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猫と金木犀

作者: 鶴田 翠(つるた みどり)

金木犀香る季節。暑さも落ち着き始め、夜は大変に涼しくなってくる。時折の時雨で香りを妨げられるのが悲しい季節。

バイトの最中や帰る際、頬を撫でる風に乗って、まるで香水をつけているような気分になれるこの時期が私は好きだ。

今日も穏やかな人や面倒な人、様々なお客を相手にして疲れ果てた身体の安らぎとなってくれる。


人通りの少ない帰路に並ぶ金木犀を眺めつつ、点在する根元のそこかしこへ視線を彷徨わせ、私はあるものを探していた。それは夜道に溶け込んでしまう毛並みを持った、黄金の瞳の存在。

よくよく注視してみると、私が見つけるよりも先に光を含む視線がこちらを凝視していた。交わった目を途切れさせることなく、徐にカバンから煮干しを取り出した。一定の距離でしゃがみこむと、向こうは私を認識して音もなく歩みを寄せる。手元を微動だにせずゆっくりと瞬きを1回してみせると、それを合図にタカタカと駆け寄って来たのは、細身の黒猫だった。

互いの言語を解さずとも、寂しい独り身どうしなのか何かと縁がある。地面に置いてやった煮干しを幾つか満足そうに食し、お返しとして少しの間触らせてくれるのだ。この猫がいつからここに居るかなど知らず、また野良猫とも思えぬ毛並みを存分に堪能させてくれるのだから、私は満足と言う他ない。

いつまで自分がここを帰り続けるのかも分からないのだ。懐かれ過ぎても、懐き過ぎても、どちらも寂しいことに変わりはない。手早く別れを済ませ、私は家に帰った。




ある時、帰りが遅くなった日があった。その日は残業をする事になり、猫のことなど念頭から離れていた。

金木犀は遠に落ち切り、残り香が僅かにする程度の帰路にて事は起きた。

眠い眠いと目を擦りながら歩いていると、街灯の少ない夜道で車の走行音が遠くから聞こえた。光も何もまだ見えていないから別の道だろうと、私は横断歩道を渡り出した。

半分を越えた頃、その音が相当近くにある事に気付いた。しかしヘッドライトは一向に見えない。まさかと思い走り出そうとしたが、寒さが増して来た夜中、疲れと眠気で覚束無い足は突然の伝達司令に追い付いていない。

あと1歩、大股に進めば間に合う。

それだけなのに、私の視点はいつもより少し高く、そして大きく揺れていた。

跳ねられた事が理解でき、光景はゆっくりと傾いていく。地面と近くなった身体は、強い衝撃に揺れ動かされて転がった。

ようやく静止した視界は途端に眩み始め、衝撃による圧迫で肺が潰れてしまったかのように呼吸が上手く出来なかった。咳すらも出ず、浅く細い呼吸音が微かに耳に流れて来た。

苦しい、苦しい。そんな言葉しか浮かばなかった。

走馬灯らしきものが巡る中、金木犀の根元に座る黒猫の姿が見えた気がした。




何も見えない真っ暗な空間に意識だけがあるかのような謎の浮遊感。動いてみても一切の音が聞こえない状態で、嗅覚だけがたしかな情報を捉えていた。

私の好きな匂い。もう散ってしまった匂い。

動かしているのかも分からない無感覚な足を必死に動かし、匂いの増していく方向へ走っていく。変わらない景色の中で、金木犀の香りだけが道標だった。

やがてザリザリとノイズが耳に入って来るようになり、そこに微かに猫の声がすることに気付いた。

あの猫だ、あの黒猫だ。間違いない、この先にいるんだ。

まって、まってという気持ちを察するように、鳴き声は一定の感覚で聞こえてくる。

どうしても追い付きたくて仕方のない気持ちがせり上げ、視界が水膜で歪んでいく。香りと声に近づくだけ、走る苦しさや涙が頬を伝う感覚が戻ってくる。

そうしてやっと「…まって!!」と自分の声が聞こえた時、一際強い金木犀の香りが私を包み込んだ。風が吹き込む感覚に思わず目を閉じると、瞼を開くと同時に眩い光を瞳が捉えた。


消毒液の臭い。重苦しい体。ろくに動かすことの出来ない節々が、何かで固定されていることだけは分かった。

右に、左に視線を揺らして、高い位置に吊るされた点滴の管が自分に向かって伸びている。ピッ、ピッ、と規則正しくなり続ける心拍計の音をしばらくぼんやり聞いていると、扉の開く音とカーテンの滑る音が聞こえた。


「こんにちは、検査の時間で…まぁ、目を覚まされたんですね!直ぐに先生をお呼びしますね!」


視界の片隅で看護師らしき人が忙しなく移動するのを見て少し、何名かが私の枕元に立ち並んだ。意識の確認と記憶の有無を軽く確認され、動かせない手足の代わりに瞬きをしてみせた。

お医者さん曰く、私は数日程眠っていたそう。数日前の夜中、バイトの帰り道で無点灯運転していた自動車と接触したのだという。助かったのも、意識が数日で戻ったのも非常に奇跡的らしく、しかし私にはその話をぼんやりとしか捉えていなかった。

自身の容態がある程度安定して来た頃、私はある種の焦りを感じていた。それは確証ではない筈なのに、何故か自分の中では分かってしまっているような焦燥感。

無理矢理にでもリハビリを行い、一刻も早く私は退院をしなければならなかった。1週間、2週間と過ぎていく内に私の包帯は徐々に取れ出し、身体の自由が聞くようになって行く度気持ちばかりが早っていく。

医者に無理を言いリハビリを遂行して、私は両腕に松葉杖を携えながらようやく病院の外へ出る事を許された。付き添いの打診もきっぱりと断り、私は痛む体を動かして目的地へ向かった。


比較的自宅に近い、街灯の少ない通勤路。金木犀の残り香すらも薄れてしまった並木道。根元に積もった萎れたオレンジの花弁。

カツカツと忙しなく松葉杖を動かし、私はその根元へ視線を彷徨わせた。右へ、左へ。

日中だから居ないかもしれない。それでも私には来なければならない、根拠なき理由があった。

私が見つけるよりも先に、黄金の瞳がこちらを見詰めている。そんな気がして1本の金木犀へ視線をとめた。

そこには座る黒猫の姿はなく、代わりにその根元には隠れるように投げ出された四肢が見えた。それを四肢だと認識できる自分の頭をどこかへぶつけてしまいたかった。

よたよたと覚束無い足取りで歩みを寄せると、金木犀の裏に隠れるように、ひっそりと黒い毛並みが横たわっている。

両の杖を地面に放り、汚れることも構わずに座り込んだ。そうして力ない冷たき躯体を抱き抱え、その顏をようやく日の元に照らし出した。

細身な体、野良猫とも思えぬ毛並み。もう閉じられてしまった黄金の瞳が私を見つめ返すことはない。

泣きたい気分である筈なのに、私は涙ひとつ零れなかった。

痛む体を杖なしで動かし、私は近くの植え込みを落木の枝で掘り出した。掘って、掘って、小さな落とし穴ができた頃、ようやくその中に黒猫を寝かせてあげることができた。

若干皮の剥けた手のひらをその体に二、三度滑らせ、全身に優しく土をかけていった。埋まっていく毎にありがとう、ありがとうと気持ちを込めていく。そこには一切の同情や憐れみはなく、唯々謝意が存在していた。


土をかけ終え一息吐くと、若干肌寒い風が吹き始めた。じんわりと浮かんだ汗が撫で付けられ、内側に籠った熱が発散されていく。

そうして私に、心にぽっかりと穴が開いたような感覚がやって来た。

また私は、独りになってしまったのか。

どこまでも自分勝手で高慢な精神を咎める理性は今働いておらず、熱が逃げるのに従って寂しさが増していく。

自分の浅ましさを隠すように携帯していた煮干しを添えて、私は汚れを軽く叩いてから松葉杖を両脇に抱えた。

歩き出して数歩、一際強く風が吹き付けた。


風に乗って、金木犀の香りが私を包み込んだ。

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