来栖の気持ち
来栖視点。
部屋の隅で仕事をする彼女を発見した時はひどく驚いたものだ。
途中入社して一週間ほどしたある日、部屋の隅で仕事をしている高梨さん、高梨鳩子を見た時は衝撃だった。
両親譲りの人当たりの良さと容姿で対人関係で苦労したことはない。おまけに一族が経営している会社は大きく、他の人よりも注目を集める立場だ。学生時代も今も常に自分が中心だったように思う。
持ち前の要領の良さで大抵のことは把握していたつもりだった。なのに一週間も鳩子に気が付かなかったとは。いくら地味な子とは言え目立たないにも程がある。
飾り気のない姿に、小さな動作、黙々と書類を綴じてる彼女は、人生で稀にみる地味さと希薄な存在感で俺に衝撃を与えた。隣の席の同僚に鳩子ことを聞いた。名前はそのときに知った。
それ以来、鳩子の存在が気になって仕方がない。注意深く鳩子を観察すると、通常は部屋の隅で地味な作業を繰り返し、幾つもの雑用をこなしていた。たまに歌を歌っているのか口がモゴモゴと動いているのが可愛くて目が離せない。職場内では必要最低限の会話しかなく、他の人間と昼を一緒にする事もない。地味で空気のように溶け込み、影のようにひっそりとしている鳩子。こんな女性がいることを初めて知った。
観察するうえで注意するのは、鳩子は気が付けば姿がなく、気が付くと席に座っていることだった。素晴らしいほど存在感を感じさせない。
どうしても親しくなりたかった。機会を見つけては話しかけ、雑用紛いな仕事を手伝う。笑顔でありがとうと言って欲しく見つめても、見返りの鳩子の笑顔は極稀。距離は縮まらない。
そもそも鳩子からは積極的に会話もなく、一度だけ話のグループに無理矢理に引き込んだ。いつの間にか消えていた。消えているのに気付いたのも暫らくしてからだった。
叔父の付き合いで海外視察に行った時、土産と称してアクセサリーを贈った。海外視察といっても仕事は仕事。土産なんてものは必要ない。彼女に似合うとそれだけで贈りたかった。早まった行動を自覚しながらも、彼女が勘違いをしてくれないかとの期待を胸に「他の子には内緒だけど」と笑顔と一言添えて渡した。あからさまな俺に鳩子は「ありがとう」だけでなんの反応も示さなかった。あまりの反応のなさに落ち込みかけた。深読みも勘違いもしない鳩子に焦れた俺は、その場で思わず告白しそうになって自分の気持ちに気が付いた。
この段階では仕事以外の会話しか交わしたことがない。前触れもなく告白ってありえないだろう。常に部屋の隅に座る鳩子を見つめただけの日々。会話も3分以上した記憶がない。好意を打ち明けたとたんに断られる。
冷静に考えればアクセサリーの件ですでに危ない。仕事上だけの異性の同僚にそんな重いものを贈られた日には完全に警戒対象者に認定だ。
焦る気持ちを持て余しながら悩む日が続いた。
ある日、鳩子がブラコンと知った。向かいに座る同僚の情報では、弟の写真を携帯の待ち受けにしているらしい。そんな情報が職場内で流れている鳩子の世間体が気に掛かる。
詳しく聞けば、好みのタイプが弟みたいな男という。鳩子の弟みたいな男という意味かと思ったが、どうやら弟気質の男に弱いらしい。
一人っ子の俺には弟のイメージが全く湧かない。友達にも弟が居る奴が少ないし、兄弟としての弟と姉弟としての弟では意味が違うのかもしれない。参考として年下の従兄弟の言動を思い出すが、馬鹿のうえに生意気で、根拠のない自信だけは一人前の恥ずかしい生き物としか確認できなかった。従兄弟は役に立ちそうになかった。
一人っ子の俺には未知なるジャンル弟。意識してもらいたくて試行錯誤を繰り返しながら鳩子に近づいていった。
また、隣の同僚が鳩子が大の犬好きという、どう扱っていいのか分からない情報もくれた。
来栖家で飼っている犬の写真をさりげなく話題にのせて鳩子に見せた。かなりの大型犬種で獰猛な顔だ。お世辞にも可愛くはない。大型犬を所有するのには便利な意味を多く持つからで、来栖家の道具の一つだ。犬には興味がないが、これを鳩子が気に入らなかったら新しく別のを飼うつもりでいた。
鳩子は小さい犬種よりも大型犬が好きでたまらないらしく、詳しく聞きたがった。「子犬だと無敵の可愛さだ」と力説し俺に同意を求めた。珍しく饒舌な鳩子で、子犬の頃の写真をみせてあげると更に喜んだ。
手ごたえに気をよくした俺は「最近は仕事のために遊んでやれなくて寂しい思いをさせてるんです」とほとんど嘘の混じったことを悲しそうに言うと、今までになく鳩子は同情し、さらに励ましてくれた。大きく前進した瞬間だった。
その後も鳩子との会話と同僚の情報を元に少しずつ彼女の好む弟像を理解した。それは健気と誠実。思わず守ってあげたくなるような真っ直ぐな正直さが鳩子を揺るがすらしい。
一人っ子の俺でも気付いたが、そんな弟いないだろうに。あくまで鳩子の理想のタイプということか、実の弟が本当にそんな男なのかも知れない。
警戒を煽る異性の部分を抑え、忠実な弟分の立場で振舞う。犬のような忍耐と忠実さで鳩子の期待に応える健気な後輩を演じた。いつまでも無害な弟分でいるつもりはないが、あと少し、鳩子が俺に気を許すまでは。
鳩子と親しい関係になれるには、まだまだ時間が要りそうだ。