ビブリオフィリアの忘れ姫
ファンタジー。幻想。おとぎ話。英雄が悪を退け、国を救い、姫を助ける。そんな、ハッピーエンド。美しい物語。だが──姫は、居なかった。
姫も、国も、英雄も、幻想も、ファンタジーも全て──。
「……本をお探しですか?」
休日の昼下がりのことだ。新緑が芽吹く季節、つまり春。心機一転ということで、新たな世界と出会うため、古本屋へ本を探しに来ていた。
だが、特別自分が読書家であるという認識は持っていないし、愛読家であるというものもない。何か本に対する執着があるわけでもない。ただ、面白そうな本があれば、読む。それだけなのだ。
「……すごいな、これは」
思わず、声が出た。古本屋の外見のせいだ。言うなれば……老舗の店、とでも表すのだろうか。まるで、その場所に何百年も前から存在し続けているような、その周辺だけ、時の流れが止まっているような──印象を受けた。
……そろそろ入ろう。店の前でこんなことをやっていても仕方がない。周辺の住民から不審者として通報される前に、私は店の中へ入ることにした。
「……こんにちは」
ガラガラ、と木製の引き戸を開き、店の中に入ると、一人の黒髪の女性が目の前に居た。……いや、雰囲気は大人びているが、学校の制服らしきものを着ているので、学生のアルバイトだろうか。
その少女学生は、店の中へ入るなり、沈黙して立ち尽くす私を怪訝な表情で見ていた。
「あー。すみません。まだ開店前でしたかね」
「いえ……どうぞ。ご自由に御覧ください」
てっきりまだ本を並べている所で、店が開いていないと思ったのだが、違ったらしい。謝る私に彼女は礼をして、カウンターの方へ去っていく。私も、本を見ていくことにした。
古本屋の空気というのは、なかなか独特だ。木の匂いと本の匂いがする。きょうび、木造の書店というのもなかなか見ない。ふと、近くにあった小説を手に取ってみたのだが、手入れはかなり行き届いていた。
そこまで広い店でもないが、一人で切り盛りすると考えると広くは感じるだろう。並ぶ本の数も多い。……まさか、学生のアルバイトがワンオペで回しているのだろうか。だとすれば、相当にブラックだが。
と。そこまで言って、さきほどの学生少女が、隣に来ていることに気づいた。
「ど、どうかされました?」
「……お好きなんですか? その本」
手元を見る。手に取った小説は、どこかの国の英雄の名前が付けられた叙事詩だった。うーん。確か、義務教育で学んだような気もする。
だが、読んだことはない。ので、好きではないと思う。
「……お読みになりますか? あちらで」
少女が指を指した。その先には、小さな木製の机と、椅子が窓際の近くに置かれていた。本が傷まないようになのか、カーテンは閉められている。
「良いんですか? ……立ち読みになりそうですけど」
「はい……。ここは……人が大切な本を”探す”場所、ですから」
そう言った少女はまた、カウンターの方へと消えていく。……不思議な雰囲気の人だ。いや、目的を思い出そう。私は本を探しに来たのだ。
だが、あいにく私は古典文学に触れたことがあまりない。歴史の教科書に出てくるようなものは、題名だけ知っているようなものだ。……いい機会だ。この本を読んでみることにしよう。
少女が指さした場所──はカウンターの側であった。何やらそこで作業をしている彼女の気を散らせないように、椅子を静かに引き、座る。
本を開く前に、店内を眺めてみた。木製の棚には、本が美しく並べられている。文庫別から、更にジャンル別にまで分けられて。棚の上にもいくつか本が乗せられているようだが、大量にではない。
それを言うならむしろ──と、本が平積みされたカウンターの方を見ると、少女が椅子に座って本を読んでいた。どうりで、先程から物音が消えていたわけだ。
「……」
私は、視線を手元の本へと戻した。表紙には倒れ込む巨大な赤色の竜と、その上でまばゆい輝きを放つ剣を天高く掲げる男の姿の絵があった。
いわゆる、ファンタジー的な世界観なのだろう。実に読みやすそうなジャンルだ。──さて、表紙をめくろう──と、本に手をかけた、その時。
私の視界は、一瞬のうちに、黒よりも暗い闇に包まれていた。
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今は昔。おびただしい数の軍勢を持つ竜族に、ある王国が虐げられていた。竜は全てを焼く炎をもっていた。竜は全てを潰す力をもっていた。竜は朽ちることない心臓をもっていた。
戦は凄惨なものであった。いや、戦ではなく虐殺だ。竜は人を弄ぶかのように殺し続けた。民は悲しんだ。王は悲しんだ。国は悲しんだ。
ある時、絶望に包まれた王のもとに、一人の男が現れた。名を持たないその男は、流れの傭兵だと言った。だが、彼の手にある竜の首を見れば、それが嘘であることは誰もが分かっていたのだ。
王は言った。
「どうか、お力を貸してくだされ」
男は、何も言わなかった。だが、地面に置いた竜の首に突き刺した剣は、彼の意志を表していた。
──その男の力によって、竜族の勢力は衰えていった。男は火を防いだ。男は竜の力をものともしなかった。男は竜の心臓を朽ちぬよう貫いた。
男は、竜族の王を殺し、竜族に囚われていた王の娘を助けた。すべてが終わったのだ。我々はもう、血を流す必要はない。根城へと飛び去って逃げる龍たちを見て、民は、王は、国はそう思った。
男は褒美を手に入れた。だが、その全てを受け取ることはなかった。英雄に恋い焦がれていた姫は、国を去る男を追いかける。
そして姫は、男の背中にこう言うのだ。
「──忘れ、姫」と。
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気がつくと、外は橙色の光に染まっていた。と同時に、自らが机に突っ伏していることを自覚する。暖かな光に当てられ、いつのまにか寝てしまったようだった。
汚してはいないだろうか──と思った私は、跳ねるように起き上がり、本を見る。だが、その本の表紙には何も書かれていなかった。何かが描いてあったはずなのに、思い出すことができない。
題名も消えていた。本を開く。ページも白紙だ。作者の名前すら消えている。
「……どうか、されましたか」
「え、いや、えーと」
店員の少女が、いつの間にか目前まで来ていた。……不可解なことが起こってはいるが、本に傷がついていないだけ良かったと思う。
「す、すみません。寝てしまっていたようで」
「いえ……大丈夫ですよ。でも……そろそろお店を閉めるので……」
そう言われた私は、席から立ち上がり、本を元あった場所へ戻す──そうとしたが、そういえば、適当に手に取った本だったのを思い出した。
「あ……。わたしが、戻しておきますね……」
「す、すみません」
頭を下げるが、彼女は気にしないでくれと言って、少し離れた本棚へと行った。ふと、腕時計を見てみると、時計の短針は南東を指しており、つまるところ、夕方になっていた。
本を買うつもりだったのだが、結局は探せずじまいになってしまった。おまけに睡眠欲に飲み込まれる始末だから笑えない。
「また……来てください。いつでも……お待ちしてますから」
不思議な少女とそんなやりとりをして、閉まる店のシャッターを見た後、私は帰路についた。
翌日。ニュースを見ると、天気予報のキャスターが、来週辺りには桜が開花するだろうと話していた。だから何だという話だが、今私が歩いている街道には桜が植えられているのだ。
気温が温かくなり、自分の周囲を飛び回る虫を鬱陶しく感じる季節ではあるが、風光明媚な景色というのも、嫌いではない。
そんなことを、あの古本屋に向かいながら考えていた。
「──いらっしゃませ」
昨日と、全く変わらない姿の少女がそう言う。学生服に、黒いロングヘア。その無機質な喋り方にも……変化はない。
「あー、すみませんでした、昨日は」
「……これ、どうぞ」
私が、先日と同じように頭を下げる前に、少女が何かを差し出してきた。受け取ってみると、それが本であることが分かる。それなりに分厚い本で、英字で何かが書かれていた。その下には、鎧に身を包む騎士の絵がある。
「これは?」
「……おすすめの、本です。あの……。読んで……みませんか」
本を探しに来たとは言ったが、結局のところはいきあたりばったりだ。これといって具体的に読みたい本があるわけじゃない。それに、書店の店員が薦めるものなら、少なくともハズレはないだろう。
「じゃ、じゃあ。せっかくなので」
「あちらへ……」
本が平積みされた──昨日以上に、大量の書籍が積まれたカウンターを横切り、例の窓際の椅子に座る。案内が終わると、少女はまたカウンターへ戻り、本を読み始めていた。
昨日と同じように、店内を眺めてみる。店には……以前見た時以上に本が増えていた。棚の上には山のように本が積まれ、床にも少し侵食し始めている。
「……」
だが、ただの客である私が気にすることでもないだろう。きっと、身辺整理を始め、本を大量に手放した誰かが居たのだろう。きっとそうだ。
ぱら……と、騎士と高貴な女性の絵が描かれた表紙をめくり──。私に目眩が襲いかかってきた。そう、先日と同じように。……いや、私は昨日、ただ睡魔に襲われて──。
カウンターの少女が、こちらを見ていた。
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私は、ある国の姫に仕える騎士だ。だが、戦で怪我をしてしまい、ついには身を引くこととなった。息子にその使命を譲り、去ってゆく私を、姫はお止めになった。
「あなたが、功績や名声に興味のないことは承知しています。これはわたくしのわがままです。どうか、一度あなたを称えさせてください」
……私は、その願いを承諾した。騎士をやめるとはいえ、仕えた姫への恩義を忘れたわけではない。……どうか、少人数での式にしてくれないか、とは懇願した。
そして私は、驚きを感じている。式が行われる場所は、こじんまりとした会場。そこに居るのも、高齢の執事と、私と、姫。そして会場の外に、少数の護衛がついている程度だった。
「では、こちらに」
壇上に立つ姫に、私は呼ばれた。姫の前で気をつけをして待つ。もう何年もこうしてきたというのに、今日で終わりだと思うと、少し寂しい気持ちもある。
「では──」
姫は私の名を呼ぶと、次に私の功績を次々と読み上げた。むず痒くはあるが……。私の人生を語られているようで、恥ずかしくもある。
「……最後に」
姫が私の手を取り、真っ直ぐに伸びていた腕が少し曲がる。
「ありがとう」
そう言った姫は私へ抱きつく。そして、私の耳元で言うのだ。
「……忘れ姫」
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頭がぼんやりとする。目を開けると、またも、外は橙色の光に支配されていた。そして私はまた気づくのだ。机に突っ伏していることを。そしてまた、私は気づくのだ。自らが本を汚していないことを。そしてまた私は──。
「忘れ……姫」
口から言葉が溢れる。意識してのことではない。強烈な違和感を感じる自意識が、脳を勝手に動かした。私は……私は、違和感を感じている。何が、というわけではない。
だが、確実に、違和感を感じている。
「……忘れ姫」
「え」
少女が、横に居た。店員の少女だ。積み上げられた本。差し込む夕日に照らされる黒髪。……また、寝てしまっていたのだろうか。
「はい……。でも、気にしないでください」
「……そうかい」
少し頭を下げ、荷物を取って席を立つ。またも、良さげな本を見つけることはできなかった……なんて考えていると、まだ少女が横に居ることに気づく。
「あの……どうしましたか?」
「忘れ姫」
オウム返しのように、少女は先ほどの言葉を繰り返す。少女の目は……真っ直ぐに、私を見ていた。私の目を見ていた。”忘れ姫”という単語を聞いた瞬間に、私の脳細胞が活性化するような気さえする。
何か、何かが。いや、何かを。思い出そうと。色褪せたモノクロの写真に、色を与えようと、もがくような──。
「……いえ、なんでもないです。忘れてください」
店のシャッターが閉まる。昨日と同じように。……そう、同じ、ように。
三日目。雨が降っている。土砂降りと言うほどでもないが、小雨というわけでもない。そんな、中途半端な雨。私は……三連休の終わり。今日という日に、また、古本屋へ足を運ぼうとしていた。
あの場所で、私は何かを体験している。それが何であるかを、確かめたいのかもしれない。
「……な」
店は、なかった。場所は確実に合っている。だが、そこはただの空き地だった。
「……っ!」
雨音が強まる。水浸しになった”空き地”を後にして、私は走り出していた。私は、体内の”何か”に突き動かされて、駆け出していたのだ。
”忘れ姫”という言葉。不可解な体験。消えた店。そして──。
「……」
少女。何も変わっていない。学生服を着た、黒髪の少女。傘もささず、近くの河川敷にただ立っている。雨にさらされているというのに、彼女の体には水滴一つついていない。
それは、私に差し出された、白紙の本も同様であった。
「これは……」
「……」
少女は、何も語らない。口を開く気配はない。ただその瞳で、真っ直ぐに私の眼を見ている。
「……分かった」
私は、表紙をめくる。何も書かれていない白紙の本を。そして──。
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私は──。白色の空間。白色の証明。白色の空気。全ての白色が、私の体を取り囲んでいる。私は──私のままなのか。何もない空間だ。無機質で、何も置かれていない部屋。
私の他にあったのは──、少女の姿だけだった。
「忘れていたはずなのに……あなたが、思い出させた」
何の話をしているのか、すまないがさっぱり分からない。だがおそらく……”忘れ姫”のことなのだろう。
「物語はいつか消える。誰にも語られなくなる。いつか、記憶からも消えていく。……そのはず、だったのに」
「君は一体……誰、なんだ」
疑問に思った私がそう言うと、私の手から本が落ちる。しっかり握っていたはずなのに、私の手からこぼれ落ちた本。”それ”が、白を黒に染めていく。
「さようなら、優しい人」
「ま、待ってくれ!」
黒く染まった空間が、崩れていく。どうしようもなく、崩れていく。私の目の前に居る少女は──笑っていた。
「──忘れ姫を、最期に見つけてくれて、……ありがとう」
少女が、涙を流しながらはにかむ。忘れ姫。少女。本。そうだ。彼女は。彼女は、私の考えた──。昔、私が名前を決め、外見を定め、性格をつけた、紙に描かれた、彼女は。
「待ってくれ! ッ────」
声にもならない叫びを、私は落下しながら発していた。消えゆく”彼女”の、喜ぶ顔を見ながら……。
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雨は止んでいた。私は、河川敷に佇んでいた。私の目の前には、何も残っていない。少女も、本も、何もかも、全てが消えていた。
私は、自分の手に本を握っているのを思い出した。彼女から渡された本は、いつの間にか、私の手に戻っていた。その本には、名前がついていた。私が、子供の頃に考えた、話の題名が。
”ビブリオフィリアの忘れ姫”──と。
雨が止んだというのに、私の頬を水滴が伝っていた。