三十六話
「──え、あっ、きゃあっ!」
可愛らしい少女の声が響いた事に、リズリットが驚きの声を発した次の瞬間。
リズリットの顔面に、もふっとした衝撃がやって来た。
もふっ、ふかっとする感触に、ぷりっとしたお尻。その小さなお尻からはこれまた小さなちょこんとした丸い尻尾が生えており、リズリットの顔面に張り付いたその獣の頭に長い耳が二つ程生えているのを見て、ハウィンツやディオン、父親はぱちくり、と瞳を瞬かせた。
「──は、? え、? うさぎ……?」
誰が呟いた声だろうか。
唖然、とした声がリズリットの顔面に張り付いたその獣の名前を呼ぶと、わたわたと動いていたリズリットが張り付かれている事で幾らか声が篭ってしまっているが「ええ?」と声を上げる。
「リズちゃんをこれ以上悲しませないように妾がせっかく記憶を消したのじゃ! 人間の男共! これ以上リズちゃんに嫌な記憶を思い出させるでない!」
リズリットの顔面に張り付いたうさぎからその声は発されているようで、隣に座っているハウィンツは恐る恐るといった様子でうさぎに向かって唇を開いた。
「──その、あなた様は……全ての精霊を纏める……王でいらっしゃる、か……?」
ハウィンツの言葉に反応して、ちらりと顔を振り向かせたうさぎがまんまるで紅い瞳を細めると数本の髭をひくひくと動かしながら肯定する。
「そうじゃ。人間達は妾をそう呼ぶ」
ふんっ、と鼻から息を吐き出すうさぎ──精霊王に、ハウィンツとディオン、父親は慌てたように座っていたソファから立ち上がり、跪く。
「──っ、大変失礼致しました。精霊王の御姿を前に座してお声を掛けるという無礼、どうかお許し下さい」
「ふんっ。妾はそのような瑣末な事で腹を立てぬ。座るが良い」
「ありがとうございます」
とても張り詰めた空気で、緊張感漂う空間なのだが先程から精霊王はリズリットの顔面に張り付いたまま下に降りる事は無く、張り付かれたままのリズリットも、精霊王と言う偉大な存在に自分が話し掛けてもいい物か、と持ち上げた自分の腕を空中でわたわたと動かす事しか出来ない。
何も事情を知らない人間が傍から見ればとても珍妙な光景に違い無いのだが、この部屋に居る者達は皆至って真剣な表情のまま頭を垂れている。
──もふもふが、苦しい。
小さなうさぎの体のどこにそんな力があるのだろう、と言うほどリズリットの顔面に張り付いていて、リズリットが息苦しそうにしている事に気付いたのだろう。
うさぎの姿の精霊王が「きゃあ!」と声を上げてリズリットの顔から離れた。
「ごっ、ごめんなのじゃ、ごめんなのじゃリズちゃん! 苦しくないか? 妾のふわふわの毛を吸い込んではおらぬか!?」
「だ、大丈夫です、精霊王……」
リズリットの言葉に、精霊王は安堵したようにリズリットの肩に飛び乗るとすりすりと甘えるようにリズリットの頬に擦り寄る。
「──堪忍じゃ、リズちゃん。リズちゃんがこれ以上傷付くのを止めたかったのじゃ……」
「そうだったのですね……、ありがとうございます精霊王。──ですが、私自身……辛い記憶だったとしても、私自身に起きた出来事を知りたく、兄と父に語って頂いていただいていたのです。その……精霊王のお気持ちはとても嬉しくて、お気持ちに逆らうと言う行為は本来ならばしたくはないのですが……。記憶を取り戻す事を、許して頂けますか……?」
「──リズちゃん……、……妾が良かれと思って記憶を消した事が、リズちゃんを苦しめておったのじゃな……すまぬ……」
リズリットの言葉に、精霊王は長い耳をへにょり、と垂れさせてしまうと紅い瞳がうるうると滲む。
精霊王から謝罪をされてしまったリズリットはあわあわと慌てながら唇を開いた。
「と、とんでもございません! 精霊王のお気持ちは本当に嬉しいのです……っ! せっかく精霊王が心を砕いて下さり、私を守って下さったのに、精霊王のお心を無下にしてしまい申し訳ございません」
「良いのじゃ良いのじゃ。妾はリズちゃんのその清い心に惹かれたのじゃからな。どれ、今封じていた記憶の魔法を解いてやろうな」
精霊王は瞳を細めて優しい声音でリズリットにそう告げると、リズリットの肩にちょこんと乗っていた状態から前足を上げて起き上がると、ちょん、とリズリットの頬に口付けた。
瞬間。
「──っ、!」
ぶわり、とリズリットの脳内に突如精霊王が封じ込めていたリズリットの幼い頃の記憶が流れ込んで来て、リズリットはふらり、と体勢を崩した。
「リズリット……!」
「リズリット嬢……!」
ハウィンツとディオンが同時にリズリットへ手を伸ばしたが、精霊王はちらりとディオンへ視線を向けると「ええい触るなストーカー!」と可愛らしい声でディオンに向かって一喝する。
リズリットに手を伸ばしていたハウィンツも、ディオンも、ふらついていたリズリットですらも精霊王の一言にピタリ、と硬直するとリズリットは精霊王の言葉にあんぐり、と唇を開いてしまう。
リズリットは頭に流れ込む情報量に混乱し、精霊王がディオンに放った言葉に混乱して自然とディオンへ視線を向けた。
リズリットが視線を向けた先のディオンは、明らかに顔色を悪くして、視線が泳いでいる。
「妾は知っておるからの! 妾の可愛い可愛いリズちゃんに、ディオン! お前が見守り行為と言う名のストーカー行為をしていたのを!」
「わあああ! 精霊王……っ!」
声高に叫ぶ精霊王と、悲痛なディオンの叫び声が室内に響いた。
──見守り行為と言う名のストーカー。
その言葉を、愛くるしい見た目のうさぎから聞いてしまったリズリットは、記憶の濁流に頭の中が混乱し、思考を多いに乱されながらもディオンへと視線を向け続ける。
リズリットから視線を向けられたディオンは、あからさまに顔色が悪くなっており、何やら要領の得ない言い訳のような言葉を必死に紡いでいる。
「ち、違……っ、! 違うのですっ、精霊王っ!」
「ええいっ! 何が違うのじゃ! 己がリズちゃんと初めて顔を合わせた時に愛らしいリズちゃんに一目惚れした事も、その後にリズちゃんの事を調べ始めた事もっ、リズちゃんの行く先々に先回りしておったのも妾は全てお見通しじゃっ!」
「さ、先回り……」
リズリットは、あんぐりと口を開けたままついついぽそり、と呟いてしまう。
確かに、ディオンと初めて会ったあの夜会から「偶然」に街中で、公園で、夜会会場でディオンと良く会うとは思っていたのだが、それが偶然ではなく、ディオンによって「必然」に変えられていた事にリズリットは背筋にぞわりとした感覚を覚える。
精霊王が言葉を紡ぐ度に、そして時間が経つ度に頭痛や気持ち悪さが増して来るが、それよりもディオンのストーカー疑惑の衝撃の方が強く、リズリットは何故今この瞬間に気絶してくれないのだろう、と自分の体を呪った。
精霊王の言葉を聞いて、リズリットの兄であるハウィンツは何か心当たりでもあったのだろう。
「あー……成程なぁ、だからあんなに高い遭遇率だったのか」
などと呑気に呟いているが、何故呑気にしているのだろうか。
ストーカー、だ。
しかも、精霊王の口から語られた事が真実であれば……精霊王は嘘など付かぬはずなので、話している事は全て事実なのだろう。
ディオンの行為は些か常軌を逸脱しているような気がしてならない。
リズリットの表情は、市井で流行っている若者言葉を借りるならば正に、ディオンの行動に「ドン引き」である。
リズリットのその表情を見て、ディオンは傷付いたような表情を浮かべると縋るようにリズリットに視線を向ける。
「ち、違う……っ、いや、違わないが……っ、俺のやっていた行動は確かに精霊王の仰る通りだがっ、疚しい気持ちなど無くてっ、ただただリズリット嬢を守りたかったんだ……っ」
「──えぇ……」
ぐるぐる。ぐるぐると視界が回り始める。
リズリットは、焦点の合わなくなって来てしまった視線でディオンの顔を探そうと視線を彷徨わせるが、そこでとうとう頭痛と気持ち悪さに耐えきれなくなって小さく呻くとぷつり、と気を失った──。
「うぅ、気持ち、悪い……」
リズリットが気を失う前にぽつりと呟いた言葉は、自分自身に向けられた物だ、と思ってしまったディオンはガチリ、と体を固まらせ、次の瞬間ぼろり、とその両の瞳から涙を零した。
ディオンのその様子にぎょっとしたのはハウィンツと父親で、ハウィンツはリズリットを抱き留めたまま、同情するような視線をディオンに向けた。
「あー……ディオン……その……」
ハウィンツは、ディオンに何か言葉をかけようとしてそして何も言葉が思い浮かばず、唇を閉じてしまう。
父親もそれは同じようで、リズリットから拒絶のような態度を取られたディオンが乱心し、この場で暴れ出さないかどうかハラハラと見守っている。
そんな、混沌とした室内で精霊王は呑気に自分の顔を前足でかしかしと毛ずくろいをした後、「さて」と徐に口を開いた。
「リズちゃんは記憶の奔流にちょっとばかし意識を失ってしもうておるが、問題は無いじゃろう。──それより、人間。そなた達は妾に聞きたい事があるのであろ?」




