煙
学校帰り、駅のホームで本を読みながらベンチに座って電車を待っていると、ふと私の腿を羽で撫でるような感覚があった。
本を閉じて顔をあげる。誰が撫でたのか、いや何が撫でたのか、すぐに理解できた。
私の目の前、ホームの点字ブロックギリギリに一人の男が立っていた。風貌はいかにもサラリーマンといった感じの黒いスーツとカバン、そして髪の毛だけれど、黒いのはそれだけじゃなかった。
彼に憑りついているというか、思いがけなく集めてしまった怨念やら憎悪やらが黒い煙のように彼の体から立ち上っていたのだ。この煙に私というか隣人が刺激されたらしい。
このまま黒い煙を放っておけばどうなるか、一度だけ見たことがある。そのときは構内に入ってきた急行列車に女性が飛び込んで、四肢や首なんかを駅のホームへぶちまけた。あの時はこの煙が何を意味しているのか知らなかったから止められなかったのだ。
私は立ち上がって彼の元へ歩く。腐臭と何かの焦げた匂いが鼻腔を満たしたけれど、息を止めて彼の肩を後ろから叩いた。
「えっ」
驚きながらも疲れの混じった彼の声とともに煙が少し薄くなる。私の方を向いた彼の顔は、眼鏡越しでもわかるほどの深い隈とつやのない肌をしていた。若干落ちくぼんだ眼で私の顔を見た後、かさついた唇が「どうしましたか」と言葉を紡いだ。
「いえ、体調が悪そうだったので」
「あ……」彼が申し訳なさそうに頭を下げる。「大丈夫、大丈夫です。ご心配かけて、申し訳ないです」
話すために吐き出した息と入れ替わるように、肺は生臭く不快な煙で満たされる。煙はさっきより薄いけれどまだ消えない。こいつがもう少し消えてくれないと、彼はまたどこかで飛び散ることになる。もしかしたらそれは、私の目の前かもしれないし彼の大切な人の前かもしれない。
あまり人に関わるのは好きではないけれど、もう一度人が目の前で飛び散るのを見るのは嫌だった。
私はえづきを抑えながら、「少しお時間良いですか」
「えっ」彼が悩むように少し黙った後、首を横に振った。「いや、まだ仕事中ですし電車も来ますし……それにあなた、知らない人ですし……」
「何も貴方を女子高生ビジネスに引き込もうってわけじゃないですよ。ただ、貴方働きすぎだなって思っただけなので」
困ったような驚いたような顔で彼は黙りこくったまま、私の目を見る。
そりゃあそうだ、初めて会った人に分かったような口調でそんなことを言われれば、色々と勘ぐりもする。第一、働いてもいない私みたいな学生にそんなことを言われる筋合いはないだろう。
でも私は世間とずれているせいで、他の人よりいろいろなものが見えてしまう。その分、色々な経験もしてきたし『話し相手』も色々なことを教えてくれた。
「知っています? 退職届って上司に直接出さなくても郵送でもいいって話。なんなら──」私は片手でスマートフォンを弄り、退職代行エージェントのホームページを見せる。「──今はこういうサービスもあります。それに失業手当とか使えば、貯金が無くても数か月は仕事探しに専念できますよ。気になるならハローワークに行ってみてください」
突然退職を勧められる、それも初めて会った人間に。そんな経験をしてしまえば、困惑もするだろう。彼は狐につままれたように呆けた顔で、私のスマートフォンを見ていた。
「今すぐ仕事を辞めろと言うではありません。ただ、死ぬ以外にも選択肢があるってことだけ言いたいので」
「えっ、なんで……」
困惑した表情から驚いた表情へと変わる。やっぱり彼は電車に飛び込んで死ぬ気だったらしい。
私はスマートフォンをポケットに滑り込ませ、踵を返した。
煙は完全に無くなってはいないものの、息をしても不快感を覚えない程度には薄まった。あとは彼がどうするかだけだけれど、きっと大丈夫。
電車が構内に入ってくる旨のアナウンスが聞こえ、彼が乗るであろう電車が滑り込んできた音が後ろから聞こえてきた。
振り向いてみても、彼は電車に飛び込まず私の方を見ていた。
「じゃあ、私はこれで。貴方と違って電車を待たないといけないので」
「待ってくれ、君は……」
私は「ただの女子高生ですよ。さあ、乗り遅れますから早く」とだけ言って、前を向きなおり、さっきまで座っていたベンチの方へ歩いていった。
『貴女も大概ね。何がただの女子高生よ』
電車が発進した後、私の隣に居る女性がそう話しかけてくる。この姿では女性と言うには少々厳しいけれど、生きていた時は女性だったわけだからそう呼んで差支えないだろう。
私は彼女の姿を見ないまま──だって大半の人には見えないのだから──誰もいないことを確認して声を出す。
「仕方ないでしょう、貴女みたいに首だけにする訳に行かないけれど、関わりたくもないんだから」
『誰かの人生を弄れば貴女の人生も弄られる。そうでしょ?』
「だからといって放置して、目の前で死なれるのも嫌なの。でも助かった、貴女が色々知っていてくれたおかげで、少なからず説得は出来たみたいだから」
ここに誰かが居たら私はかなり独り言の多い変人に見えるだろうな、なんて事を思う。この駅が学校に近い割に人の少ない駅でよかった。
『まあ、こんな感じで憑りついちゃったから家賃みたいなものよ……この体じゃ、調べ物もできないけどね』
「憑りついたというか、私が貴女に死んだことを伝えたけれど私に関心を持っちゃったからこの状態でいるって言う方が正しいでしょう」
『あの時の貴女、放っておくのは流石に不安だったし。目の前で死んで飛び散った私が言うのもなんだけど。でも、私が死んだことを貴女が教えてくれたおかげで変に悪霊にならなくて済んだから結果オーライね』
「All right、全部良しとはどう見たって言い難いけれど。貴女は結局死んでいるわけだから」
『あの時は私も死ぬ以外、選択肢が無いと思ってたもの……あれだけ調べておいてよ? まあ、上司にぼこぼこに人格否定されたあと唯一の肉親が急死したって連絡が来ちゃ、死にもするわね』
私たちの話を断ち切るようにアナウンスが構内に流れる。次に来るのは私が乗る電車だ。
『あら、もうそんな時間。じゃあ、また明日ね』
「明日は土曜日、学校は休み」
『あらぁ……地縛霊になってから曜日感覚も体もなくなったわ』
彼女に体か潰れていない顔があればさぞかしおどけているのだろう。でも、隣のベンチを見てもそこにあるのは、かつらを被せたマネキンの頭を横にした後、トンカチで何十回も殴ったか車で轢いたかした後の残骸のような白と薄橙色の塊だった。
「じゃあね、また」
『またね、三五』