十六話
◇◆◇
リズリットの乗る馬車が絵画スクールの建物に到着し、最初にハウィンツが馬車から降り立つと、リズリットに手を差し伸べる。
「ありがとうございます、お兄様」
リズリットが明るい笑顔でハウィンツにお礼を告げて、ハウィンツの手を借りて馬車から降り立つとハウィンツは些か面白く無いような表情でリズリットに向かって唇を開いた。
「──何だか、リズリットは先日から嬉しそうだね。いつも絵画スクールに来る時はこんなに楽しそうにしていないのに……」
「えっ!? そ、そうですか? お兄様の気の所為ではないでしょうか……」
ハウィンツの言葉に、リズリットは驚きに目を見開くとぺたり、と自分の頬に手をやる。
無意識の内に上機嫌になっていたのであれば、それは何が理由なのだろうか、とハウィンツは考え、その理由は一つしか思い至らない、と奥歯を噛み締める。
(リズリットの周囲で、変化があった事なんて……ディオンとの出会い以外にない……っ。くそっ、リズリットはディオンに対して良い感情を抱いてしまっているのか──)
これでは、無理矢理リズリットからディオンを引き離したとしてもリズリットが悲しんでしまうだけだ。
リズリットが新しい人間と交流して、その交流を楽しんでくれるのはとても嬉しいがディオン・フィアーレンだけは避けて欲しかったのが素直な気持ちだ。
「お兄様? どうしましたか?」
「ん、? ああ、何でもないよ。行こうかリズリット」
考え込むハウィンツに、リズリットが不思議そうに話し掛けると、はっとしたようにハウィンツがリズリットに視線を戻し、取り繕ったような笑顔を浮かべると建物内へと足を進める。
「それじゃあ……俺はいつもの様に待ち合い室で待ってるから、楽しんでおいで」
「分かりました、ありがとうございますお兄様」
リズリットが通っている絵画スクールに毎回ハウィンツは付き添って来ているが、ハウィンツ自身は絵画スクールを受講していない。
リズリットは、絵画に興味があるようで自分自身も描いてみたいとスクールに通っているがハウィンツは絵画にそこまで興味が無く、スクールには通っていなかったが、以前リズリットが一人で参加した時に周囲の視線に晒されてぐったりと疲れた様子で戻って来たのだ。
過保護だとは分かっているが、リズリットにそのような思いをさせたくないと考えたハウィンツは、それ以来リズリットに付き添うようになった。
そして、ハウィンツが妹のリズリットに付き添うようになってから、絵画スクールに通う令嬢の数が多くなった。あわよくばハウィンツとお近付きになりたい、と考える令嬢が多く居るのだが、令嬢達の視線などさして興味が無いハウィンツはいつも待ち合い室で時間を潰している。
(これがまた……いい情報収集の場にもなるんだよな……)
絵画スクールには、貴族子息や令嬢が通う人数の方が多いが、裕福な商家の子供や礼儀作法のしっかりした平民も通う事が出来る。
勿論、習う部屋は貴族と分けられているが待ち合い室は大部屋を使用しているので貴族達に近い場所には商家や平民の付き添いは近付かないが、会話をしている声を拾う事は出来る。
その為、今現在市井で何が流行しているのかや、何が起きているのか、商家や平民達の考えを聞く事が出来る貴重な場でもある。
貴族だけが通う事が出来る絵画スクールも王都にはあるが、リズリットがその絵画スクールに行きたがらなかった為、この絵画スクールに通っているがこの場所にして正解だった、とハウィンツは考えている。
だからハウィンツはいつもの様にリズリットのスクールが終わる時間を、待ち合い室で周囲の会話に耳を傾けながら待っていた。
リズリットを待ち、まだ然程時間が経ってはいないだろう時間帯。
ハウィンツが腕を組み、瞳を閉じていると待ち合い室の空気が突然ざわり、と大きく揺らいだ。
ハウィンツが何事だ? と考え、瞳を開ける前に良く知った声がハウィンツの名前を呼んだ。
「──ハウィンツ! 良かった、まだ終わって無かったか……!」
「……本当に来たのか、ディオン……」
ハウィンツは、自分の目の前に姿を表したディオンの姿を呆れたように見上げて呟いた。
「……? 来る、と言っただろう? 何をそんなに驚いている?」
「そうだよな……、お前は人との約束は必ず守るよな……」
仕事場から急いで直行したのだろうか。
ディオンは騎士団の団服のまま、窮屈そうに襟元を緩めて前髪をかき上げている。
突然この場に姿を表したディオンに、何故ディオン・フィアーレンがここに? と戸惑い、ざわめく周囲の空気など気にする事無くディオンはハウィンツの隣に腰掛けるとそわそわとし出す。
「──スクールが終わる前にここに来れて良かった。もしかしたら間に合わないかも、と心配していたんだが……」
「別に……今日では無くて別日でも良かったんだぞ……?」
「そうしたら、また時間が空いてしまうだろ……。リズリット嬢と街へ散策しに行くと言う約束が遅くなってしまう」
「──そもそも……良く今日が絵画スクールの日だと言う事が分かったな……?」
ハウィンツは、ふと浮かんだ疑問を口にした。
確かに、ディオンは何故リズリットがスクールに通っている日にちを把握していたのだろうか。
家に行ったのだろうか? だが、家に行ってからこのスクールにやって来るのでは時間が掛かる。
これだけ早い時間にこの場に現れたのだから、職場から直行したのだろう、と言う事が伺える。
リズリット達の暮らすタウンハウスから、この絵画スクールは些か離れている為、わざわざタウンハウスに行ってリズリットの後を追ったのであればもっと遅い時間になっている筈である。
「──ディオンは、今日は午前中に仕事を片付けたのか?」
「いや? 昼を取らずに仕事を終わらせて来た。職場から直接来たが?」
午前中に仕事が終わって居たならばこれだけ早いのも分かる。
リズリットとハウィンツは午後一番に邸を出てきたので、午前中に仕事を終わらせたディオンが邸にやって来たのであれば、すれ違う事もあるだろう、と考えてのハウィンツの発言だったのだが、どうやらそれも違うらしい。
「ん、? んん? なら、何故ディオンはここに……?」
「? だから、職場から直接来たからだが?」
話が噛み合わない。
「……いや、リズリットがこの絵画スクールに通っていると言う事を俺はディオンに話していたっけかな、と思ってな」
「──ああ! そう言う事か。聞いてはいないが、調べたのでリズリット嬢が何処の絵画スクールに通っているのかは分かっていたぞ?」
「何故……。ディオンはどうやって調べたんだ、いったい……?」
ええ? と言う、ディオンの行動に些か引いたような表情を浮かべてハウィンツが隣に座っていたディオンから若干距離を取ると、ハウィンツの行動に不思議そうに眉を寄せたディオンが唇を開く。
「調べる事なんて簡単だぞ……? 精霊もいるし、俺は騎士団の団長だからこの国に住まう貴族の足取りを調べる事も仕事だからな」
「ううん? それは、仕事でだろう……? 一般の貴族の足取りなんて調べたら駄目だろう……? 職権乱用って言うんじゃないか……?」
「そうなのか? そうなるのか……それは盲点だった……すまない。だが、誓って邸内までの事は調べていないからな?」
「……何処からどこまで真面目に説明すればいいのか分からん……ディオンは一度落ち着いてみて欲しい」
「俺は正常だ」
正常だ、と言い張る自分の隣に座る男は果たして本当に正常なのだろうか。
落ち着け、と言われているのに何故正常だと言う言葉が返って来るのだろうか、とハウィンツは考える。
それは、自身の心の中でも自分が些か「異常」だと言う事を自覚しているのではないだろうか。
ハウィンツはそう考えて、ディオンを可哀想な物を見るような生温い瞳で見詰める。
「──ディオン……、お前は……。生真面目で冷静な人間だったのにな……」
「何故そんな目で見詰めるんだ……不愉快だぞ」
むっとした表情でハウィンツを見返すディオンに、ハウィンツは「こいつこんな顔もするんだな」と逆に関心してしまう。
こんな表情をさせているのが、自分の妹であり大事なリズリットだと言うのが無ければ傍から見て楽しんでいたのに、とハウィンツは自分の胃がキリキリと痛み出すのを感じてしまう。
(ディオン……本当に本気なのか……リズリットに……? いや、リズリットは可愛くてとても良い子だから世界中の男がリズリットを好きになるのは分かるんだが……えぇ……ディオンが……本気……)
ハウィンツは先程から顔色を悪くしたり、顔色が元に戻ったりと一人忙しくさせている。
些か普通の男女の距離の詰め方では無いが……ディオンの行動は行き過ぎているような気もするが、リズリットの予定を調べているくらいではそこまで咎めるような内容では無い気もする。
(女性をデートに誘うならば、前もって女性の予定を聞く事だってあるしな……? だから、これもその準備の内の一つ、と考えれば……まあ、妥当なのだろうか……?)
ディオンのリズリットに対する行動は、正しくストーカーのような行為であり、紛うことなき個人に対する付き纏いではあるのだが、悲しい事にハウィンツもリズリットに関しては些か常識の枠内と言う物が吹っ飛んでしまっている。
ディオンがリズリットに対して行う行動はちっとも妥当ではない。
けれど、長々と考え、疲れて来てしまったハウィンツの脳みそは「リズリットが相手なら仕方ないか。可愛いもんな」と思考を放棄し始める。
これが、見知った相手では無くて、信頼出来る友人でなければハウィンツはどんな手段を使ってでもリズリットに近付く男を排除しただろう。
だが、ディオンはハウィンツにとって昔からの友人であり、人柄には信頼を置いている。そんな男がリズリットにどうやら懸想している可能性がある。
それならば、まだ信頼の置けるディオンの方が良い、とハウィンツが考え出した所で、スクールが終わったのだろう。
待ち合い室のある階の廊下に、スクールの終わった人達が姿を見せ始めた。




