始まり
銀字たちが付いた先は最上階のフロア。寝不足だった頭は憑き物が落ちたようにすっきりとしている。
「銀字さん。そろそろ仕事の時間なので急ぎましょう。今回の痴漢の件ですが眞亜子さんに細部を漏らさず密告した上で、警察へと貴方を引き渡すことに決定しました。ご家族のことは来栖にお任せ下さい。それから来栖家の弁護士を付けることはありませんので、銀字さんは御自分の身を好きなだけ心配なさってください」
来栖鷹矢はいつも以上の優しい笑顔で最後通告を言い渡した。眞亜子さんは銀字の奥さんである。
「鷹矢、冤罪という言葉を知っているか?」
「知ってます。それよりも喋っている暇はありませんよ。銀字さん早く身支度をなさったらどうですか?差し入れは致しませんよ」
「話を聞けっ」
これだ。甥の鷹矢はこんな奴なのだ。
「そうだ、そうだった。お前はそういう奴だったな」懐かしそうに遠くを見る銀字。この甥に泣かされた覚えのある銀字は嬉しくない過去を思い出す。
「過去を懐かしみたいのなら、時機にたっぷりと時間を取れますよ。私としては犯した罪を反省する時間にして欲しいものです」
「・・・確かに鷹矢の恋人に抱きついたのは悪かったとは思うけど、変な意味じゃなかったんだよ。それにしても、まさか鳩子ちゃんと鷹矢が交際しているとは知らなかったな」世間は狭いな、と銀字は甥に目をやるが鷹矢の様子が変だ。先程までの余裕はなく、嫌味なくらいの爽やかな笑顔は剥がれ落ちている。
ゆったりと座った姿勢を居心地悪そうに崩し、顔は赤く、忙しげに両手で組んだかと思えば赤くなった顔を擦る。
「高梨さんとは邪推する間柄ではありませんよ」冷静であろうとする姿がバレバレである。
珍しい。常に生意気なほど冷静で、落ち着きはあるが、可愛げのない鷹矢が。
「邪推なんてしてないだろう。高梨さん?さっきは鳩子って言ってただろう。お前の剣幕といい親しげな様子といい、どうみたって交際してる以外なにがあるんだ。兄さんに会わす予定を考えてるほど真剣なんだろう。誠実な叔父を陥れたいくらいにね、ってどうしたそんな顔して」
鷹矢は赤い顔をさらに紅潮させ目を見開いていた。
「言ってないっ」
「?、何を」
「鳩子なんて言ってない」
言っていただろう・・・という呟きは口の中で溶けた。
「それよりも、銀字さんこそ高梨さんとはどういった関係なんですか。馴れ馴れしく鳩子ちゃんと呼んだり、襲い掛かったり、貴方の犯したセクハラ行為は重大な犯罪です。私だって抱きしめたこと無いのに・・・」
「さっき痴漢並に抱きついてたじゃないか」呆れたように呟いた。先を越されたのが悔しいらしい。「鳩子ちゃんとはお前が勘繰るような関係ではないよ。彼女の父が私の大学時代の先輩で、あぁ、そうだ市也たちも鳩子ちゃんと親しいぞ、特に市也は今度デートするらしく張り切っていたな」
からかいと、ちょっとした反撃のつもりでデートを強調した。市也は鷹矢がいう筋肉馬鹿の長男だ。
後の鷹矢の奇行は、銀字の人生の中で愉快な場面として不動の一位となる。二位は鷹矢が感動で泣きながら鳩子と誓いの口付けを交わす場面らしい。
銀字の反撃は想像以上の収穫だった。