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二話


「う……っ、悔しい……っ、」


 何も言い返せない自分も、他人にそこまで卑下される自分も、情けなくて悔しくてしょうがなくなる。

 リズリットは、ぼろぼろと流れ出る涙を乱暴に自分の手の甲で拭うと目の下を真っ赤にさせながら泣き声が漏れ出てしまうのを、何とか唇を噛み締めて抑える。


 だが、漏れ出る泣き声を無理矢理押さえ込んでいるせいか、自分の胸がひくひくと何度も痙攣するように跳ねてしまい抑えようとすればする程その痙攣は悪化して来てしまい、リズリットは軽いパニックに陥る。




「──泣いていた……?」


 リズリットが駆け込んだ部屋の少し離れた場所で、男は唖然としたように呟くと、女性が消えた扉の奥をじっと凝視する。

 男はこの国の騎士達が身に纏う団服をキッチリと着用し、寸分の乱れも無い団服は男のキッチリとした真面目な性格をそのまま表すかのような姿で、藤色の瞳が困惑気味に揺れている。


──誰か身内を呼んだ方がいいだろうか。


 ちらり、と見えた女性──まだ、成人したてのような可愛らしい顔立ちの令嬢はその瞳を涙に濡らし、恐らく髪の毛が濡れそぼっていた事から何かホールで問題が起きたのだろう、と言う事が分かった。

 果実水でも被ってしまったのか、令嬢の顔に張り付く髪の毛から滴る液体は薄らと紫色で、葡萄が豊作だった為に今回の夜会では葡萄の果実水を出していた事を知っているその男は、果実水を頭から被ってしまったのだろう、とあたりをつける。


 身内を呼ぼうか、と考えたがチラリと見えた横顔ではどの家の者かも分からず、男が途方に暮れていると、背後からこの廊下に向かって駆けてくる足音が聞こえて来て男は反射的に素早く振り向いた。


「──あれ? ディオン? ディオンが何故ここにいるんだ?」

「──……ハウィンツか。いや、今日は衛兵の人手が足りなくてな。俺も警備に出てはいるんだが……」

「騎士団長が警備か? 何でそんな事になってるんだ……」

「……衛兵の多くが集団で体調を崩したみたいだ。国が認可した夜会だから俺達の騎士団に臨時で警護任務が下った」

「はー……。大変だな。だからお前はこんな所に居たのか、フロア警備なんかになったら令嬢達の視線を全部攫ってしまうもんな?」


 そんな事は無い、と言えないディオンはハウィンツの言葉にぐっ、と唇を噤むと「で?」と言葉を続ける。


「急いでいたみたいだが、ハウィンツはどうしてここに?」

「──ああっ! そうだ、そうだったんだ……!」


 ディオンの言葉に、ハウィンツははっと瞳を見開くと慌てて言葉を続けた。


「ここに、可愛らしい令嬢が来なかったか!? 灰色の髪の毛を愛らしく編み上げて、深碧の宝石のようなキラキラとした瞳の女の子! 俺の妹なんだよ、ここに来なかった!?」

「──可愛らしくて愛くるしい女性ならば来た。ハウィンツの言う通りの特徴だから、その女性は妹君だろう。あそこの部屋に入ったぞ」

「本当か!? ありがとう!」


 ディオンの言葉にハウィンツはパっと表情を輝かせると直ぐにディオンに示されたそちらの方向へと駆けて行く。

 妹の事で頭が一杯になっていたのだろう。

 普段であれば、ハウィンツは聞き逃さなかっただろう。聞き流さなかっただろう。


 どんなに美しい令嬢や可愛らしい女性が相手でも、ぴくりとも表情を動かさず淡々と対応をするディオンの口からリズリットに対して「可愛らしい」「愛くるしい」と言う言葉が零れ落ちた事にハウィンツは少しも違和感を感じなかった。


 それどころでは無かったからだ。


 だが、一度でも背後を振り向き、ディオンの表情を見ればハウィンツはぎょっと瞳を見開いていただろう。

 女性に興味が無く、感情を動かす事の無い、仕事にしか興味が無かった男が女性の姿を思い出し、ぽうっと惚けたように頬を薄らと染めている姿を見れば、ハウィンツは可愛い妹に迫る危機に逸早く対応していたかもしれない。


 だが、ハウィンツはリズリットが駆け込んだ、と言う部屋の扉の前に駆け寄り、リズリットしか目に入っていない為、ディオンの異変には気付かない。


「リズリット……? この奥に居るのはリズリットだよね……?」


 ハウィンツが優しく扉に向かって話し掛けると、扉の奥でガタリ、と気配が動くのが分かった。

 その音に反応したハウィンツが「リズ!」とさらに声を掛けると扉の奥からか細いリズリットの声が聞こえて来た。


「──ハウィンツお兄様……?」

「ああ! そうだよ、リズの兄さんだ! 何があった? 開けて貰ってもいいかい、リズ」

「わ、分かりました……っ」


 ハウィンツの言葉に、リズリットが焦ったように声を出すとカチャリ、と部屋の施錠を解錠する音が聞こえた。

 ゆっくりと扉が開かれる事に焦れたハウィンツは自らガバリ、と扉を開くとリズリットの名前を呼んで涙の跡が痛々しく残るリズリットの表情と、果実水でべったりと濡れてしまったリズリットの髪の毛に痛ましげに表情を歪めた。


 扉から姿を見せたリズリットの姿に、ハウィンツは一瞬だけ呆気にとられたような表情を浮かべたが、直ぐにその表情は険しく変化した。


「──リズリット、その姿は何だい? 何故、リズリットの瞳に泣いた跡があって、何故リズリットの髪の毛が果実水に濡れている?」

「それ、は……っ」


 ハウィンツの低く、冷たい声音に思わずリズリットが言葉を詰まらせると、ハウィンツがハッとしたように瞳を見開き、リズリットを優しく抱き締める。


「ごめん、リズリットに怒っている訳じゃないよ。リズリットを悲しませる奴に怒っているんだ。リズリットを、俺の可愛いリズを悲しませたのは誰だい?」


 口元は笑みの形を作っているのに、瞳は全く笑っていない兄、ハウィンツの姿を見てリズリットはひゅっと息を吸い込むと、自分の首を小さくふるふると横に振った。


「も、申し訳ございませんハウィンツお兄様……私も、どなたにぶつかられてしまったのか覚えていなくって……えっと、床に、躓いてしまった、と謝罪を頂きました……」

「床に躓いた……? 床に躓く場所なんてあるかな?」


 ハウィンツは、リズリットを優しく抱きしめながら背後に居る誰かに話しかけたようで、声音がリズリットから離れる。

 まさか、この場に兄以外にも誰かが居るのだろうか、とリズリットはハウィンツの腕の中で身動ぎするが「リズは泣いた跡が残る顔を見られたくないでしょ?」とハウィンツに優しく声を掛けられて確かに見られたくはない、と思い直しこくり、と頷いた。


「──いや。この夜会会場で躓くような床は無いとは思うが」


 誰か、ハウィンツの背後に居る男性がハウィンツの言葉にはっきりとそう答えると、リズリットを抱きしめていたハウィンツは「だよな」と呟いた。


「まあ……リズが会場に戻れば割り出せるんだけど……今日は辞めておこうか。多分ローズマリーももう馬車の所で待っているからもう邸に帰るかい?」

「はい、ハウィンツお兄様」


 うんうん、とリズリットの言葉に頷いたハウィンツはリズリットを自分の腕の中から解放すると手を引いて廊下を戻る為に歩き出す。


 そこで、未だにこの場を離れずぼうっと立ち尽くす自分の友人──ディオンの姿を視界に入れて、ハウィンツは訝しげにディオンに視線を向ける。


「……? リズリットの入った部屋を教えてくれてありがとうな。俺達はそろそろ帰宅するよ。ディオンは仕事に戻ってくれ、ありがとうな?」

「え、あ、ああ。役に立てて良かった……」


 ハウィンツの言葉に、ディオンはハッと体を跳ねさせるとハウィンツの顔へ視線を向ける。

 だが、ちらちら、とハウィンツの顔を通り過ぎてリズリットの方へディオンの視線が向かっている事にハウィンツは首を傾げる。

 何か嫌な予感を感じて、ハウィンツは急いで会話を切り上げ、ディオンの側から離れようとしたが、ハウィンツが足を踏み出すより早く、リズリットが唇を開いてしまった。


「あ、えっと……。ディオン、卿……? ありがとうございました」


 礼儀正しく、はにかみながらぺこりと頭を下げたリズリットを見た瞬間、ディオンの瞳が見開かれたのをハウィンツは見逃さなかった。


 ──何だか、とてつもなく嫌な予感がする


 ハウィンツは瞬時に悟ると、リズリットの手を引き、友人に対する態度としては些か失礼ではあるが、一刻も早くこの場から「逃げ出したい」と感じてしまって、ディオンへの挨拶もそこそこにリズリットの手を引き、足早にディオンの横をすり抜ける。


 ディオンの横をすり抜ける瞬間、見なければ良かったのだが、ハウィンツはちらり、とディオンに視線を向けてしまった。そして、後悔した。


「ああ、気にしないでくれ。リズリット嬢が早く笑顔になるよう祈っておくよ」


 女性に向かって、微笑んだ事など無かった男が、蕩けるような笑顔をリズリットに向けている姿を見て、ハウィンツは先程の怒りなどすっかり頭の隅に追いやり、そそくさとその場から逃げ出すように立ち去った。



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