Tact.1
この世界は嘘で満ち溢れている。
夢を見ていた。
季節に合わせた服やディスプレイが街中を鮮やかな色で溢れさせている。交差点を忙しなく歩く人の群れで様々な色が交錯する。止まることのない群衆は、喧噪とともに街に活気を溢れさせていた。
どこにいても人の気配がする。落ち着いたカフェから外を眺めれば、街を行く人々は皆どこか急いでいる。
緑に溢れた大地は広く、空と海はどこまでも青い。果てしなく続いているような気さえしてくるが、ふと、どこか違和感を覚えた。
そうだ。
この世界にはそんな自然は無いのだ、と。
そう思った瞬間、身体にガクンと衝撃を受けて完全に現実に戻ってきた。
正直、あの夢の世界にもう少し浸っていたいとも思ったのだが、そうも言っていられない。ぼんやりした頭に声が響き、降車駅が近付いてきたのだと分かった。
そろそろ覚醒しなければ。だるい身体に言い聞かせるように狭い車内で伸びをする。
窓から外を眺めれば夢とは正反対の乾いた大地。どこまでも続く何もない世界。
それもこれも人類にとって天敵が現れたことが原因だ。
歴史に疎い自分はそれがいつ現れたものか詳しく覚えていなかったが、それが何なのかははっきりと記憶していた。
「それで、ズームにするにはここを押して……」
「わあっ、すごいすごい! こんなに綺麗に撮れるんだぁ~!」
大きな欠伸をしながらもう一度伸びをすれば、若い男女の大きな声が耳に入ってきた。まだ学生だろうか。男女というよりも少年少女と言うほうがしっくりくる二人が、少し前方の席でカメラを手に楽しそうに会話をしている。
「先輩、撮ったやつはどうやって見るんですか?」
「あぁ、それはこっちのメモリを呼び出してだな」
「おぉ~~~っ!」
だいぶ盛り上がっているらしく、気持ちとともに声量も上がっているようだった。もっと席が近かったらうるさいと注意したかもしれないが、今の自分にはその若さゆえの騒がしささえ好都合だ。これではきっと集中して眠ることも出来ないだろう。二度寝して下車駅を乗り過ごすことを考えたら起きていられる安心材料が出来たことのほうが嬉しい。
(――しかし、このご時世にカップルで優雅に列車旅行とは……。最近の若いやつの考えることは本当にわからんなぁ)
そんなことを思いながらもう一度窓を見れば、見飽きた疲れ顔が映っていた。赤茶色の短髪は気付けばぼさぼさになり、切りに行く暇もなく誤魔化すように後ろに撫で付けていたが、さすがに煩わしくなってきた。寝坊して剃り損ねた無精ひげは、きちんと整えればこれはこれでいいかもしれない。
まだ寝不足のあとが顔に色濃く残り、やつれきった自分とは正反対に黒のロングコートはおろしたての上物だ。「せめて上着くらいはいいものを着て行け」と以前上司がわざわざ買ってきた時は申し訳なく思ってしまったくらいだった。基本的に制服でいることが日常になっているのもあったが、私的な服装に気を配る余裕がなかったこともあったのだろう。家と職場の往復ばかりで着る機会もなければ、休日だったとしてどこか格好をつけて遊びに行くような場所も相手もいない。疲れた体が求めるままにベッドで気を失い、いつもと少しだけ違う飯を入れたらすぐにまた仕事だ。やっとのことで一息つけそうな丸二日の休日も急な出張でパーになってしまったが、ようやく袖を通すことができた。長時間座りっぱなしでは変に皺がついてしまいそうな気がして、結局コートは脱いでしまったが。
いくら多少安全になったとはいえ、まだまだ危険と言われているこの大陸列車を使う人間は少ない。隣の都市とはいえ一度軍が守る城壁の外へ出て、透明なパイプ状の防壁の中を通って行くのだ。パイプの中からは乾ききった大地と、澱んだ空が広がっていくのが見える。そして遥か遠く蜃気楼のようにかすかに蠢いている影は、人類を脅かす天敵の姿だ。
ぐちゃぐちゃと鉛筆で書き殴ったような形の影の塊は『四鬼』と呼ばれていて、どこから現れたのかも分かっていない。
やつらが世界中の『色』を喰い荒らし、世界は色を失ってしまった。色は世界の生命でもあったのだろう。色を失うと急速にその活動は低下していき、最後には完全に止まってしまう。つまり、死だ。やつらにとっては色を喰うことが生命維持活動なのだろう。かつて食物連鎖の頂点にいた俺たちが餌になる番が回ってきたというわけだ。
灰色の世界で四鬼が次に目をつけたのは鮮やかな色彩を持った人間だった。先人たちは何とか対抗策を見つけ出そうとしていたようだが、色を吸い続けて爆発的に増えてしまった四鬼の前では焼け石に水をかけるようなもので。今や根絶することなど不可能なくらい、人類は瀬戸際に追い詰められている。
だが、人類とて追い詰められているだけではなかった。
やつらにとっての天敵は『音楽』だということが分かったのだ。なぜやつらが音楽を苦手としているのかは覚えていないが、それが身を守る術であることは今この世界において生きていくために必要なことだ。
対四鬼用の処理を施したパイプの中、走行中の列車は爆音で音楽を流し続けている。といっても垂れ流しているのはパイプの外側。しかも人間の聞こえない範囲の周波数らしく、窓際に座ったところで蚊ほどの音も聞き取れやしなかった。
そこまで警戒していたとしても確実な安全保障などできるわけもなく、実際にパイプの劣化した箇所からやつらが侵入し、列車が襲われたケースもある。そのため列車の運行それ自体を軍が統括しており、その運行数自体が非常に少ない。都市と都市を結ぶ唯一の安全経路がこの大陸列車なのだ。
パイプの外を歩くよりは幾分かマシなだけの、そんな危険極まりない列車に乗ろうなどという酔狂な輩は滅多におらず、申し訳程度に客車のついた物資の輸送用貨物列車と成り果てていた。
しかし、どういうわけだか今日はその列車にやけに乗客が多い。久しぶりに客車としての役割を果たしている車両には自分の他にも数人の姿があった。前の方には乗客がいる場合にその車両に同乗することになっている、がっしりとした体格の軍人。スーツに身を包んだ気弱そうな中年男性。ここからはあまり見えないが、似たようなスーツの男性があと二人ほど。中ほどの席には先ほどの騒がしい二人組。そして少し後ろの席には、不機嫌そうな顔で窓の外を眺める青年がいた。
しばらくぼんやりしていると再び車内アナウンスが流れたが、予想していたよりも到着までまだ時間はかかりそうだった。
何度目かの欠伸をしながら再び窓の外に目をやる。
天敵によって世界から色彩が失われ、パイプの外に広がるのはモノクロの世界だ。かつてはこの外側にも街があったのだと誰かが言っていたが、実際に目に入るのは不毛で不条理な大地だけだ。鮮やかな列車内と灰色の世界。異質で異常で、だがしかしそこにあるのはまぎれもない現実だ。
瓦礫と化したかつての街と、灰色の大地、澱んだ空。
自分が生まれた時にはもうすでにそんな世界が形成されていた。色鮮やかな世界の情報は何度か見たことがある。食べ物に困ることもなく人や機械で街は溢れかえり、様々な情報があちこちから絶え間なく流れてくる時代。昔の人はどんな心配をして生きていたのだろうか。すっかり変わってしまった世界では今日明日を安心して生きていくためにはどうすればいいか、人々はそれだけを考えて眠れぬ日々を過ごしたこともあっただろうに。かく言う自分もそんな考えを持つ一人であるのだが。
「うっわ、この写真ひっどい顔ですよ!」
聞こえてくる声があまりにも日常的で、自分がなぜこんなにも感傷的になっているのかと苦笑する。普段考えないだけに、自分にもこんな一面があったのかと小さな発見をしたところで、電車は影に包まれた。
「わ、トンネルだ!」
車内がさらに薄暗くなったことで再び眠気に襲われそうになる。もう一眠りくらいしても大丈夫だろうと、窓際にかけていたコートを取りアイマスク代わりに頭に被せる。
が、そこでふと気付く。
この都市間の連絡通路にはトンネルがどこにも存在しないということに。
「違う、これはトンネルなんかじゃない。これは――」
慌てて立ち上がり前を見れば、軍人は鳴り響いた内線電話を受けようと手を伸ばした。
しかしそんな余裕はない。もう、すぐそこまで影は迫ってきていた。
「伏せろ!!」
若い男が叫んだのとほぼ同時――ガラスの割れる音とともに列車が衝撃で大きく揺さぶられる。甲高い音をパイプ内に不気味に響かせながら、列車の速度は急激に落ちてゆき、そしてパイプ内で左右に大きくぶつかった後、金属の擦れる音とともに停止した。客席にしがみ付いて何とか衝撃から身を守ったが、これで終わるはずがなかった。
『――第一次緊急警報! 第一戦闘配備発令! 繰り返す! 第一戦闘配備発令! 奏者は速やかに配置につけ! 繰り返す――』
けたたましく鳴り響く警戒音とともにノイズ混じりに聞こえてきた内容に、視界がくらりと歪んだ。