#203
どうにも、ストレスが溜まっていた。
どこにぶつけていいかわからない不満が、たしかにわたしを支配していた。
そんなときわたしがとる行動は一つ。大声を出して、声とともにこのもやもやもどこかへ吐き出してしまうのだ。しかし大声を出すには、自分の家はあまりにも不向きだ。家から一番近いカラオケボックスへ車を走らせることにした。
何年前に発行したかわからない会員証を財布から取り出し、受付をすすめてもらう。
「何時間にしますか」
「とりあえず、2時間で」
そうして、部屋番号の書かれた小さな紙切れと消毒液が入ったカゴを渡される。2階、203号室。足元を見つめながら、階段を上り、指定された部屋の前に着いた。その部屋は階段の目の前にあり、人がそれなりに前を通りそうな部屋だった。
静かにドアを開ける。
自分だけで2時間使うには広い部屋だ。向かい合ったソファが孤独感を強くさせる。少し寂しくなりながらも、黙々と歌いたい歌を予約していく。すぐに5曲ほどが予約リストに入った。あとはストレスのもとを吐き出すように、ただ、歌うだけ。ボーカルの性別、曲調なんて関係なく、ボーカロイドの耳がキンキンしそうな曲も、全力で歌い続けた。
喉を少し休めたい、と歌う曲をおとなしいものにしたころだった。部屋に入って1時間が経とうとしていたとき、スマホがメッセージの受信を告げた。通知をちらりと見ると、
『今日はどこか、遊びに行ってるんですか?』
と、先日、夜の街を一緒に歩いてくれた彼からのメッセージがあった。そういえば、昨日の夜、インスタグラムのストーリーに「明日どこか遊びに行こうかな」なんて投稿した記憶がある。
「ストレス発散ひとりカラオケです(笑)」
それだけ返しておいた。するとすぐに既読がつく。
『カラオケいいなあ。僕も好きなんですよね』
「え、なんですって」
『誘ってくれたら行ったのに!』
「まじかー。誘えばよかったです」
『今日は時間あるし、もしいいなら参加しますよ』
その言葉に揺らいでしまう。いや、わたし彼氏持ちだし、彼氏以外の男の人と二人でカラオケなんて……そう思わないこともなかったが、最近彼氏とはうまくいっていなかった。彼氏とはメッセージでしかやり取りしていないんだし、うまく隠せばばれないか。それなら……
少し、火遊びしてみたい気持ちにもなった。
「じゃあ、来ます?」と、メッセージを返信してみる。するとまたすぐに既読がつき、『行きます!』と返ってきた。
ずっと歌いながら返信していた。自分が歌っている歌を改めてみてみると――携帯電話で繋がっている恋の歌だった。なんてタイムリーなんだろう。今日最初に歌った曲は、彼氏がいることを隠して他の人と遊んじゃうよ、なんて曲だった。ああ、これが今のわたしなのか。そう思った。
すぐにフロントに1時間延長ともう一人来るということを伝えた。店員さんは少し怪訝そうな顔をしていたが、何も言わず処理を済ませてくれた。
彼が到着するまでの間、わたしは何をしようか。歌い続ける気にはなっていなかった。彼が来るまでは。
『どこにいますかね?』
そんなメッセージが来ていたので、「2階203号室にいます!」と送り、可愛らしいスタンプも送ってみた。
ぼーっとしながらスマホを見つめていると、ドアをこんこんと叩く音が聞こえた。その音に顔を上げると、にこにこした彼が立っていた。つられてわたしも笑顔になる。
「お疲れ様です。来ちゃいました」
そういって彼は、向かい合ったソファにそっと腰を下ろす。さっき、わたしに孤独感を与えたソファが、空っぽではなくなった。
「来ちゃっただなんて。むしろ来てもらってありがとうございます」
そう言ってわたしも笑顔を向けたが、内心、前に彼を車に乗せたときのように緊張していた。震えていた。さっきまで寒さを感じていた体が熱い。顔赤くなってないだろうか。そんなことばかりを考えていた。
知らない曲かもしれないけど、歌いますね、と彼がマイクを持つ。少し高い地声から、どんな歌声が出てくるんだろう。気になって仕方なかった。
イントロを聴く。たしかにわたしの知らない曲だった。
歌い出し、わたしは心臓をぎゅっと抉られたような感覚に襲われた。少し高めの地声からは想像できないような歌声だった。やっぱり男の人なんだな、と思う低い声。
CD出してたら絶対声に惚れて買っちゃうやつだ。
「めっちゃうまくないですか?」
衝撃のあまり半笑いになりながら、そう言うしかなかった。
「いや、めっちゃうまいだなんて。とんでもない」
彼はやっぱりにこにこしながらそう言った。とんでもなくない。
彼がハイスペックなだけだと思う。完璧な人間はいないと言われているが、わたしの目に彼は完璧な人間に見えてしまった。
誰かと過ごす時間と言うのはとても楽しい。そのぶん、時間が過ぎるのもとても早い。2時間なんてあっという間で、インターホンが残り10分を知らせた。
「残り10分らしいです。そろそろ行きますか」
延長をするかしないかを聞いてこないのが彼らしい。そもそも、彼らしい、なんて、わたしが数回しか会ったことない彼の知らないところなんて腐るほどあると思うのだが。
部屋を出て、階段を降りる彼の背中に、呟く。
「わたし最近、うまくいかないことが多くて……でも、なんか軽くなりました」
その言葉には何も反応がなかった。それでいいと思った。今は、自分の弱さを知ってほしいと願うだけわがままな身分である。
会計を済ませ、駐車場に向かう。外は霧雨が降っていた。
明るすぎる照明に反射した小さな雨粒は、雪のように見えた。彼が来ている黒いジャケットに結晶などはついていないので、たしかに雨なのだが。
「なんか、雪に見えません?」
「え、雪?」
「ほら、あの照明が照らしてるところ。なんか雪みたいだなって思ったんです」
そう言うと、彼はわたしの目線の高さに合わせるような素振りを見せた。わたしよりもおそらく20センチ近く身長が高い彼は、たぶんそれなりに屈んでこの目線に高さを合わせているはずだ。年上なはずなのに、なぜかかわいらしく見えてしまった。
あ、そうだ。今しかない。
「ちょっといいですか?写真、撮らせてください」
そう言ってスマホのインカメラを向ける。ピースをしたわたしの顔の高さにやっぱり合わせるように、彼は屈んでくれた。
そうして撮った写真は、もしかしたら最初で最後のツーショットかもしれない。でも、その写真に写るわたしは、マスクで顔の半分が見えなくてもわかる、最高の笑顔だった。
ただのストレス発散のはずが、何か、自分にとっての転換点になってしまうかもしれない。一瞬そんなことが頭を過った午後七時。
寒空が落とす霧雨はまだ止みそうになかった。