三十五話
当時の事を思い出したのか、ハウィンツのみならず、リズリットとハウィンツの父親も表情をさっ、と苦しげなものへと変化させる。
その様子を見たディオンは、当時の事を詳細に知る必要があると感じ唇を開いた。
「──それ程の、大変な騒ぎになったのだろうか?」
「……」
「そう、ですな……」
ハウィンツはディオンの言葉に視線を床に落とし、父親は苦しそうに表情を歪めながら唇を開く。
父親は一度テーブルの上にあるカップに手を伸ばすと、お茶を喉奥へと流し込みぐっ、と一度目を閉じてから唇を開いた。
「──フィアーレン卿が、何処までご存知かは分かりませんが……。リズリットが記憶を失った切っ掛けはやはり精霊から攻撃を仕掛けられたから、です。当時、リズリットは腕に酷い火傷を負い、熱に魘されておりました。それが、やっと目を覚ましたと思ったらリズリットの記憶からさっぱりと我々家族の記憶が抜け落ちてしまっていたのです」
「──火傷、を……?」
ディオンはギリ、と強く奥歯を噛み締めながら地の底を這うような声音で問う。
過去に戻る事は無理だと言う事は分かってはいるが、自分がその場に居ればそのような危険な目には合わせなかったのに、とついついどうしようも無い事を考えてしまう。
リズリットと出会ったのはつい最近だ。
ハウィンツとは友人となって長いが、リズリットを目にした事は殆ど無かった。
それに、ハウィンツとは子供の頃には出会ってはいない。どう足掻いても子供の頃のリズリットを助ける事など出来やしないのだが、ディオンはやるせなさに悔しさを感じて強く拳を握り締めた。
「ええ、リズリットは火傷を負い……当時の医者には一生痕が残ってしまうだろう、と言われていたのですが……。リズリットが目を覚ました時、我々の記憶と共にその火傷の痕も綺麗さっぱりと無くなっておりました」
「──そんな事が……!」
ある筈がない、とディオンは言いかけてそこではっとして口を噤む。
そのような有り得ない事が現実に起こるとするならば、それは確実に精霊が介入している筈だ。
治癒の能力に特化した精霊がリズリットを治療したのか、それとも精霊王、と言われている存在がリズリットを治療したのかは分からないが、リズリットは幼少期に確実に精霊の力をその身に受けている。
「ええ、我々も驚きました。我々が契約をしている中級精霊には治癒特化型の精霊はおりませんので、もしやリズリットにも遂に祝福が、と考えたのですが、リズリットは祝福を与えられた痕跡もありませんでしたし……、変わらず精霊の姿を見る事は無かったので、その線は無いだろう、と言う結果になりました」
「ふむ……。確かに、そうだな……。だが、祝福を与えもせず、気まぐれに人間を治す精霊が居るとは思えない……。やはり、リズリット嬢を治療したのは精霊王なのでは……?」
「はい、今回の話を聞いて私自身もそうなのでは、と感じる所があります。……記憶を失ったリズリットは、見知らぬ顔である我々を見ては毎日泣いて過ごし、哀れな程でした……」
「そのような辛い幼少期を……」
「ですが、毎日泣いていたリズリットがある日突然、我々の記憶を取り戻していたのです」
辛い幼少期を送ったのか、とディオンが苦しげな表情を浮かべていると、父親があっさりとリズリットの記憶が戻った事を口にして、ディオンは驚きに目を見開いた。
「──そのような、短時間で記憶が……?」
「我々もそれには驚いたのですが、驚く事にリズリットは、何故自分が記憶を失ったか……その詳細な理由は覚えておらず、うっすらと自分が兄と姉に迷惑を掛けて、二人の婚約が無くなった事、少しの間だけ自分が家族の事を忘れてしまっていた事だけを覚えていたのです」
「記憶が、断片的に消えているな?」
「ええ、仰る通りです。自分自身が酷い怪我を負った事は当時は覚えていなかったのですが……」
ディオンはそこでふ、と違和感を感じて戸惑いを口にした。
「おかしい、な……。それだったら何故リズリット嬢は自分自身に対する悪意、害意にあれ程敏感に反応するのだ……? 攻撃に対して、過剰反応していた……」
「それ、は……我々にも分かりかねますが……もしかしたら、完全に記憶を消去してしまう、と言う事は出来ないか……部分的に消去をする事が難しい、のか……でしょうか?」
「──それは……精霊王にお聞きするしか解決策は無い、な……」
「仰る通りです。リズリットは、自分自身が兄と姉の元婚約者達に生死に関わるような怪我を負わされた事も、それが原因で二人が婚約を解消した事も──……」
ディオンと父親が話している時に、突然この場では聞こえる事の無いリズリットの声が扉の方向から聞こえて来て、三人は咄嗟に口を噤んで、扉へと勢い良く振り向いた。
「それ、は……。今、お父様がお話していた事は……本当ですか……?」
いつの間に執務室の扉を開けて中に入って来ていたのか。
ディオン達三人は、リズリットの気配に全く気付く事無く話を進めてしまっていた事に後悔した。
(──くそっ、リリーナ・ロードチェンスを捕らえた事で安心して、鶺鴒をリズリット嬢に付けるのを忘れていた……っ)
自分の精霊をリズリットに付けていれば、リズリットが近付いて来た際にいち早く気付く事が出来たのに、とディオンが悔やむがそれも後の祭りだ。
実際自分達はリズリットの接近に気付く事無く、今一番リズリットに聞かれては不味い事を話してしまっていた。
「リ、リズリット……」
ハウィンツが思わず、といったようにソファから立ち上がると、リズリットに声を掛けるが続く言葉を発せずに押し黙ってしまう。
ハウィンツのその態度に、リズリットは悲しそうにくしゃり、と表情を歪ませて震える声音で小さく呟いた。
「──おかしい、と思っていたのです……。お兄様とお姉様が頑なに婚約者の方を決めないのも……私を、必要以上に心配して下さる事も……っ。それも、全部私が過去に命を落とす程の怪我をしてっ、記憶を無くしていたから……っ」
「──リズリット」
リズリットの顔色が悪い事に気付いた父親が、慌ててハウィンツのようにソファから立ち上がる。
思い出したく無い過去の記憶が蘇りそうで、リズリットの体調に変化が起きているのだろうか、と父親がリズリットに一歩近付いた所で、リズリットの喉が「ひゅっ、」と嫌な音を立てた。
「リズリット嬢!」
再び過呼吸を起こしてしまったのか、とディオンも慌ててソファから立ち上がり、父親とハウィンツがリズリットの元へ動こうと行動するよりも早くリズリットに駆け寄る。
ふらり、とリズリットの体が傾いた瞬間、ディオンはリズリットの体を受け止めると、安心させるように背中を摩ってやる。
「──っ、すみ、ません……っ、ディオン様っ」
「いい、大丈夫だ。気にしないでくれリズリット嬢」
「大丈夫、大丈夫ですっ」
リズリットは自分の体を強く抱き留めてくれているディオンの腕に自分の手のひらを乗せると、そっと自分の手のひらに力を込める。
「以前、も……っ、こうしてディオン様が助けて下さいましたものね……っ、大丈夫です、落ち着けますっ、」
か細く呼吸を繰り返すリズリットを支えてやりながら、ディオンはゆっくりとソファへと促し自分の腕で抱き上げてリズリットをハウィンツの隣に座らせてやる。
リズリットの呼吸が落ち着くのを待っていると、次第にリズリットが落ち着きを取り戻し、深く深く息を吸い込んでゆっくりと息を吐き出した。
「──……、私も、自分自身に起きている現象を、知らなければなりません……」
「辛い過去を思い出してしまう事になっても、か……?」
リズリットが発した言葉に、リズリットの向かいに座っていた父親が優しく声を掛ける。
父親の言葉にリズリットは頷くと、しっかりとした声で今度は「はい」と小さく言葉を返す。
「過去を、思い出さなければ……。もしかしたら私には、精霊王と呼ばれる偉大な方が関わっているのかもしれないのですよね? その事を調べるのが大事だ、と伺っておりますので……」
びっくりしてしまったけれど、大丈夫です。
と、リズリットがそう答えると父親とハウィンツはお互い視線を交わしてから覚悟を決めたように瞳を閉じた。
確かに、リズリットが言う通り辛い過去の記憶から逃げ続けていたらいつまでも精霊王に関して何も分からない可能性がある。
リズリットの記憶を部分的にでも封じたのが精霊王であれば、リズリットがその封じられている記憶の事を僅かでも思い出せば精霊王の気配や、御姿を認識出来るようになる可能性がある。
ハウィンツは、震えるリズリットの肩に労るように手のひらを当てて撫でると、全てをリズリットに話す事に決めたのだった。
それから、ハウィンツとリズリットの父親はリズリットに過去の出来事をゆっくりと、丁寧に一つずつ話し始めた。
リズリットが幼い頃に、ハウィンツとローズマリーの婚約者がリズリットの遊び相手として良くこの邸に来ていた事や、大人達やハウィンツやローズマリー当人に見つからないように小さな嫌がらせをその婚約者達がリズリットに行っていた事。
そうして、その事件が起きた当日の事。
ハウィンツや父親が話す度に、リズリットの表情が痛みを耐えるような仕草を浮かべるが、それでもリズリットは僅かに感じる頭の痛さを何とか耐えて説明を聞き続ける。
「それで、当日……。俺が普段通り家庭教師から教えて貰ってて……全部勉強が終わったからリズと婚約者達が遊んでいるって言う部屋にいつも通り向かったんだ」
ハウィンツの声がリズリットの耳に入る度にリズリットの頭痛が増して行く。
「それで、その部屋に行く時に大きな爆発のような物が起きた──……」
「──っ、痛っ」
ハウィンツの言葉を聞いた瞬間、リズリットの表情が痛みに歪む。
リズリットの様子に、ハウィンツやディオンが声を上げ、リズリットに手を伸ばしたその時。
「──もうっ!! 妾の可愛いリズちゃんをこれ以上苦しめるでないっ!」
可愛らしい少女のような声が、突然室内に響き渡った。




