二十八話
「分かった。待っていよう、いくらでも待っているからリズリット嬢は楽しんでおいで」
(本当にディオン様が頷いてくれたわ……!)
白麗の言葉に素直に従い、リズリットが「お願い」をディオンに向かって口にすればディオンは先程の怒りの感情など一瞬で霧散させた。
「あ、ありがとうございますディオン様」
「ああ、また後で」
ディオンは上機嫌でリズリットの手を取った後、再度軽く手の甲に唇を落とした後、あっさりと乗ってきた馬車の方面へと歩いて行く。
馬車止めで待機していてくれるのだろう。
リズリットは頬を染めたままディオンの後ろ姿を見詰めながら、ふとリリーナの事を思い出してリリーナの方へと視線を戻した。
「──……っ」
が。
リリーナの表情を見て、リズリットは思わずびくり、と体を震わせる。
先程、ディオンに「友人だ」と言っていたリリーナは、友人には決して向ける事のないような憎しみの籠った視線でリズリットを睨み付けるように見詰めており、忌々しそうに唇を開いた。
「……どうやって、ディオン様に取り入ったのですか」
取り入るなど、そんな事をする筈が無い。
リズリットはそんな事していない、と慌てて唇を開く。
「取り入るだなんて……! そんな事しておりません……っ」
「嘘っ、嘘でしょう!? きっと、お兄様のハウィンツ様に頼んで、ディオン様との仲を取り持って貰ったのでしょう? そのような事をして、ディオン様と面識を持って恥ずかしくないのですか!?」
「で、ですからそんな事は──っ」
「ほんっとうに卑しい人ですね、貴女は! だから、精霊の祝福も得られないんですよ、貴女が卑しい人間だから……っ」
リズリットの言葉など聞く耳を持たないリリーナは好き勝手にリズリットへの暴言を口にする。
だが、リズリットは白麗が掛けてくれた「悪意を弾く術」のお陰か、今までのように胸が痛まず、その変化に首を捻る。
(あ、あら……? 今までだったら凄く悲しくて、辛かったのに……?)
涙を耐える事が多かった人からの憎悪の感情が、それ程気にならない。
リズリットは、自分の感情にキョトン、としたのだが目の前に居るリリーナはそうとは思わない。
リリーナは自分自身の言葉を軽く流された、と勘違いして怒りの感情を更に高めると、あろう事かリズリットの体を押そうと手を伸ばした。
強く体を押して、後方に倒れて転んでしまえばいい、とリリーナが考え、リズリットの体に触れようとした瞬間。
──ぱんっ、と何かに弾かれたような感覚がして、リリーナの体がリズリットに触れる寸前に反対に弾き返された。
「──っ、!? え、あっ、きゃあっ!」
「えっ、ロードチェンス嬢……っ?」
これ、もリズリットの護衛をしている白麗の術が発動した結果なのだが、それを知らないリズリットも、リリーナも驚きに目を真ん丸に見開く。
リリーナは弾き返された表示に体のバランスを崩し、その場に尻もちを着くようにしてべしゃり、と地面に転んだ。
「え、あっ、大丈夫ですか、ロードチェンス嬢……」
「──……っ!」
周囲に居た令嬢達も驚いたようにリリーナに視線を向けている。
沢山の視線が自分に集中している、と自覚したリリーナは、羞恥に顔を真っ赤に染めると、助け起こそうとしてくれたリズリットの腕を振り払い、邸へと駆け込んで行ってしまった。
◇◆◇
「許さない許さない許さないっ、絶対に許さないんだからっ!!」
リリーナは、羞恥によって瞳に涙の膜すら張って子爵邸の廊下を駆け抜ける。
主催である自分が、庭から姿を消してしまった事に参加者達は混乱しているだろうか、そんな事は今はどうでもいい。
自分の味方である令嬢達の目の前で、無様にも転び、ドレスを汚し、挙句の果てには大嫌いなリズリット如きに心配されてしまった。
「この間は失敗しちゃったけど、今度は失敗しないんだから……っ!」
リリーナはそう鋭く叫ぶと、自室へと駆け込み、自分の机の引き出しを勢い良く開け放つ。
引き出しの中には綺麗な小瓶が入っており、その小瓶をリリーナは引っつかむと、蓋を開けてズカズカと足音荒く部屋の一角へと進む。
そして、リリーナはその小瓶の中に入っていた液体をその一角に捕らえている対象にびしゃり、と掛けると「起きなさいよ!」と声を荒らげた。
「また、やってもらいたい事があるの! 言う事を聞いてくれれば、解放してあげるわ!」
リリーナの言葉に、びしょりと濡れそぼった存在が、のろのろと顔を上げた。
それ、は淡く光を放ち、小さな体を震わせる花の精霊で、リリーナが祝福を得た中級精霊の姿だった。
「何よ、その目は! 嫌だって言うなら無理矢理言う事を聞かせるわよ!」
リリーナの剣幕に花の精霊はびくり、と体を震わせると小さく何度も何度も頷く。
先程リリーナが精霊に掛けた液体は、精霊の体に害を成す液体である。
その液体を摂取してしまうと、目の前の人間に対して陶酔感を募らせてしまう物で、人間にとって薬物依存に陥るような代物だ。
リリーナがこの液体を入手したのは正しく偶然で、子供の頃にこの邸内の至る所を歩き回っていた時に偶然にもこの液体の入った小瓶を大量に保管している倉庫を発見してしまったのだ。
長年、この小瓶が何なのか想像も付かなかったのだが、随分前に自分に祝福を与えた下級精霊にこの液体を掛けて遊んだ際に、ぽわりと光を放つだけの存在だった下級精霊がリリーナに甘えるように擦り寄って来た。
子供の頃はただ純粋に精霊に好かれる薬なのでは、と考えただけだったが成長するにつれ、精霊に影響を与える物は国で禁止されている事を知った。
それが、邸にあるのだから自分の家は何か良くない事をしているのかもしれないと考えたが、精霊に影響を与える薬にリリーナは興味を募らせた。
人間にも効果があるのだろうか、と思い使用人に使った事もあるが、人間には効かず精霊にしか効果は発揮しない物のようだ。
人間にも効くのであれば、真っ先にディオンに一服盛ったのに、とリリーナは残念に思ったが精霊を自分の意思で操れるのであればその恩恵は大きい。
だからリリーナは自分の邸の庭に姿を表した目の前の花の精霊に小瓶の中身をぶちまけ、祝福を得る事に成功した。
姿は小さいが、光では無く個体として姿を保つ事が出来る精霊は中級精霊だ。
中級精霊からの祝福を得れば、国にも一目置かれる事になる。
そして、最上級精霊の祝福を得ているディオンと関わる切っ掛けを得られると思っていたリリーナの行動に一切の迷いなど何も無かった。
「全ては、ディオン様とお近付きになる為……っ行く行くはディオン様の妻となる為にっ、精霊の力が必要なのよっ! この精霊が上級精霊を呼び寄せればこっちの物なのにっ」
上級精霊の祝福を得られれば、自分の立場も今よりもっと良くなる。
複数の精霊の祝福持ちとなれば、高位貴族との婚姻だって叶えられるかもしれないのだ。
「今は何故か出涸らしに視線を向けていらっしゃるけど、あの出涸らしを始末しちゃえば、ディオン様ももしかしたら私に目を向けてくれるかもしれないわね!」
リリーナはふふふ、と笑みを零すとフラフラと自分に近寄って来た花の精霊を手のひらで強く掴み捕らえる。
「この間みたいに、私に攻撃魔法の術を授けなさい! 今度は、炎以外を、そうね、雷でいいわ! リズリットは突然鳴り響いた雷に打たれて命を落とすのよ!」
リリーナの恐ろしい言葉に、そのような事はしたくないと頭では分かっているが、先程精霊の体に浴びせられた液体のせいで思考回路が霞がかっており、リリーナの言葉に素直に従ってしまう。
花の精霊は、自分の体を捕らえているリリーナの手のひらがリリーナの顔に近づくと、ぐっと体を乗り出して自分の唇をちょこん、とリリーナの頬に当てる。
その瞬間、ぴりっとした僅かな違和感がリリーナの体を巡り、一瞬で頭の中に雷の魔法を操る術が浮かんで来る。
「──やった、やったわ……っこれで雷を落とす事が出来る……!」
リリーナはにんまり、と恐ろしい笑みを浮かべると花の精霊にもう用は無いとでも言うように手のひらで捕まえていた花の精霊をぽいっと放り投げる。
リリーナが嬉々として自分の部屋を出ていこうと扉の方向へ体の向きを変えた所で、室内にリリーナ以外の声が響いた。
「あーあ。真っ黒も真っ黒。主が危惧してた通りの事が起きちまったな~」
突然響いた男のような声に、リリーナはビクリと体を震わせると「誰!」と声を荒らげた。
「俺が誰だかはどうでも良いだろ。それより、しっかりと見させてもらったぜ? お嬢さんが精霊に対して惨い仕打ちをしている所も、この邸に隠してたやばーい薬も」
声の主──ディオンの鶺鴒の精霊は、楽しそうにくつくつと喉奥で笑うと、リリーナに姿を見られないよう室内の間接照明の陰に体を隠したまま嘴を動かす。
「まさか、この邸に地下倉庫があるなんてなぁ……。悪い事は企んじゃいけない。結局、悪い事は白日のもとに晒されるんだからな」
「……っ、誰っ! 何処にいるのよっ! 姿を隠してるなんて卑怯よ!」
鶺鴒の精霊は、じっくりと間接照明の陰から下を見下ろして慌てふためくリリーナを見つめ続けた。
◇◆◇
──ぱちり、とディオンは一度瞳を閉じると、鶺鴒の精霊と感覚共有をしていた状態を解除する。
「──地下倉庫、か」
鶺鴒が邸内を探り、地下倉庫を発見した時からディオンは感覚共有をしていた為、先程リリーナが花の精霊に行った暴挙もしっかりと見ている。
リズリットと会話をする時はリズリットに集中していた為、感覚共有の効果は薄めていたがそれでも鶺鴒の精霊が邸内部を探っているのをしっかりと把握していた。
「……銀狼。ハウィンツに連絡を」
「承知した、主」
ディオンが銀狼の精霊を呼び出し、そう告げると銀狼は瞬く間にディオンの側から駆け出し、あっという間に姿が見えなくなる。
「──ハウィンツに連絡が行けば、ハウィンツが騎士達を連れて来てくれるだろう。……少し忙しくなるな」
ディオンは預けていた馬車の壁から背中を離すと、先程戻って来たばかりのロードチェンス子爵邸に向かって再び足を踏み出した。




