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おくる

作者: 佐藤瑞枝

 シャッターを開けると、もわっと蒸した空気が忍び込むように店の中へ流れてきた。雨が、しおしおと降っている。いやだなと思う。エアコンのドライをつけると、一瞬だけかび臭いにおいがして、ジリジリと湿気を吸いはじめた。こんな日に洗濯ものを預けに来る客は滅多にいない。入口のカウンターをはなれ、雪乃はミシンの前に座った。

雪乃の店では、クリーニング以外に洋服のお直しや通園バッグなどの縫製も請け負っている。入園入学のために頼まれていたものは先週までにひと通り納品したが、まだ手をつけていないものがあった。白いレースを何枚も重ねたパニエのような衣装。全身黒ずくめの背の高い痩せた男が抱きかかえてきた。ほころびを縫ってほしいと託された。空が灰色ににじんだ暗い雨の日だった。

「ステージ衣装ですか」と聞くと、

「仕事着です」

 と男は言い、

「相棒の」

 と付け足した。

 いったいどんな職業なのだろう。雪乃は気になったが、客のプライベートを詮索するのは失礼にあたる。それ以上聞くのをやめた。それに、この頃ではありとあらゆるものが店に持ち込まれる。アニメのキャラクターの衣装や着ぐるみのクリーニング依頼もある。今さら何を持ち込まれても不思議ではなかった。

 どこかにぶつかったり、ひっかけたりしたのだろうか。男が持ってきた服は、あちこちにほころびができている。傷ついていると言っていいくらいだ。ふわふわして見えるが、生地は触れると案外しっかりしていて、何層にも重なったフリルには弾力がある。まるで生きているみたいだ。穴やほつれはそっと布をたぐりよせながら縫いあわせていくしかなさそうだ。かなり大変な作業になる。自分にできるだろうか。雪乃は思った。

「わかりました。やってみます」

 それでも雪乃がそう答えたのは、それが母の教えだったから。


「信頼して持ってきてくれる仕事を断っちゃ罰があたるよ」


 母の口癖だった。女手ひとつで店をきりもりし、元気な母だった。店だって忙しかったはずなのに、雪乃の学校行事には欠かさずやってきた。運動会には食べきれないほどの量のお弁当を作ってきて、雪乃の友達にもふるまった。音楽会では観客席の一番前で、一緒に歌っているのではないかと思うほど大きな口をあけて歌詞を口ずさんでいる母の姿が舞台からも見えた。明るく近所付き合いの多かった母は、クリーニング屋のおばちゃんというそのまんまの愛称で呼ばれ、町で知らない人がいないくらいだった。そのことが恥ずかしく、母と口をきかない時期もあった。けれど、雪乃にとって、母はたったひとりの家族だ。一度は結婚して家を出た雪乃が離婚して戻ってきたときも、母は何も聞かずに雪乃を受け入れてくれた。


「まったく親子そろって男運がないんだから」


 冗談を言い合いお酒を飲み、二人して酔っぱらった。おかげでしんみりした感じにならずにすんだ。あの頃、母はまだ元気だった。


 ふくらんだレースに手をあてて落ち着かせ、雪乃はゆっくりとほころびを確認する。かすかにあたたかさを感じるのは部屋の空気が湿っているからだろうか。目をこらし、雪乃は慎重にミシンをあてて縫いあわせていく。


「誰のおかげで大きくなったとでも思っているんだろうね」


 まただ、と雪乃は思う。聞こえるはずのない母の罵声が頭に響き、雪乃の胸につき刺さる。最近、ひとりで仕事をしているときに聞こえることが多くなった。フラッシュバックのように雪乃に襲いかかってくる。

 母が倒れたのはおととしの二月。脳梗塞だった。後遺症で右半身に麻痺が残ってしまった母は、車いすでの生活を余儀なくされた。思うように動けないばかりか、何をするにも雪乃の介助が必要になった。それは、今まで何でもひとりでこなしてきた母にとって屈辱的な出来事だった。母の辛さを十分すぎるほどわかっていた。けれど、母のストレスを全部受け止められるほど雪乃は平気ではいられなかった。


「下手クソなんだよ」


 最初はそんな言葉だったと思う。スプーンを口に運んでやっても、母は上手く食べられなかった。舌の上にのせてやっても右端の唇からだらだらとこぼしてしまうということを繰り返していた。そのたびに雪乃は汚れた母の襟元をぬぐった。その時だった。ストレスを爆発させた母がいきなり叫び、雪乃の手をはらいのけた。弾き飛ばされたスプーンが床に転がり、割れるような音が響いた。一瞬何が起きたのかわからなかった。筋肉の弱っている母のどこにこんな力があったのだろうか。雪乃はただ驚いていた。

 悔しかった。けれど、病気の母を責めることはできなかった。自分が悪いのだ、と雪乃は納得した。ちゃんとできない自分が悪いのだ。涙がこぼれそうになるのをこらえ、雪乃は床に転がったスプーンを拾いあげ、母の前にひざをつく。

「お願い、食べて」

 すがるように雪乃は言った。食事をとらなければ母は死んでしまう。母が死んだら自分がひとりぼっちになってしまうということよりも、食事を上手く与えられなかったことでいつか自分が母を殺してしまうかもしれないという方が雪乃は怖かった。

すっかり冷めてしまったスープを母の口元へ運んだ。けれど、その日雪乃がどんなにがんばっても、母はふんと横を向いたまま一口も食べてくれなかった。

 

 母の暴言は増えていった。


「ひとりで大きくなったような顔して、生意気なんだよ」


「親を馬鹿にして」


「所詮は親のすねかじりだろ」


 ひとりでブツブツ文句を言っている時もあったし、突然怒りをあらわにして叫び、雪乃がたたんだ服を床に投げ捨てたりすることもあった。変わり果てた母があまりにもショックで、雪乃は自分がどうにかなってしまいそうだった。店にきた近所のおばさんが母の叫ぶ声を聞いて、施設にあずけたほうがいいと言ってくれたが雪乃は断った。母は、自宅以外で暮らすことを望まないだろうし、雪乃には育ててもらった恩がある。


「憎らしい子だね。あの男にそっくりだわ」

 

 しかし、さすがにこれにはこたえた。家事や介助の仕方が悪いと叱られるなら納得できた。自分が直せばいいのだ。けれど、雪乃が父に似ていることはどうしようもないことだ。ああ、やっぱり母は自分を疎ましく思っているのだと雪乃は思う。

母は、雪乃が子供の頃から時折いやなものを見るような目つきで雪乃をにらむことがあった。母を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。母の気に入らないことをしてしまったのだろうか。不安でたまらなかった子供時代のことを雪乃は今でも覚えている。母は、雪乃が嫌いなのだ。優しく接してくれていたけれど、それは上辺だけのことで、本当は雪乃なんていないほうがいいと思っていたに違いなかった。生まれて来なければよかった。心のどこかでずっと雪乃はそう思っていた。

自分が母を苦しめているのなら、これ以上、母のそばに居てはいけない。雪乃は母を施設に移すことに決めた。母のために決断したというのに、自分が母を捨てたのだという罪悪感が雪乃を苦しめた。聞こえないはずの母の罵声が聞こえるようになったのはその頃からだ。


「いたっ」

 雪乃が叫んで指をはねのけたのと同時に、白く透き通る生地に真っ赤な沁みが広がった。針で刺してしまった。人さし指から血がにじんでいた。あわてて片方の手でおさえ、包帯を巻いた。大事な衣装を汚してしまった。どこまで沁みてしまっただろう。指でかきわけながら汚れを確認する。

霧吹きをかけ、別の布をあててたたくとなんとか元通りになった。ほっと胸を撫で下ろすと、ようやく指がじんじんと痛み出した。作業に集中しなくては。雪乃は改めて衣装の全体を確認する。大部分は手縫いの作業になりそうだ。

ラジオから天気予報が流れてきた。春の雨は、もう数日続くらしい。男から指定された納期まであと三日だ。


 着替えを持って、母の暮らすホームに行く。受付で待っていると、スリッパをぱたぱた言わせて奥村さんがやってきて首をふった。今日も面会はできないらしい。入居した日、母は娘に捨てられた、何も悪いことをしていないのに閉じ込められたと大騒ぎし、それ以来雪乃に会おうとしなかった。

仕方がない。とりあえず一週間分の着替えを奥村さんに託した。

「お母さんね、みんなの前でよく雪乃さんのことを自慢しているのよ」

 奥村さんが言った。

「自慢の娘だって」

 驚いたことに、母は毎朝きっかり十時になると共有スペースに出てきて、他の入居者とおしゃべりに花を咲かせているという。信じられなかった。店に出ているつもりにでもなっているのだろうか。しかも、雪乃のことをしっかり者でよくできた娘だと話していると言う。

「お母さん、シャイなのかもしれませんね」

 奥村さんが小さく微笑んだ。母は、ホームの人気者だという。ほっとした気持ちで雪乃はホームをあとにする。預かった洗濯物から変わらない母の匂いがした。店にいるときの愛想のいい母と、雪乃に対して憎々しい態度の母と、どちらが本当の母なのだろう。

きっとその両方だ。


 降りしきる雨のなか、男は約束通り店にやってきた。まさかこんな日にとりにくるとは思わなかった。今度は少年を連れていた。全身黒ずくめの男とは対照的に、白いシャツに半ズボンの少年は子犬のような可愛らしい顔をしていた。親子だろうか。だとしたら、ふたりの暮らしぶりはいったいどんな風なのだろう。

 雨に濡れてしまわないようにできあがった衣装をビニール袋に入れようとしたら、男は首をふって雪乃の手を止めた。カウンターからそっと衣装をとりあげると、男は少年の肩を包み込むように衣装を被せ、骨ばった細い指で首元のくるみボタンを留めてやった。

「これで仕事ができるね」

 二人が店をあとにするとき、男を見上げた少年が楽しげにそう言ったのが聞こえた。


 翌朝、奥村さんから連絡があった。

「雪乃さん?」

「はい」


「お母さまが今朝亡くなられました」


 臨時休業の札を店の入口にかけ、雪乃は店のサンダル履きのままホームに走った。奥村さんは玄関で待っていて、顔を見るなり雪乃を抱きしめた。母の部屋に案内される。

「おだやかな顔をしているでしょう」

 奥村さんが言った。夢を見ているような、いやなことなんて何ひとつない幸せそうな寝顔だった。首元に羽根のようなものが落ちていた。羽毛布団からこぼれたのだろうか。のけようと手を伸ばした雪乃は思わず声をあげそうになった。

 レースだった。雪乃が黒ずくめの男のために繕ったレースの衣装とまったく同じだった。手触りもあたたかさも何もかも。まさかと思う。母が息をひきとったのは、あの親子の仕業なんじゃないかと思い、そんな馬鹿げた話があるものかと首を振る。

「ほんと」

 雪乃は言った。

「お母さん、笑ってる」

 そう言って、奥村さんとうなずきあった。レースを拾いあげた手をポケットの中でそっと握った。


 あの日、雪乃が衣装を仕上げなければ、母はもう少し長生きしただろうかと思う。だとしたら、雪乃は自分の手で母を天国に送り出してしまったことになるのだろうか。最後にもう一度母と話がしたかったし、お酒も飲みたかった。その一方で、憑き物がとれたような、どこかほっとしたような気もしていた。

 あれから黒ずくめの男は一度も雪乃の店に現れていない。


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