写真からは悠真の部分だけがなくなり、ペアで買った品物も、美月の分しか残されていなかった。
悠真に関係する痕跡が、ほとんど消えている。
最後に、引き出しの中から薄くほこりをかぶった婚約指輪を見つけた。
その指輪を渡した日、悠真は美月を抱き締め、感激のあまり一晩中眠れなかった。
その記憶がよみがえり、美月は初めて本当の恐怖を覚えた。
自分のスマートフォンから電話をかけたが、すでに着信拒否されていた。
美月は慌てて新しい電話番号を用意し、暗記している悠真の番号を押した。
呼び出し音の後、電話はすぐにつながった。
しかし聞こえてきたのは、女性の声だった。
「はい」
美月の表情が険しくなった。
「あなたは誰?」
「高瀬悠真はどこにいるの?」
電話の向こうで、蘭が小さく笑った。
「妻です」
「悠真は昨日、結婚式の打ち合わせで遅くまで起きていたので、まだ眠っています。何かご用でしょうか?」
美月の頭の中で、何かが大きな音を立てた。
「妻?」
「今、どこにいるの?」
蘭は隠そうとしなかった。
「一か月後、黒瀬迎賓館で結婚式を挙げます」
「水城さんからお話があるなら、それまでに弁護士を通してください」
通話はそのまま切れた。
美月は怒りに任せ、テーブルの上の贈り物や飾りを床へ払い落とした。
ほんの数日、家を離れていただけなのに、悠真はすでに別の女と婚姻届を出していた。
美月の中では、悠真は永遠に自分を待つ存在だった。
蒼真との間に子どもがいても、結婚式の新郎を変更しても、悠真だけは変わらず自分を愛し続ける。
彼女は一度も、本当に捨てられる日が来るとは考えていなかった。
5
一か月後、俺と黒瀬蘭の結婚式が黒瀬迎賓館で開かれた。
蘭は、俺が好きなものも苦手なものも、誰より理解していた。
庭園に敷かれた淡い色の花道、会場の照明、音楽、テーブルを飾る花まで、すべてが俺の好みに合っている。
招待客の数を必要以上に増やすこともなく、富を見せつけるような装飾もなかった。
静かで落ち着いた式だった。
それでも、細部の一つ一つから、俺のために考え抜かれたことが伝わってきた。
蘭は俺の前に、漆黒のウェディングドレス姿で立っていた。
長い裾が床へ広がり、黒い生地が照明を受けて柔らかく輝いている。
以前、なぜ黒を選んだのか尋ねたことがあった。
蘭は真剣な顔で答えた。
「黒は、ほかの色に染まらない色なの」
「私の気持ちも、ずっと変わらなかったから」
蘭が俺の手を握った。
司会者が誓いの言葉へ進もうとした時、入口付近から騒がしい声が上がった。
水城美月が、会場へ押し入ってきた。
服は乱れ、髪も十分に整えられていない。怒りで両目を赤くしながら、俺をにらみつけていた。
「高瀬悠真!」
「私が離れてから、まだ一か月しか経っていないのよ。それなのに、本当に別の女と結婚するつもり?」
美月の目が、俺と蘭の重なった手へ向けられた。
表情がさらに険しくなる。
「もう、あなたが怒っていたことは気にしない」
「蒼真も突き放したし、月斗のことも改めて考えるつもりよ」
「今すぐその女の手を放して。そうすれば蒼真と離婚して、あなたと結婚してあげる」
俺は目を閉じ、美月の言葉に答えなかった。
無視されたと感じた美月は、突然声を荒らげた。
「悠真、聞こえないの?」
「私と帰りなさい!」
美月は俺の手首をつかもうと近づいてきた。
蘭が一歩前へ出て、その手を止めた。
「どこへ連れて帰るつもりですか?」
「あなたの相手と子どもの世話をさせる家ですか。それとも、二つの家族の生活費を払わせる場所ですか?」
蘭の声は穏やかだった。
しかし、美月は手を動かすことができなかった。
「悠真があなたへ、どれほど尽くしたか理解しているはずです」
「それなのに結婚式の前夜、実の弟との間に子どもがいると告白し、数年間待てと要求した」
「水城美月さん。あなたに、これ以上悠真へ何かを求める権利はありません」
美月は蘭の手を強く振り払い、俺をにらんだ。
「悠真、あなたは一生、私だけを愛すると約束したでしょう?」
「結婚する相手は私だけだと言った」
「約束を破っているのは、あなたの方よ!」
今になっても、美月は俺が悪いと考えている。
俺は彼女を見ながら、かつて何を愛していたのか分からなくなった。
慎重に言葉を選び、何でも受け入れ、文句も言わずに尽くしてきた。
そのすべてが、美月にとって俺を当然のように傷つけていい理由になった。
あまりにも滑稽だった。
美月がもう一度手を伸ばした。
俺はその手首をつかんで止め、すぐに放した。
「俺たちは、とっくに終わっている」
「君が蒼真との子どもを身ごもりながら、俺との交際を続けた時に、約束は壊れていた」
「この三年間、二人が何度会い、どれだけ俺を欺いたかは、もう調べるつもりもない」
俺は美月をまっすぐ見た。
「水城美月。もう君はいらない」
「月斗も、俺のせいで母親と暮らせないとは言われない。これからは堂々と、あの子のそばにいればいい」
美月の目に、傷ついたような色が浮かんだ。
「この数年間、私が本当に愛していたのは悠真だけよ」
「あなたを愛していたから、付き合ったの」
「蒼真と月斗の面倒を見ているのは、責任があるから。それと愛情は別でしょう?」
すでに別の男との子どもを産んだ人間が、愛しているのは婚約者だけだと言っている。
俺には理解できなかった。
「もう十分だ」
「君の愛情は、俺には重すぎる」
美月は視線を揺らし、それでも諦めなかった。
「私は、一度間違えただけよ」
「もう二度としない」
「月斗が小学校へ上がったら蒼真と離婚して、今度こそ完全にあなたのところへ戻るから」
美月は必死な目で俺を見た。
「今、黒瀬蘭と結婚するのは、私への復讐でしょう?」
蘭は、まともな言葉が通じない人間を見るように美月を見つめた。
「悠真は私の夫です」
「これ以上、近づかないでください」
蘭は入口にいる警備員へ合図した。
「あなたは招待を受けずに私有地へ入り、結婚式の進行を妨げています」
「これ以上居座るなら、不法侵入と業務妨害として警察へ通報します」
美月はなおも俺へ向かおうとしたが、複数の警備員に行く手を阻まれた。
俺の名前を叫びながら抵抗している。
だが、その目の前で、俺と蘭の誓いの言葉は続けられた。
迎賓館の外へ連れ出されるまで、美月は俺が本当に振り返らないことを信じられない様子だった。
式が終わった後、俺は警備責任者と話している蘭を見つめた。
ふと疑問が浮かぶ。
俺の記憶にある蘭は、知的で穏やかな姉のような女性だった。
いつから、あれほど人を圧倒する空気を持つようになったのだろう。
蘭は俺の視線に気づき、少し気まずそうにせき払いした。
「今まで言っていなかったことがあるの」
「黒瀬家は昔、青凪県で任侠を名乗っていた家系なの。でも何十年も前に完全に足を洗って、今は警備事業とリスク管理、施設管理を行うグループになっているわ」
蘭は俺の腰へ腕を回し、少し甘えるように続けた。
「子どもの頃、私が少し厳しい顔をしただけで、悠真は泣きそうになっていたでしょう?」
「怖がらせたくなくて、ずっと言えなかったの」
俺も蘭を抱き返した。
黒瀬家が昔どんな家だったかは、俺にとって重要ではない。
目の前にいるこの女性が、本当に優しい人だということだけ分かっていればよかった。
6
一方、美月が水城家の客間で目を覚ますと、周囲から騒がしい話し声が聞こえた。
母親は美月が目を開けると、すぐに責めるように言った。
「どうして一人で黒瀬家の結婚式へ乗り込んだの?」
「あそこには専門の警備員が大勢いるのよ。何かあったら、私たちはどうすればいいの?」
「月斗はどうするつもりなの?」
美月は眉を寄せた。
「蒼真は、一人で月斗を育てられると言っていたでしょう?」
「私に何の関係があるの?」
母親は呆れた顔をし、夫へ助けを求めた。
水城家の父親はしばらく黙った後、これまで避けてきた現実を口にした。
「美月。蒼真さん親子の生活費や住宅ローン、家事代行の費用は、ほとんど悠真君が払っていたそうだ」
「今は悠真君が高瀬家と縁を切り、蒼真さんへ部屋から退去するよう求めている」
「蒼真さんには安定した仕事も、十分な貯金もない」
父親は美月を見た。
「これからは、今までのように買い物や遊びだけをして暮らすことはできない」
「蒼真さんと結婚した以上、働いて一緒に子どもを育てる必要がある」
美月は勢いよく起き上がり、部屋の隅にいる蒼真をにらみつけた。
「蒼真、何か言いなさいよ」
「最初に、悠真からずっといじめられてきたと泣きながら言ったのはあなたでしょう?」
「だから私は、あなたを慰めた」
「あの夜だって、酔っていた私につけ込んだのはあなたよ」
美月の声は次第に鋭くなった。
「悠真は子どもを作れない体だと、嘘までついた」
「妊娠しても身体を傷つけたくない、子どもは自分一人で育てる、私には何の責任も負わせないと約束したでしょう?」
「今さら、私も働いてあなたと月斗を養えと言うの?」
蒼真は月斗を抱き、両家の親の前で言葉に詰まった。
「俺だけの責任じゃない」
その言葉が終わると同時に、水城家の父親が蒼真の頬を打った。
「兄と結婚する予定だった女に、意図的に嘘をついたのか?」
「ここまで問題を起こしておいて、自分と子どもの生活さえ支えられないのか!」
高瀬家の両親が慌てて二人の間へ入り、どうにか水城家の両親を別室へ連れていった。
大人たちがいなくなると、美月は冷たい目で蒼真を見た。
蒼真は月斗を抱き締め、深く息を吸った。
「美月。実は、俺も兄さんと同じくらい、昔から君が好きだった」
「でも君の目には、いつも兄さんしか映っていなかった」
「こんな方法を使わなければ、君は一生、俺を見てくれなかった」
蒼真は顔を上げ、傷ついたような表情を浮かべた。
「君だって、俺をまったく好きではなかったわけじゃないだろう?」
「そうでなければ、妊娠した後に月斗を産もうと思わなかったはずだ」
「この数年間、俺たちへ会いにも来なかっただろう」
「兄さんはもう別の人と結婚した。俺たちも戸籍上の夫婦になったんだ」
「これから親子三人で暮らせばいいじゃないか」
その瞬間、美月はようやく、自分が何をしたのか理解した。
蒼真は兄を陥れた。
しかし悠真の婚約者だった自分も、一度の過ちで止まることなく、月斗の出生を隠すことへ協力した。
そのうえ、悠真から与えられる生活や愛情を享受し続けた。
悠真が苦しんだのは当然だった。
それなのに、美月は彼が神経質で、心が狭く、聞き分けのない人間だと思っていた。
悠真が一人で荷物をまとめ、新居から出ていった時、どれほど孤独だったのか。
想像するだけで、胸が強く痛んだ。
美月は胸元を押さえ、顔を青ざめさせた。
「出ていって」
蒼真が目を見開いた。
「美月?」
「離婚する」
蒼真は慌てて近づき、彼女を抱こうとした。
「現実を見ろよ」
「君は俺を愛している。だから月斗が生まれたんだ」
「君は一度も、本当の意味で兄さんの側に立ったことがない」
「悠真はもう戻らない。君を愛しているのは、俺だけだ」
美月は冷たい声で言った。
「二度言わせないで」
「月斗を連れて、出ていって」
美月の声に驚いたのか、月斗が突然泣き始めた。
蒼真は子どもを抱いたまま、最後には憎しみのこもった目で美月を見て、部屋を出ていった。
美月もベッドから下りた。
両家の親が止める声を無視し、一人で水城家を後にした。
7
結婚して半年後、蘭が妊娠した。
知らせを受けた時、俺は会社で会議をしていた。
予定を切り上げ、すぐに帰宅した。
診察を受け、母子ともに問題はないと分かってから、ようやく身体の力が抜けた。
この知らせを祝うため、俺は蘭と一緒に白嶺セントラルへ買い物に出かけることにした。
家を出たところで、黒瀬邸の門前に美月がひざまずいているのが見えた。
うつむいたまま、少しも動かない。
いつからそこにいたのか分からなかった。
俺は視線を外し、蘭の手を取って横を通り過ぎようとした。
美月は顔を上げ、複雑な表情で俺を見た。
しかし、その時は声をかけてこなかった。
俺たちは白嶺セントラルで、たくさんのベビー用品を買った。
蘭は湖月高原にある別荘も気に入り、その場で購入契約を結んだ。
俺の手を握り、期待に満ちた目で笑った。
「子どもがもう少し大きくなったら、ここを私たち親子三人の秘密基地にしようね」
胸に温かいものが広がり、俺は蘭の指を軽く握り返した。
家へ戻ると、美月はまだ同じ場所にひざまずいていた。
今度は、俺の名前を呼んだ。
「悠真」
「私たちは、本当にもう無理なの?」
目は真っ赤だった。
俺が答えずにいると、美月の顔に初めて恐怖が表れた。
「蒼真は、ずっと私たちを陥れようとしていたの」
「悠真は子どもを作れない体だと嘘をついたのも、私が酔っている時に近づいてきたのも、全部あの人よ」
「今は、自分が間違っていたと分かっている」
美月は俺の足元へにじり寄り、逃がさないように脚へしがみついた。
しかし彼女が過ちを理解するには、あまりにも遅かった。
「水城美月。俺の妻は妊娠している」
「蘭が妊娠していなくても、俺が結婚していなかったとしても、君と元に戻ることはない」
この言葉で諦めると思っていた。
だが、美月の執着を甘く見ていた。
彼女は信じられないという顔をし、すぐに大粒の涙を流した。
「私は気にしない」
「悠真がほかの女との間に子どもを持っていても、気にしないわ」
「悠真さえ戻ってくるなら、あなたも、その子どもも私が養う」
「これから私との子どもを欲しくないと言っても構わない」
美月は、委屈さと愛情を込めた目で俺を見ていた。
俺は脚へ絡みつく腕を振りほどいた。
心は少しも動かなかった。
これまでの裏切りを知らなければ、昔の俺なら、その言葉に心を動かされたかもしれない。
蘭が俺の前に立ち、美月との間を遮った。
「水城美月さん。子どもの母親である私は、まだ生きています」
「私の夫と子どもを、あなたに養ってもらう必要はありません」
蘭が片手を上げると、黒瀬家の警備員たちが近づいてきた。
美月は地面から立たされ、そのまま邸宅の敷地外へ連れていかれた。
その日以降、美月は何度も蒼真へ離婚を求めたらしい。
だが、蒼真は頑として同意しなかった。
俺からの金銭的支援も、白嶺タワーレジデンスに住む権利も失っている。
蒼真にとって、美月と水城家は最後に残された頼みの綱だった。
8
その後、二つの家族の生活は急速に崩れていった。
蒼真は月斗を連れ、高瀬家の両親が暮らす古く狭い家へ移った。
水城家も、それまで俺が提供していた取引先や経済的支援を失い、以前のような生活を維持できなくなった。
美月はその状況を受け入れられなかった。
蒼真へ繰り返し離婚を求め、俺にも何度も連絡を取ろうとした。
しかし、俺が返事をすることはなかった。
ある冬の夜、美月は一人で白嶺市郊外の山へ向かった。
そこには、俺への謝罪が書かれたメッセージが残されていたという。
捜索隊が山中で彼女を発見した時、すでに息はなかった。
知らせを受けた蒼真は、完全に取り乱した。
美月を奪ったのは俺だと責め、両家の親が彼女を止めなかったことにも怒りを向けた。
数日後、高瀬家の車庫に異変を感じた近隣住民が警察へ通報した。
月斗は意識を失った状態で救出され、一命を取り留めた。
蒼真は助からなかった。
月斗は児童相談所へ一時保護された。
両家の祖父母には、すでに幼い子どもを安全に育てる能力がないと判断され、その後、審査を受けた里親家庭へ引き取られた。
俺は月斗を自分の家庭へ迎えなかった。
ただし身元を伏せたまま、彼のために教育資金の信託を設けた。
大人たちが犯した過ちは、何も知らない子どもが背負うべきものではない。
子どもたちを続けて失ったことで、両家の四人の親も急速に精神状態を崩した。
二人には深刻な認知機能の低下が現れ、残りの二人も感情を制御できず、日常生活を送れなくなった。
親族の判断で、それぞれ別の介護施設や医療機関へ入所した。
それでも意識がはっきりしている時には、美月と蒼真は生前に幸せな夫婦になれなかったのだから、死後に結婚式を挙げさせるべきだと主張した。
後日、数人の老人が介護職員の目を盗み、二人の写真と儀式用の品を持って、白嶺市郊外の寺へ入り込んだ。
許可を得ずに故人同士の結婚式を行おうとし、境内で大量の紙や布を燃やそうとした。
火災を恐れた寺の関係者が、すぐに警察へ通報した。
老人たちは保護され、再び医療機関と介護施設へ戻された。
その荒唐無稽な出来事は、一時的に地元のニュースでも報じられた。
9
蘭が出産する日、俺はずっと病院の外で待っていた。
赤ん坊の泣き声が聞こえた瞬間、何時間も緊張していた身体から、ようやく力が抜けた。
娘は無事に生まれた。
蘭は病室のベッドに横になり、小さな赤ん坊を珍しそうに眺めていた。
その目には、隠し切れない愛情があふれている。
「悠真、見て」
「この子、あなたにそっくり」
俺は娘を両手でそっと抱いた。
少しでも不快な思いをさせないよう、呼吸さえ慎重になる。
「俺は前世で、どれほどよいことをしたんだろう」
「二人のお姫様を同時に手に入れられるなんて」
蘭が退院した後、俺はしばらく仕事を減らした。
家には専門のサポートスタッフがいたが、すべてを他人へ任せる気にはなれなかった。授乳以外でできることは、なるべく自分で引き受けた。
ある日、寄り添って眠る蘭と娘の姿を写真に残そうと、スマートフォンを手に取った。
その時、画面へ地元ニュースの通知が表示された。
内容は、両家の老人が寺へ無断で入り、美月と蒼真の死後の結婚式を行おうとした事件についてだった。
記事を読み終え、背筋に冷たいものを感じた。
二人は、互いの人生にとって災厄のような存在だった。
蒼真は嘘と策略で美月を手に入れたが、最後まで彼女の心を得ることはできなかった。
美月は二人の男から求められる刺激と、自分のために争う姿を楽しんだ。すべてを失って初めて、かつて本当に大切にしてくれた相手を思い出した。
俺にはもう、振り返る理由がない。
スマートフォンを置き、ベッドにいる蘭と、腕の中の娘を見た。
窓の外には明るい日差しが広がり、部屋の中は静かで温かかった。
かつての俺は、水城美月を失えば、人生そのものを失うと思っていた。
今なら分かる。
あれは人生の終わりではなかった。
間違った相手から離れ、本当の幸せが始まるための瞬間だった。
俺は今、使い切れないほどの愛情と安らぎに包まれている。
今度こそ、この幸せを大切にしていく。




