弟との語り
ほとんど会話のみです。
「このっ、バカっ」
鳩子は身を竦めて、錦の怒りが収まるのを待った。
「お前は今の状況が分かってんのか?」
「お、大きな声を出さないで。にぃくん、心配しなくて大丈夫だよ」
「心配じゃなくて呆れてるんだよっ」
「にぃくん人が見てるのっ」
「にぃくん呼ぶなっ。鳩子のクセにっ」反抗期だろうか?。すっかり扱い辛くなった弟に鳩子は溜息をついた。
ここはどこにでもある、とあるファーストフードの店内。
休日の買い物を終え、二人は仲良く休憩中のはずだった。しかし現在、鳩子に届いたメールで修羅場と化している。
ハートマーク付きの「鳩子へ」から始まる来栖からのメール。休日に会えない鳩子に愛を謳うものだった。
その手の愛に免疫がない鳩子は硬直し、不審に思った錦にメールを見られた。男からのメールに詰め寄られた鳩子は、来栖の朝の暴走、及びエレベーター内での奇行を吐いた。
銀字と抱き合っていると勘違いした来栖が痴漢だ不倫だと喚いたこと。
チーフに書類を渡したら、鳩子が複数の男を誑かす悪女だと言い、その場面を重役達に見られてプロポーズだと騒がれたこと。
賢明にも、密室となったエレベーターの中で口を引っ付けられた暴挙は言わなかった。
「鳩子に男がいるのもショックだけど。まじで相手は来栖の若様な訳?」頭を抱えた錦。
「若様って・・・まぁ世が世ならそうなんだろうけど。まぁ、間違いなく来栖鷹矢さんです」
「で、その来栖鷹矢サンと御結婚なされると」錦の形相が怖い。間違いなく怒っている。
「結婚なんてしないって」慄く鳩子。
「お前は愚かにも流されるままプロポーズを受けたんだよ。どういうことか解ってんのかっ」張り上げる声が怖い。
「だって、沢山の人の前ですっごく恥ずかしかったんだもん。だけど来栖さんたら全然周りを気にしなくて。みんなの期待した目で見られたら断るなんて出来ないよ」反して鳩子の声からはどんどん自信が奪われていく。
「ボケ鳩子っ!」店内に響き渡る怒声。周囲は錦の剣幕に見てみぬ振り。静止に入るべき店員も青い顔をして立っているだけだった。
「にぃくんだってあんな風に言われたら絶対に断れないよ」
「変なことを想像させるな」錦の脳内では男が情熱的に愛を囁く情景が浮かび、気分を滅入らせた。
「来栖さん朝から変だったんだよ。それを銀字さんの脳天チョップが、その後の来栖さんから正常な思考を奪ったんだと思う」
「正常だろうが異常だろうが、既に大勢の前でプロポーズしたことに変わりはないんだよ。いいか、来栖の御曹司サマが自ら求婚したんだぞ。それも会社の重役の前で。これから、その爺達の口から若様の結婚話は事実として広まるんだ。来栖グループ全体の問題なんだぞ」
「おっ、大袈裟じゃないかなぁ。それに私のせいじゃないし、来栖さんが錯乱して言い出したんだよ。何とかするよ、きっと」指摘されてやっと事の重大さに気付いた。
「出来るわけがないだろっ。人の口に戸は立てられぬって言葉を知らんのかっ。バカハトっ」再度、響く怒声。
「で、でも、何とかしてもらわないと。幸いなことに私は来栖さんを誑かした悪女ってことらしいし、そこを理由に白紙に・・・」
それを聞いた錦が笑った。嫌な感じを含んで。
「はっ、お前のどこに悪女だと説得できる要素があるんだ。結婚の話だぞ、来栖の跡取りが破談になるだけでも問題になるんだよ」
「だって、だって私のせいじゃないもん」グスグスと鼻を鳴らしながら泣き出した鳩子に錦はやり過ぎたと反省する。鼻の頭を赤く染めてベソをかく姿は小さな子供みたいだ。
視線を感じて周りを見ると、今まで知らない振りをしていた客達が咎める目をして錦を見ていた。腹の立つことに青い顔で突っ立ている店員までもが、ちょっとお客さんと責めている。
少しばかりの罪悪感で謝る。「言い過ぎた、悪かった」それが錦の限界だ。
泣き止みはしたが目を赤くして、鼻をしきりにすする鳩子の前に自分の分のポテトを譲り渡した。
「これからどうするつもりなんだよ。鳩子は若様とお付き合いはしたいけど、結婚はしたくないってことだよな?。だけど向こうは結婚を考えていて・・・力関係はあっちのほうが遥かに上だぞ。おまけに重役の爺はどこまで本気か分からんが乗り気らしいし・・・」やれやれと首を振った。鳩子が結婚したくないと喚いても、向こうに決定権がある。
「来栖の若奥様になりたいって女は大勢いるけどなぁ。まぁ、愛人でも良いって女もいるだろうけど。お付き合いはしたいが、結婚はしなくても良いって・・・愛人そのまんまじゃねぇか。ああぁ、くそっ、お前はバカだ。教育を間違えたっ」苦悩する錦を余所に鳩子は黙々と貰ったポテトをつまんでいる。
「聞いてんのかっ」他人事の鳩子に錦のイライラはピークに達した。
「聞いてるよ、独り言かと思っ、・・・ごめんなさい」錦の怒りをようやく察して、つまんだポテトを放棄し錦と向き直った。
「あのさ、にぃくん。勘違いしているようだけど、私は来栖さんとお付き合いするつもりはないよ。来栖さんは私に興味を持っただけで、プロポーズだって・・・」ん?首を傾げる鳩子。
「何だよ」
「良く考えたらプロポーズされていないような・・・」
「何だよそれっ」
「や、なんか熱烈な愛の小芝居をしていたから、周りが勝手に結婚だー、婚約だー、と好き勝手に。あー・・・あれって悪ふざけだったんじゃないかなぁ」それだと、どれほど良いことか。
「ギャラリーの前でそんな悪ふざけをするほど愚かしい男じゃないだろう・・・」錦は疲れ果てた体を椅子に預けた。
ノロノロと体を起こす「それで付き合うつもりがないってどういう意味?」聞き捨てならない言葉があった。
「暫らくしたら来栖さんも興味がなくなって別れ話が出ると思うの。そしたら元のままだよ」あっけらかんとした鳩子に、錦は意味がよく解らなかった。
「プロポーズは別にしても、本気で付き合ってるんだろ?そもそもどれくらい付き合ってんだよ」錦の問いに鳩子は首を振る。
「お互いに本気じゃないし、お付き合いなんてのもしてません。今はね、私を釣るために来栖さん必死なのよ」
「ツル?」不愉快そうに錦は吐き出した。
「そう、釣る」鳩子は架空の竿を操って見えないリールを巻いた。
「来栖さんから見たら私は珍しいタイプなのよ。あの人モテモテだから、自分に興味を示さなかった私が新鮮なんじゃないかな。来栖さんも時間が経てば目が覚めるよ。そんで捕まえた私をみて、世界にはもっと美しい女性が大勢いるのに、僕は何でこんな事に情熱を費やしていたんだろうって」
鳩子は、悲嘆にくれる来栖の姿が目に浮かぶようで笑ってしまいそうだ。
目を瞬かせて錦は鳩子を見つめた。鳩子の口から飛び出た言葉を錦はやっと理解した。
鳩子は大切な人だ。
それが、
「遊びってことか?」錦の声が固い。「遊びで鳩子にふざけたことしてんのか?」
鳩子が男のペースで流されているだけでも気分が悪いのに、遊びで鳩子を翻弄していると聞けば吐き気までおきた。
俯いて冷えたポテトを長さ順に並べている鳩子は錦の様子に気付いていない。
「遊びっていうかゲームじゃないの?獲物を狩るハンティングと考えていたけど、釣りのほうがピッタリかも。不思議なのが、そうまでして私を釣り上げる意味がわかんないんだよね。釣り上げたところで自慢できる釣果なのかな?」鳩子が疑問に思うのはここだった。来栖は熱心に鳩子に言い寄るが、そこまでして釣り上げた鳩子は彼を満足させる獲物なのかどうか。
「昔から女の人に人気でね、別れ話も上手いみたい。場数を踏んでるんだね、感心しちゃった」ポテトを短い順から食べ始めた。
「来栖さんがね、たまには変わった女の子を相手に遊んでみたい、ってお友達と喋っているのを聞いたんだ。相当、遊んでないと言えない台詞だよね」
あはは悪い男だよねー、と顔を上げた鳩子は瞬時に己の失敗を悟った。鳩子の口から出た言葉にショックを受けた錦は、顔が強張り表情が抜け落ちている。
嫌な沈黙が支配した。しっかり者の弟は忘れがちだけど、まだ高校生なのだ。
あまりにも痛い沈黙に鳩子はなす術がなかった。
「・・・言うから、兄貴に言う。鳩子が遊ばれてるって告げ口する。最近イラついてるから、すげえ修羅場になるよな」無表情からうっすらと浮かべる笑みが怖い。
「鳩子、お前は女としておかしい。軽い女とバカにされてんだぞ。兄貴にたっぷり絞られろ」
過去の大説教が鳩子の脳裏を駆け巡る。
「まってまってお願いっ、告げ口はしないで。私もう社会人なんだよ、保護者が出るなんて恥ずかしいよ。それにね、来栖さんって一生懸命に好かれようとして可愛いし、健気だし。接するにあたり軽く扱われたことないから」何とか錦の告げ口を止めさせようと、鳩子は来栖の弁護に走る。
「・・・可愛い??健気??」錦は生まれて初めて聞いた単語のように繰り返す。
「そうなんだよ!だから私が流されるのも無理ないんだよねー。にぃくんも、来栖さんのウルウルした目で懇願されてみなよ、はにかんだ笑顔で喜びを表現されたら河童だって流されちゃうよ」
今度は奇妙な物に遭遇したような顔をした錦。
「可愛い?ウルウル?はにかんだ笑顔?お前なに言ってんの。今話してるのは、手馴れた手口でお前を誑かしている男の話だぞ」
「来栖さんでしょ」
「そうだ。どーせ、いやらしく肩を抱き寄せたり、紳士の面して腰を引き寄せたり、御自慢の容姿をフルに活かしてのキザったらしい笑顔で迫ってんだろ。で、お前はそれに夢中になってんだよな、だから庇うんだろっ」怒りが腹の底から湧きあがってきた。
「うーん・・・紳士って言うよりも大型犬に近いんだけどね。嬉しそうに近寄ってはくるけど、変に触ったりはしないよ。笑顔もキザって言うよりも可愛いんだよね。良い子良い子したくなる。・・・あっ、昔のにぃくんに似てるかも。褒められたくてドキドキしてる時とか特に」
「気持ち悪い」吐き出すように言い、その後は変わった物を口の中に入れて吟味するように錦は考え込んだ。
「にぃくん、強く断れない私にも責任があるの。必死に演技して私の気を惹いて、ゲームに勝とうとする姿は子供みたいで可愛いというか、手のかかる弟というか、やんちゃな子犬みたいな。・・・そういえば、にぃくんも昔は私を取り合いして必死だったよね。懐かしいなぁ」
「そんな事実はない」考え込んでいる錦はきっぱりと言った。
「お姉ちゃんは寂しい」
「演技ってなに」
「へ?。ああぁ、来栖さんね、普段の一人称は私なんだけど、私の前では僕って言うのよ」笑うかなと思っていたけど錦の反応はなかった。
ポテトも無くなり手持ち無沙汰の鳩子は、錦を観察した。何やら深く考え込んだままだ。
我が弟ながら綺麗な顔をしている。そろり、と携帯で写真を撮ろうとして
「やめろ。この前撮っただろ」嫌がられた。
「鳩子」
「んー?」
「鳩子には鳩子の考えがあるんだろうから、俺は兄貴には言わないって約束する」
「うん・・・ありがとう」
「心配させてる自覚はあるな?」
「ある、わかってる」
「困ったことがあればすぐに言え、いいな」
「うん、ありがとう」
「兄貴も鳩子の味方なんだから、必要な時はちゃんと頼れよ」
「うん」
「一番重要だが、貞操はしっかりと守れ」
「うん?」
「もったいないから、とっときなさい」
・・・。
ファーストフードの店内では錦の注意事項が延々と陳べられていた。