今日一日
思い出したくもない出来事の一つとして今日のエレベーターがある。
朝から言動がオカシイ来栖がとうとう切れた。よりによってチーフを始めとした重役連中の前で、あんな愛の告白のような小芝居をするとは。流された鳩子に追い討ちをかけたのが閉ざされたエレベーターの中での惨事。
強く抱きしめる来栖を剥がそうにも力が強く抵抗らしい抵抗もできない。切れ切れに来栖を呼ぶと湿った何かが口に当った。一瞬で離れ来栖と目が合うと、来栖は目を合わせたまま再度それを口に当てた。
うっとりと目を伏せる来栖。鳩子は悲鳴と共に、ファーストビンタを奴に喰らわせた。
鳩子は身に付いた特技「かくれる」を駆使して職場に潜る。
一方の来栖は、打たれた頬の衝撃が脳に伝わったのかよろめいていた。幸いにも二足歩行が可能なようなので一先ず大丈夫だろう。
困惑の中で鳩子はようやく身の危険を感じた。
来栖の好意は鳩子を相手にしたゲームのつもりだと考えていた。来栖の周りにいる華やかな女性は、いつも彼を取り巻き魅惑的な駆け引きをしている。そんな中での鳩子は、来栖と対等に遊ぶゲームではなく、鳩子を標的にしたハンティングだ。仕留めることだけを追求した来栖だけのゲーム。
(何の恨みがあってあんなことをっ。しかも呼び捨てで連呼してっ)
行き過ぎた行動に腹が立ってきた。あれではまるで本当に鳩子のことが好きみたいだ。
(・・・まさか、来栖さん本気で私のこと・・・)ドキドキする胸。
(弄んで捨てるつもりなんだ・・・)嫌な未来にドキドキする。
怒っていた気持ちが萎びて不安になる。
(変なところあるけど来栖さんもてるのになぁ。私が逃げるからますます追いかけたくなるのかな?)
鳩子からみた来栖は、優しい笑顔で誰からも好かれる王子様タイプだと思った。話し掛けられた時も、第一印象を変えることはなかった。自然体の彼は少々キザな所も、そして裏も含めて麗しの王子様だった。そんな来栖がとても遠い幻に思える。
(しょうがない・・・こんな茶番なんてとっとと終わらせてポイ捨てされるか・・・)
諦めと、これから圧し掛かるであろう厄介事を思うと、重い溜息を落とすのに時間は掛からなかった。
エレベーター内での犯罪を気にしていない、犯人来栖は鳩子に厚かましくも昼食の誘いをしてきた。大人の対応でにこやかに断った鳩子は浮かない気持ちのまま弁当を広げる。
半分くらい食べたところで見慣れないメールが届いた。
件名は「鳩子へ」
前後にハートマーク付きなのがとてつもなく不吉だ。
開いた本文には来栖のあっさりした文章、
「二人だけの秘密?」。
今朝から散々、訳の分からない暴走を繰り返し、無意味な話を創り上げては一人芝居を披露した来栖。その上で長台詞を見事に演じきった。その男と同一人物とは思えないさっぱりした文章。
(話すことは長くて意味不明だけど、書くことは短くて意味不明だわ)鳩子は当然、返信せずに昼食をおえた。
弁当箱を包みなおしたところで気付く。
(どこから私のメルアド知ったんだろう・・・)微かな戦慄を覚えた。
「高梨さんっ、まって」
今日は厄日だ。鳩子は朝から怒涛の如く続く災難から早く逃れようと急いでいた。
「高梨さん、鳩子っ、鳩子待つんだっ」哀願を含んだ声がエントランスに響く。人々が振り返り、来栖を見て、鳩子を見る。
喉から悲鳴が迸るのを必死に堪えた鳩子は後ろから追いかけてくる来栖を待った。
「あぁ、良かった。聞こえないようだから心配した」
既に注目を浴びている鳩子は泣きたい気分に見舞われた。
「一緒に帰りましょう」
「子供じゃないんで、一人で帰れます」
「子供じゃないから危険なんだよ。今日だって朝から痴漢にあったばかりじゃないか」来栖は銀字を指した。
「そうですね。エレベーターの中で遭いました。手馴れているから前科がありますよ」鳩子は来栖を指した。
「あれほど緊張したキスははじめてだった・・・」熱の篭る視線に一歩引く。
「・・・で、鳩子?聞いてる?」
「はいはい、聞いてますよ」あれ?前にもこんなことがあったような。
「ふふっ、昨日話した誕生日プレゼントの件。ほら、弟さんと買いに行くって言ってたけどキャンセルしてね?」
「えっ?あっ、あぁ昨日の・・・。いや、来栖さん悪いですって。弟には姉孝行でもさせないと」
「何時にしようか」
「へっ?」
「待ち合わせでも良いけど。僕としては迎えに行きたいかなぁ・・・でも一人暮らしだよね、緊張しちゃうかも」
頬を染めて照れくさそうにする来栖に見覚えはあるが、やけに強引な話に鳩子は流される予感がする。
同時にメルアドの件といい、一人暮らしを知っている事といい、改めて来栖の怖さを感じた。
「っく、来栖さん、それってデートのお誘いですか?」上擦る声を叱咤した。
「勿論だよ」はにかんだ笑顔が眩しい。
「でっ、デートなら気合を入れた服を着たいので、弟と行った時に見繕ってこようと思います。デートは延期してもらえないでしょうか」
「僕のためにお洒落してくれるのは嬉しいけど、鳩子ならどんな服でも気にしないよ。そうだ、一緒に行くよ。僕が選んだものを着てよ、ねっ?」
「いやいや、初めてのデートに緊張感は必要ですよ。服を選んでもらうなんて、手馴れた感じで嫌です。だから延期しましょう」
「・・・嫌・・・なの、かな?」傷つき落ち込む来栖。背中を擦って励ましたくなる自分を必死に押さえ込む鳩子。
「嫌じゃないですよっ。これから腐るほどデート出来るんですから、初々しいデートにしましょうよ。その為の延期ですよ」
じっと鳩子の目を覗く来栖。「そうだね・・・」と納得がいかないのか渋々と返事をした。
「キャンセルしてね」
「さっき承諾したじゃないですか」
「弟さんは、まぁ、いいよ」不満気に言う。
「でも、市也の馬鹿とは縁を切って。デートは僕だけで充分だよね?」
「・・・矛盾してるんですが」
「矛盾?矛盾なんてしてないよ。この僕でさえデートが延期されるんだから、市也との縁を切って丁度でしょう」
「随分と嫌ってますね」
「あれでも従兄弟だからね、嫌っては無い。どうでもいいだけだ」きっぱりと言い切った。
「縁はさすがに切れませんよ。それに市也くんとは来栖さんが言うようなデートって意味じゃないんですけど」
来栖の眉がピクリと動く。
「いちなりくん?僕は来栖さんで?」ふうん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ま、それは追々解決していくとして。そっか、やっぱり市也の一方的な約束だったんだ・・・鳩子は優しいから断れなかったんだね?。あの手の男は優しくすると、どんどん付け上がるから厳しく断らないといけないよ」市也には僕が二度と近づかないように警告しておく。そう笑顔で話す来栖。自分を棚上げしての発言に、鳩子は強く抗議の視線を送る。
「今度の週末は弟さんとの買出しで、次が僕ってことだよね。嬉しいな」満面の笑顔を向けられて無意味な抗議と悟り、そっと視線を逸らした。
昨日とは打って変わって、来栖はあっさりと引くようだ。余裕さえみえる。
じゃぁ、これで、と別れの挨拶を告げた鳩子。
「鳩子、おやすみ」
明るいエントランスホールに不釣合いの挨拶。だけど見下ろしてくる瞳は優しくて、慈しみが溢れている。
「・・・おやすみなさい」
今までおやすみの挨拶を交わさなかったのが不思議なくらい、しっくりときた。
今日一日の顛末が慌ただしかっただけに強張っていた神経がゆるゆると解きほぐれていくようだ。
家に帰り、御飯を食べて、お風呂を済ませてベットに入る。
(おやすみ、か)
久しぶりに穏やかな来栖を見た気分だった。包まれるような眼差しと声に、鳩子の心から深い充足感が湧き起こる。頼もしい男に思えた。
穏やかな彼に抱きしめられていたら、どんな気分なんだろう。何一つ憂う事は無いと安心させてくれる気がする。どれほどの幸福に包まれるのだろうか。
目を閉じて思う。あれよあれよと言う間にデートなんて話になってしまった。
(好きになったらお終いなんて酷いよね)
好きになった途端、来栖は鳩子を仕留めた勝利者となる。仕留めた獲物に興味はないだろう。
彼は穏やかにおやすみを言ったその口で、さよならを告げるのだろうか。そして意気揚々と、新たな美女と駆け引きを楽しむゲームに戻るのか、それとも標的を変えてまた狩りを始めるのか。
(来栖さんなら別れのときまで親切にしてくれそうだな)きっと肩を抱きながら、別れの辛さを今日みたいに話すのだ。
分かっていることだから、深くは傷つきはしないだろう。鳩子はひっそりと泣くかもしれないけど。
それでも今はおやすみの挨拶が心地よかった。
「おやすみなさい、来栖さん」静かな部屋に落とした挨拶。浮かぶのは安らぎを祈る彼の眼差し。
そういえば、
(呼び捨ての件とエレベーターの中での暴挙に抗議するの忘れてた・・・)
鳩子はゴロリと寝返りをうって、もういいやと寝てしまった。