Tact.0
世の中には、持つ者と持たざる者がいる。
例えば金。例えば地位。それは肉体だったり、才能だったり様々だ。例をあげればきりがない。
必要とする誰かが持っていなかったものを、もしかしたら少女は持っていたのかもしれない。けれどもこの場においては、少なくとも少女は持たざる側の人間だった。努力で才能を開花させるとはよく聞くが、どれだけ努力を重ねても何かが開花することはなかった。他人からすればその努力も甘かったのかも知れないが、考えうる限りの努力を少女はしてきた。何をやってもそこそこにしかできなかったが、それこそが与えられた能力なのだと、少女は考えることにした。
何をやってもそこそこはできるのだ、と。
少女は、好きなことを仕事にしようと心に決めた。
たとえ少しも才能が開花せず、平々凡々に生涯を終えたとしても。
ぽかぽかとした陽気の中、そよりと風が頬を撫でる。
重い目蓋を少しだけ持ち上げると、桜の木が見えた。窓からの距離はあるのに、ここまで香りが漂ってきそうなほど鮮やかさに見えた。
重力に負けて目蓋を閉じかけたその時、頭にぺしんと衝撃を受ける。
「起きなさい! まだ話は終わっていませんよ!」
のそのそと顔を上げれば、眼鏡マダムが不機嫌そうに見下ろしていた。
(やば。まだ授業中だった?)
「あなたって人は最後の日までまったく……」
はぁと大きな溜息が聞こえたかと思うと、すぐに大勢の笑い声が聞こえてくる。
学生最後の日。卒業式。今日でお別れのクラスメイトたち。先生。
目の前にいるはずなのに、なぜかものすごく遠い。まるで自分のことではないような感覚に、まだ夢を見ているようだ。
「水分さん? 聞いていますか?」
「あっ、はい。起きてます起きてます」
「はぁ……先生はあなたが心配で仕方ないですよ……」
「あはは……」
笑いごとではないのだろうけど、学生最後の日だ。笑って、大丈夫だって、周りというより自分に言い聞かせるように「がんばります」と言う。
大人たちに守られ、平和に過ごした寮生活もこれでおしまい。
卒業したら私はカメラマンとして就職する。いろんな場所へ取材に行くと言っていたから、きっとあちこち回るのだろう。たぶん、危険な場所も。
クラスメイトのほとんど――というか私以外の全員が(もしかしたら学年全員かも)、卒業後は進学することになっている。そもそもこのまま就職したがるほうが物好きなのだ。自分の身を守るためにも、社会貢献するためにも、このまま学院に行くのが一番いい。
何よりも、この世界で生きるためには。
けれども私は、残念なことに才能がなさすぎた。
だからせめて好きなことを仕事にしようと写真を選んだ。といっても特段上手いわけでもない。あくまでも好きの延長だ。本当に好きかと問われたら、わからなくなってしまうかもしれない。それでも下手なりにやってきた自分自身の『好き』のなかで、これからも続けられそうだと漠然と思ったのが写真だっただけだ。
自分でもこれからに不安を感じないわけではないけれど、周りにあわせて進学したところで辛い日々が待ってるだけ。場合によっては進級すらできないかもしれない。そもそも入学できるのかどうかも怪しいレベル。
「その笛くらいはきちんと鳴らせるようにしてくださいね……」
「大丈夫ですよ! ホイッスルくらいなら吹けますから!」
首から下げたホイッスルをピッピッと吹いてみせる。しかし先生からは「鳴らすだけなら子供でもできます」と散々な評価だ。
「せめてもうちょっとリズムがとれればねぇ……」
はぁ、と何度目かの大きな溜息に、クラスメイトもまた笑い出す。
「なんでずれるんですかねぇ?」
「こっちのセリフですよ、水分さん」
私は、壊滅的に音楽センスがなかった。
しかし残念なことに、この世界で生きていくうえで音楽は欠かせないものなのだ。
つまり。私の人生、どうあがいてもハードモードなのだ。
音楽が芸術だ娯楽だと言われていたのは遥か昔。
今や音楽は生活の一部。いや、生活していく上で必要不可欠なものだ。
この世界で人類が生きていくうえで、どうしても音楽が必要なのだ。
私がそんなハードモードで生きなければならなくなった原因は人類の歴史にある。
異常気象。環境破壊。地殻変動。食糧危機。世界戦争。
そんな過去の人類に鉄槌を下すようにどこからともなく現れた人類の天敵。『四鬼』と呼ばれたそいつらは、あっという間に世界を人類が住めない世界へと変えていった。
人類が現在までなんとか生き長らえることができているのは、長い戦いの中で四鬼に対抗する方法をどうにか見つけることができたからだ。
それは、『音楽』。
なぜかは知らないけれども四鬼は音に弱い。個体によって弱点となる音が違うようだけど、音が溢れるところにやつらは近づいてこない。そんなわけで、人が住む場所は絶えず音楽が流れている。
しかし対抗策が見つかったとはいえ、勢力図が大きく変わるようなものでもなく。人類は減り、天敵は増える一方。少しずつ住める場所は減り続け、じわじわと追い込まれ続けている。現状維持では、どうあがいても絶滅ルートなのだ。
軍が定期的に『外』に出て四鬼と戦っているニュースを聞く。勉強したり話を聞くことはあっても、直接自分の目で見たことはない。私たちがいるのは守られた内側だからだ。
高等部までの義務教育を終えると、普通は国立の音学院にそのまま進学する。それから就職するのが普通だ。普通の、私とは違う人たちはそうなのだ。
学院を出た後は一般企業に就職したり、家業を継いだり、軍に所属して前線に行く人もいる。なんにしても学院を卒業するということは、自分で身を守れると証明することにもなるのだ。それができそうにない私は、このままでもお荷物なことに変わりはない。
進級はともかく、お金さえ出せば進学することはできる。けれど両親を早くに亡くした私には金銭的にかなり厳しい。義務教育まではほとんど国が援助してくれるし、生活費も私は寮生活だったからまだ抑えることができた。厳しい部分はあったけれど乗り越えることができたのは、幸いなことに両親の親友だったという夫婦が援助を申し出てくれたからだ。
夫婦には私と同い年の子供がいて、私はその子とすぐ仲良くなった。
その子はいわゆる『天才』だった。あっという間に飛び級して別の学院に通うことになってしまったので、同級生でいる時間は残念なことに少なかった。寮生活になってからも連絡はよく取り合っていたので疎遠になることはなかった。
卒業の連絡をした後、就職先の職場近くへ越すために街を出る準備を始めた。
先生の伝手がなければ今ごろ就職すらできていなかったかもしれない。小さな会社だが、カメラマンとして働ける。地方の会社だから直接大きな事件を扱うこともほとんどないし、基本危険な場所に行くことはないとも言っていた。一人で担当できると判断されるまでは先輩記者と一緒に行動することになっている。とはいえ就職先はここからは遠い。会社に寮はなく、街に頼れる知り合いもいない。どうしたって一人暮らしになる。今まで住んでいた学生寮も入寮者が少なかったこともあって基本自炊、掃除は当番制で洗濯は各自だったのでやることはあまり変わりはしないだろう。勉強の日々が仕事の日々に変わるくらいだ。
就職先が決まらなかったら、卒業後追い出されるようにして寮を出て、おばさんたちにまたお世話になるのが申し訳ないと思ったのもある。ともかく無事に仕事が決まって本当に良かった。
ガタガタと揺れる車内の中でまだ見ぬ新しい街に少しだけわくわくしながら、新生活に思いを馳せていた。