穏やかな朝の始まりが穏やかな一日の始まりとは限らない
カーテンの隙間から射し込んだ光が自然の目覚まし時計になって起こされる。
昨夜は遅かったからもう少し寝ていたかったけれど、もう一度寝直すのも気が引ける。
ベッドから体を起こすと、波打った髪を絡まりが無い程度に指で整えた。
隣には誰もいないベッドが1つ並んでいた。
冷え切ったマットを見下ろし、息を吐く。
「起きよ」
ベッドから下りると、まずは遮光カーテンを開く。入り込んでくる光に一瞬目を細める。
空は雲一つない快晴だった。
振り返って、ベッドの上の布団を2枚に折り畳む。抱え込むようにぐっと持ち上げると布団掛けに放り投げるようにして勢いよく掛けて、それから全体が伸びるように形を整えた。
「おはよ」
「おはよう」
リビングのドアを開けると、お腹を刺激する香ばしい匂いと、少しの甘い香りがした。
キッチンでは何か作業をしている彼。
おはようの挨拶をすると、私を見てにこりと笑ってくれる。
彼の手元には2枚の平皿と、その上に並ぶソーセージと卵焼き。その内一枚には、表面にほんのり焼き色の付いた食パンと、その上に横たわる溶けかけのバターの姿が見えた。
「すぐ食べる?起きる時間が読めなかったから、パンは焼いてなかったんだけど、これ、まだ焼きたてだから大丈夫だよ」
パンの乗った方の平皿を手にして私に差し出して彼が言う。
「ん、食べる。ありがと」
私はそれを受け取ると、ダイニングテーブルに運んで、そのまま席に座った。
「コーヒー、飲むよね?」
「飲む〜」
彼はそれを聞くと、パンを1枚、オーブンにセットしながら、予め用意しておいた水筒に入ったお湯でコーヒーを入れ始めた。
挽いたコーヒー豆がフィルターの上でお湯を注がれ、蒸らされると、独特の香りが漂ってくる。
「休みの日に朝からちゃんとご飯作るの珍しいね。今日、なんかあった?」
一緒に暮らし始めるようになってから1年と少し。朝の苦手な私は、休みの日には大体昼近くまで眠っていて、朝を抜くことが多い。
初めはそのことを不満に思う彼だったが、私がそういう体質であるなら仕方がないと受け入れたのか、朝は声を掛けるような事はしなくなった。
だから、朝ごはんは大抵軽い準備で済むものが多かった。
作っていても冷めてしまうだけだし、パンなんかは、焼いて置いておいたら固くなってしまうから。
「たまには、ね」
蒸らしたコーヒー豆の粉に、少しずつお湯を注ぐ為に、彼の視線もカップに注がれたまま。
ダイニングからその表情ははっきりと見えなかったけれど、少し上がった口の端がどこか楽しそうにしているようにも見えた。
一緒に暮らし始めた頃は、何もかもが新鮮に思えて、些細なことも嬉しくて、お互いいつも笑顔だったけど、時が経つと慣れてくるもので、ルーティンのように過ぎていく時間も多かった。
食事中の会話が弾むことはあったとしても、食事の準備を楽しんでする、なんてことはすっかりなくなってしまっていて、だから今朝の彼の姿がどこか不思議に思えて、でも付き合い始めた頃のようで、なんとなく嬉しい気持ちになった。
「先に食べていていいよ」
そう声を掛けられたけれど、彼に朝食の準備をさせたまま、一人で食事を始めるのは流石に気が引けて、彼が一通りの準備を終えるまでは、ただ彼が準備してる姿を眺めてた。
「先に食べていいって言ったのに」
私の前にコーヒーの入ったコップを置くと、彼は少し困ったような笑顔を浮かべる。
「一緒にいるんだから、一緒に食べたいじゃん」
そう返すと、彼の笑顔が少し翳った気がした。
彼は無言で、焼き上がったばかりのパンが乗った皿を手にすると、私の前に置かれたお皿と交換し、先に焼いてあったパンの方を彼の手元に持っていく。
「ふんわりパンがかちかちパンになっちゃうだろ」
彼も椅子に座ると、手を合わせた。
それを見て、私も手を合わせる。
「「いただきます」」
特にどちらから合わせるでもなく、息をするように、当然のように重なる声。
彼は食事の挨拶を終えると、すぐにパンを手に取り一口齧りつく。
パンの端がかりっという音と共に欠け、ざくっという音と共に噛み締められる。
その欠片を咀嚼し終えると、彼は不満そうな顔で「ほら〜」と不満げな声を出した。
「やっぱり固くなっちゃってんじゃん」
「ごめん」
分かっていても待っていたかったのだ。でも、それで出来立ての方のパンを渡されてしまうと、謝るしかない。
「まぁ、その分、バターがしっかり染みてるんだけどね」
彼はパンをフライパンに見立てたかのようにして、熱で溶けたバターがパン一面に広がるように傾ける。
私の前に出されたパンの上のバターは、正に形を崩し始めているのに対して、彼の手にしたパンの上のバターは、欠片だけを残してすっかり溶けてしまっていた。
この溶けたバターがブルーベリーのジャムと絡まって、甘さにちょっとした深みのある味を出してくれるのだ。
朝食を食べ終え、私がお皿を洗っているのを、ダイニングから眺めていた彼は、洗い終えるタイミングを待っていたのか、手を拭き終えた私に対して、突然「話があるんだけど」と切り出した。
さっきまでの笑顔とは違う、どこか緊張した面持ちに、それまでの温かな気持ちが急に冷水を浴びせられたように、締め付けられるような痛みを覚える。
一瞬の内に駆け抜ける想像は、良いものから悪いものまで様々で。
その想像のどれが正解かは皆目見当がつかなかったけれど、朝から感じた違和感はこういうことだったのか、ということだけは納得できた。
「君とのこれからの関係を見直したいんだ」
彼の口から出た言葉は、想像の中でも良い方と悪い方の上の方に位置する言葉だった。
「一緒に暮らすようになって、お互いの良いところと悪いところとが見えるようになって、初めの頃に感じた、ただ幸せだったことも、今は「普通」って感じに変わってきてしまったんだよね」
「うん」
頼んでいたことを忘れてやらずじまいにしていたり、覚えていてもずるずると後回しにしてしまうことがあったり。
やって欲しくないな、と思ってお願いしたことも、忘れてまた繰り返したり。
どれも悪気があるわけじゃないのは分かってるけど、気になることとかやらなきゃいけないことはすぐに片付けないと気持ちが悪い私からすると、それは苛立ちを覚えることで、どうしてそれが平気なのか分からなかった。
一方で、体調を気遣って朝はそのままにしておいてくれるとことか、私の代わりに気づいた作業をやってくれてることとか、多分彼の中のやらなければいけないことの優先順位があって、その順位の高いものは私がお願いするまでもなく、なんなら気づかないこともやってくれてる。
そうしたことは、最初は感謝してたけど、今は、昔よりは「普通」になってしまってる気がしてた。
「お互いに合わない部分で喧嘩することもあったし、以前に比べてきたら会話も減ってきたし、普段から一緒にいるから、改めてどこかに出掛けよう、なんて考えることも少なくなった」
それも確かにそうだった。
一緒に暮らし始める前は、会えることが「特別」なことだから、少しでも会いたくて、色んなところに出掛ける予定を作ったし、たくさん彼のことが知りたくて、会ってるときでも、会わないときでも、お話出来るときはお話してた。
一緒に暮らし始めると、そうしたことをしなくても、そこにいることが当り前になっていて、だから「頑張って」出掛けようとか、「頑張って」何か話そうとか、そういうことは考えなくなった。
頑張るほど疲れてしまって、そうすると余計に苛立ちが募って、つい強い口調で話をしてしまうこともあった気がする。
「今のままだと良くないって思ったんだ。このままだと、ただなんとなく一緒にいる、そんな風になってしまわないかなって」
「それで、止めたいって思ったの?」
合うこと、合わないこと、あったけれど、それでもこれまで一緒にいられたから、その関係性に甘えすぎてたんだろうか。
私が彼に苛立ちを覚えていた事と同様に、彼もまた私に苛立ちを覚えていて、でも、私と違って気持ちをすぐに言葉に出せないから、ずっと抱え込んでいたのだろうか。
駄目なところは話して欲しい、そう伝えていても、「言っても仕方のないこと。そう考えてしまう、やってしまうのは理解できる」って考えると、自分の中で納得してしまうから。そうやって溜め込んできた不満が、溜めきれなくなったんだろうか。
「このまま続けるのは良くないって思ったから」
「一緒にいると辛い?
もしいろんなこと我慢させてたならごめん。
でも言ってくれないと分かんないし、あなたみたいに察しが良いわけじゃないから、不満に思ってること気付いてあげられなかったならごめん。でも……」
彼の顔が見れなくなって、手にしていたタオルをぎゅっと握りしめる。
がたっと音がしたかと思うと、すぐに俯いた私の頭に彼の手のひらが乗せられたのが分かった。
子供をあやすように撫でられるのは、いつ以来だろうか。
あぁ、彼と付き合う以前にも、こうやって頭を撫でられて慰められたんだった。
その時は、私の友達の友達、というぐらいに繋がりの薄かったはずの彼に。
当時付き合っていた人に手酷い捨てられ方をした時、結婚も考えてるって話ていた相手に裏切られたなんて周りの友達には話せなくて。
それでも誰かに気持ちを吐き出したかった私は、当時の友達同士の集まりに何度か呼ばれてみんなから可愛がられていた彼のことを思い出して、そのことを話して。
たら、やっぱり今みたいに頭を撫でられたのだ。
顔見知りよりは親しい程度の異性の相手に対して、突然頭撫でる?って驚きと、でも、変に迎合するでも、同情の言葉を掛けるでもなく、ただ頭に感じた温もりに対する安心と。
よく分からない感情が、既にいっぱいいっぱいだった私の心に注がれて、留めおこうとした感情は自然と溢れ出していた。
……今みたいに。
「勘違いさせるような言い方をしてごめんね」
頭を撫でたまま、優しい声音で彼が語りかける。
「このまま、今の関係性が居心地良くて、変わるきっかけのないまま、時間だけが過ぎていきそうだなって思ったんだよ」
撫でられた手が離れると、代わりに、座っていた椅子の後ろから優しく抱きとめられる。
「結婚してくれませんか?」
「……ばか」
彼は私の心が感情でいっぱいいっぱいになっていて、それを押し留めようとしている時に、どうしてこうやって抗いようのない感情を注ぎ込んでくるのか。
でも、溢れ出した感情は、以前に感じたものとは全く別の、流れ出ても少しも嫌ではない感情だった。
「別れようって言われるのかと思った」
「うん。どうしてこの流れでそういう風に思ったのかは分からなかったけど、そうだろうなって思ったからびっくりした」
彼が笑みを漏らしたその吐息が耳の後ろに当たってくすぐったい。
「お互いに嫌なことが見えてきたとか、会話が減ったとか、そんな話しされたら、悪い風に考えるでしょ」
「別れ話切り出すのに、朝からご飯作って待ってる奴なんていないでしょ」
……それは、そうかも。
「そんな想像させちゃう程、危機感もたせてたんだとしたらごめん」
「ちが……」
そうじゃない。悪いのはあなたじゃない。いや、紛らわしい言い方したのはあなたかもしれないけど。でも。
抱きしめていた彼の腕が離れると、今度は私の座る椅子の横でひざまずくようにして、俯いたままの私の顔を覗き込んだ。
いつの間に手にしたのか、ティッシュを持って、私の目の横を流れ落ちた涙の後にティッシュをそっと当て、とんとん、とパウダーで化粧でもするように、目元までの涙を取る。
「返事、時間が必要なら待つから」
「……もう一回言って」
ぐちゃぐちゃのままの気持ちで聞いたから、素直に受け止められなかった。だから。
そう思って言葉にすると、視界の端で、彼の口角が少し上がったのが見えた。
いたずらするときの彼の笑み。
「返事、時間が必要なら待つから」
「そっちじゃないっ」
私の反応に彼が笑う。それが彼のいたずらだと分かっていたのに反応してしまった。
「僕と結婚してくれませんか?」
「こちらこそお願いします」
恥ずかしさから、囁くような声でそう返すと、照れを隠すようにして、そのまま彼の唇を啄んだ。
「今日のこと、絶対忘れないからね」
「君がそういう人だってことは知ってる」
今日のことが嬉しい記憶じゃなくて、騙し討ちのようにした記憶として残るであろうことを、彼はちゃんと分かってて、でも、だからこそ、「嬉しい記憶としても絶対忘れないからね」ってことは、教えてあげないことにした。