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作者: ぎゃわわ

1

差し込む陽光で目が覚めた。眼前には白い天井が広がっている。突然の明るさに目が慣れなくて目を細めた。大きくあくびをすると、消毒液の匂いが鼻をついて潔癖な空気が肺を満たした。あたりは静寂に包まれていて、すぐそばの心音計だけが存在を主張していた。

 眩しく輝く外をガラス越しに見ると、遠くに見える鬱蒼とした山と青空だけの単調な世界が広がっていた。枕元のテーブルの上の時計をみると午前七時を指していた。そろそろ朝食の時間だ。



 味のしない朝食を食べ終わり、軽い体調検査をした。順調だね、と医者は笑ったが僕は笑わなかった。医者が出ていくと、だだっ広いモノトーンの檻に僕はまた一人になった。

 退屈しのぎに本を読んでいるとスライド式の扉が騒がしく開かれた。

「おはよう」

 大方、寝坊でもして急いで来たのだろう、飛び込んできた父親は中途半端にネクタイを締め、汗で引っ付いたワイシャツの袖を捲っていた。父は息を整えている。

「おぉ、おはよう。今日は顔色良くないな。ちゃんと飯食ってるか?」

「食べてるよ」

「そっかそっか、これ着替え持ってきたから、ここ置いとくな」

 男はこなれた手付きでベッドの下の収納スペースに荷物を詰めていく。

「ありがとう」

 もう何十回目のやり取りをする。

「いやー、外は暑くてたまらん。汗が止まらんよ」

 ずっと空調の効いた部屋に居る僕には関係の無い話だったが、適度に相槌をうつ。しばらく当たり障りのない話を続けたあと、父は思い出したように言った。

「あっ、そういえば今日の夕方、担任の先生お見えになるってよ」

「えっ」

 ふいに放り込まれた非日常に驚きが漏れる。

「大丈夫か?いやなら断っとくぞ?」

「いや、大丈夫だよ」

 僕はなんとも無さそうに頷いた。ここで駄々をこねてこれ以上父に迷惑をかけたくなかった。




本を無感情にめくる。病室には心音計の音と紙の擦れるおとだけがしていた。ふと顔をあげると、外は赤く染まっていて何羽かのカラスが自由に空を舞っていた。このまま面会時間を過ぎてしまわないだろうか。そう考えていると扉を叩く音がした。

「どうぞ」

 とびらがゆっくりと空いて慈愛に満ちた笑みを浮かべた女性が現れる。長い髪を結わえるための質素なゴムバンド、角ばった黒縁のメガネ、皺一つ無い黒いスーツとスカート、それら全てから彼女の仕事に対する熱心さが伺えた。

「こんにちは」

「こんにちは」

「五条くん、調子はどう?」

「今日はいい方です」

「そう、良かった。はやく良くなるといいね」

 彼女の所作の一つ一つは丁寧で、お見舞いの教科書のようだった。

「これプリント。大丈夫?ちゃんと勉強してる?」

「はは」

 彼女が少しからかうような口調で言ったから、僕は彼女に合わせて笑った。

「今ね、学校は文化祭の準備してるんだけど」

 彼女は僕が笑い気を良くしたのか饒舌に語りはじめた。知らないクラスメートの活躍、自分とは関係の無い舞台の話、クラス全体の様子、まるで学校が希望に溢れた場所であるかのように、或いは僕に学校を売り付けるセールスマンのように。

「あの」

 彼女が悪かったわけじゃない。むしろ彼女の一挙一動は正しく、『学校に行きたくても病気でいけない可哀想な子』にとっては満点だったと思う。

「帰ってもらえませんか」

 ただ、僕はそうじゃなかった。僕の病気はきっと治らない。そもそも、生きたいと思えない。彼女は知らない、夜中に呼吸ができず一人震える苦しさを、皮膚の下を虫が這いずるような痒みを、孤独な病室の耳に刺さる静寂を。こんな苦しみを凌ぐほど、死は苦痛なのだろうか。生を諦めた僕にとって彼女の語る光に満ちた場所とはもう無縁で、僕の手に入らない物を一つ一つ確認させられているような気分がした。

「え」

 彼女の口はお喋りの途中で止まり驚きで目を開く。彼女の黒瞳が僕の視線と交差する。心音計の音が聞こえる。

「ご、ごめんね。体調、やっぱり悪かった?先生うるさかったよね」

 彼女はたどたどしく言葉を紡いだ。

「あっ、明日からは五条くんと仲良しの子にプリント届けさせるから、ごめんね」

 彼女は罪悪感と後悔に顔を歪ませながら慌てて荷物をまとめて帰った。仲良しなんか居ません、そういう前に彼女は出ていってしまった。

 


 二年前、中学一年の夏、アスファルトの焦げた匂い、つんざくような蝉の声とまとわりつくような暑さの中、僕は倒れた。

 すぐさま病院に連れられて医者から難しい顔で到底覚えられそうにない複雑な病名を伝えられた。よく頭が回ってなくて、足元が浮いたような奇妙な浮遊感のなかで僕はそれを聞いていた。隣の父は僕より深刻そうな顔をして涙を流した。何度も父が僕を抱き締め謝ってきたのを覚えている。僕はその都度大丈夫だよ、と言った。

 病気なんてすぐに治ると思っていた。しかし、地獄のような発作の間隔は徐々に短くなり、病魔は着実に僕の体を蝕んでいった。体から無駄な肉は全てそぎおとされ腕に管を何本も刺された。病室を転々と移され、今では末期患者が集まるとされている最上階に居る。

 死にたい、とは言わなかった。言えば父が悲しむことは分かりきっていた。母は体が弱く、僕が小学校に上がる前に死んでしまった。父は男手一つで僕をここまで育ててくれた。死んで唯一悔いがあるとしたら、父を悲しませてしまうことだ。





 翌日から、女教師が来ることはなくなった。また静かになった病室で僕は一人本を読んでいた。時々考える、なぜ僕は本を読んでいるんだろう。この世の創作は全部これからの人間のために作られている。ゆっくりと終わりに向かう僕と本は対極的な存在だ。それでも何故僕は本を読むことをやめれないのだろう。

 思案に耽っているとまた今日も一日を終えようとしていた。

 その時、扉が乱暴に叩かれた。

 驚き思わず身をすくめた。読みかけの本を机の上に起き構える。面会時間ギリギリに誰だろう。どうぞ、と言おうとする前に扉は開かれた。

「おう」

 短く切り揃えられた髪、整った眉に自信を感じさせる大きな瞳、半袖のシャツはだらしなく出されていてぺっちゃんこの鞄を肩から下げていた。

「あ、安藤?」

 男は否定も肯定もせずにずかずかと入りこみベッドのそばの椅子に腰かけた。

「久しぶりだな、えーと、五条」

 安藤はキョロキョロと病室を興味深そうに眺めている。僕が戸惑っていると安藤は律儀にことの経緯を説明してくれた。あの女教師(黒木洋子と言うらしい)はHRで突然僕のことを話し始め涙を流して、いかに僕が可哀想かの演説を始めた。そして安藤たちにお見舞いを行くことを提案したが、会ったことも無ければ名前も知らないクラスメイトへのお見舞いを誰もが渋った。そこで一年の時、同じ部活で唯一面識のあった安藤に白羽の矢がたてられた。ということらしい。

「はあ」

 思わずため息をついた。お見舞いに来てくれた安藤に申し訳ない気がしたが謝る気にもなれなかった。

「洋子ちゃんは分かったつもりになるところがあるからなあ」

 驚いて顔をあげると安藤と目が合う。僕はあの教師が苦手だった。自分の物差しで他人の気持ちを推し量れたつもりでいる。彼女の優しさは僕にとって独善的ではた迷惑なのだ。安藤はつい漏れたため息からそれを察していた。

「あれ、どこやったっけ」

 安藤は薄っぺらい鞄をごそごそと漁り始めた。

「すまんプリントなくしたわ。ほしかった?」

「え、いや別に」

「だよな。つまんないもんな学級のプリントなんか」

 安藤はまた視線を病室にさ迷わせる。

「本、読んでんだ。ゲームとかしねぇの?」

「ゲーム好きじゃないんだ」

「あ、これ面白そう。ちょっと貸せよ」

「え、うん」

 僕が戸惑っていると、館内に面会終了の合図である蛍の光が流れはじめた。

「あれ、思ったよりはやいな。」

 安藤は椅子を丁寧にもとの位置に戻して僕の本を鞄にいれて帰り支度をはじめた。

「じゃまた。」

 安藤は来て十分もしない内に帰った。窓から差し掛かる夕日が僕を包む。遠くに見える山に赤い太陽が沈んでいく。当たり前のいつもの光景に僕は不思議な安堵を感じていた。そして何故か彼の去り際の言葉がずっと頭に残っていた。



 安藤はそれから僕の病室を訪れ続けた。会話のほとんどは本のことだった。安藤は意外にも読書家で僕が本を借りることもあった。僕を気遣ってのことか彼は決して学校の話をしなかった。一度だけ、僕が安藤に部活のことを聞いたことがあった。安藤は良いんだよ、といって微笑んで壁を作った。僕も無理な詮索はしなかった。この適度な距離感が心地よかった。夕方の数十分、病室が赤く染まる時間だけが僕と安藤の繋がりだった。



「最近顔色いいな」

 朝、着替えを持ってきた父親にそう言われた。自分では意識していなかったが言われてみると体調がいい気がした。

「なんかいいことでもあったか?」

「別に。最近読んだ本が面白かったことくらいだよ」

 思い当たる事は一つしかなかったが、なんだか気恥ずかしくて言えなかった。


 その日、安藤は来なかった。僕は赤い病室で一人蛍の光を聞いた。無機質な夕食を流し込むと謎の途方もない疲労感が僕を襲い、読みかけの本を机に放り投げ泥のように眠った。






2

 目が覚めると思い出せない夢の残滓が頭の隅に残っていて、沈んだ気分になっていた。白い天井が眼前に広がり、白い蛍光灯の光で目を細めた。

「おう」

 ベッドの傍らには安藤が座っていて、いつもの調子でぶっきらぼうな挨拶をした。

「安藤、来てたのか」

「起こしちゃわりーと思ってよ」

 すると安藤は読んでいた本を突然朗読した。

「『もうけつしてさびしくはない なんべんさびしくないと云つたところで

 またさびしくなるのはきまつている けれどもここはこれでいいのだ 

 すべてはさびしさと悲傷とを焚いて ひとはとうめいな軌道をすすむ』」

 その少し低い声は落ち着いていて、自然と耳に馴染んだ。

「春と修羅?」

「おっ正解。さすが五条だな。伊達に入院してない」

「やめろよ」

 僕は安藤とこうしたちょっとした冗談さえ言い合う事が出来るようになっていた。僕たちは親しい友人のように言葉を交わした。しばらく話していると、扉を叩く音がした。安藤と顔を見合わせる。

「?看護師かも、どうぞ」

 僕がそういうと扉がゆっくりと開かれた。扉が開くとそこには少し太った人の良さそうな中年の男が立っていた。服から、同じ入院者であることが分かった。

「知り合いか?」

 安藤が尋ねる。僕は首を横に降る。

「すみません、うるさかったですかね」

 僕の代わりに安藤が言った。

「いや、かまわないよ。どうか私も、交ぜてもらえんかね。ここは退屈でたまらん」

「大丈夫か五条」

 断る理由も無かったので頷いた。安藤が男のために新たに椅子を出す。

「どうもありがとう、私の名前は源田だ。どうぞよろしく頼む」

 そう言うと源田はゆっくりと腰を椅子に下ろした。

「若いのに読書かね。感心なことだ」

「こいつ本当に本が好きなんですよ」

 安藤が軽いノリで僕に話題をふる。僕は何かを言わなくてはと思ったが、萎縮してなにも言うことができず不器用に笑った。

「私は音楽が好きでね、病室にレコードを持ち込めないのが残念だよ」

「俺も好きですよ音楽聞くの、っていっても多分おっさんほど高尚な音楽じゃないと思いますけど。」

「音楽に貴賤はないさ。ただ人それぞれの嗜好があるだけで。」

「そうっすかね」

 僕は完全に会話に入る機会を失い黙って聞いていた。

「音楽に限らず、芸術は全て等価値さ。芸術は、創作は会話なんだ。受けとる側は作者の思考を知らず知らずのうちに受け取っている。他人の考えを理解してやる、これは会話と同義だと思わんかね。」

「会話にしては随分一方的っすね。むしろ説教では?」

「そうとも言えるな」

 源田は豪快に笑った。自分の説にそれほど固執してないらしい。

「まあ、芸術に触れるのは良いことさ。例え自分に合わなかったとしても、それは気付かぬ内に自らの血肉となって豊かな感受性を育む。そしてその感受性は世界を輝かせてくれる。」

 僕と安藤は源田の話に聞き入っていた。僕たちが興味をしめしているのを見ると、源田は上機嫌にさらに芸術の素晴らしさを語ってくれた。彼があまりに幸せそうに話すので、こちらも顔がつい綻んだ。


「おぉ、もうこんな時間か。」

 源田は思い出したように言った。僕は時間を確認しようと時計を探したが、見当たらなかった。源田は座っていた椅子を直しこちらに向き直った。

「楽しかったよ。どうもありがとう」

「また来てください」

 僕はやっとの思いでそう言った。源田は少し驚いたような顔をした後、優しく微笑んで扉を閉めた。

「面白いおっさんだったな」

「うん」

 もし僕が一人で居たら、この出会いは無かっただろう。僕はどこか遠くを見る安藤の横顔を呆然と見ていた。

 外の世界はゆっくりと色を失い、水に垂らした墨汁みたいな世界に一等星が煌めいていた。

「安藤、お前は時間大丈夫なのか」

「あぁ、俺はまだしばらく大丈夫だよ」

「そっか」

 安藤が本を読みはじめたので僕は静かにしていた。




こんこん。

病室の扉が控えめに叩かれた。

「源田さんかな」

 僕がそう言うと、安藤は首を首を傾げた。

「どうぞ」

 扉がぎこちなく開く。そこには髪を二つ結びにした、天真爛漫という言葉がよく似合う少女がいた。

「えっ、と、部屋間違えてるよ?」

 少女は聞く耳を持たず病室に入りこむ、無邪気に安藤に駆け寄る。安藤が困ったように少女に椅子を差し出すと少女はそこに座った。

「今日はお客さんが多いな」

「えっと、お嬢ちゃんはどこから来たのかな」

 少女は椅子に腰掛け机の上の本を物珍しそうに眺めていた。

「えっとね、さゆりね。パパとママとくるまにのってたんだけどね。きゅうにすごいおとがして、そしたらここにいたの」

 要領を得ない少女の口ぶりに僕が首を困惑していると、安藤は優しく微笑んで少女の頭を撫でていた。

「一人でここまで来れて偉いね」

 少女は嬉しそうに笑った。

「どういうことだ?」

 僕が首を傾げていると、安藤はまあいいじゃないか、と僕に言った。

「なにして遊ぼうか」

 安藤は子供の扱いに慣れているらしく柔らかい口調と物腰で少女に接していた。僕は話に全くついていけなかったし、小さい女の子との接し方が分からなかったので相手をする安藤を横目に本を読んでいた。

 しばらくすると、少女は笑顔で突然こう言った。

「あっ、もういかなきゃ」

「一人で大丈夫かい」

 安藤が少女の手を優しく握って言った。

「うん。だって、かみさまのところにいくんだもん」

 少女は嬉しそうに椅子を降りて扉へと向かった。

「ばいばい」

 あまりに純粋な笑顔で手を振られて、思わずこちらも笑顔で手を振り返した。扉がゆっくりと閉まった。


「なんだったんだろうな」

「なぁ五条」

「なんだよ」

 安藤は遠く窓の向こうを見ていた。

「神様っているのかな」

「いないだろ」

 僕はすぐにそう言った。神は信じる質では無かった。

「案外いるんじゃないか?世界は信じられないような奇跡で溢れてる」

「もし神様がいるなら、僕は人間を不平等に作らないと思うんだ。十人十色なんて欺瞞さ。例えば肌の色、例えば宗教、みんな同じに作ればあり得なかった区分さ。人間はこの区分で喧嘩をするんだ。それに」

「それに?」

「祈っても救いは無かった。」

「経験者のような口ぶりだな」

 安藤は遠くを見たまま愉快そうに笑っていた。

「まあ、多分、いないんだろうな」

 安藤は続けて言った。

「どうしたんだよ安藤、なんかさっきからお前おかしいぞ」

 安藤は聞く耳を持たずに外を眺めている。あまりに熱心に見ているので僕も視線を外にやった。

そこには息を呑むほど美しい満天の星空が広がっていた。光輝く太陽を隠すように敷かれた漆黒のカーテンは所々に穴が空いていて、そこから漏れでる光は互いに競い合うように激しく存在を主張している。

「わあ」

 僕は思わず口をついた自分の子供のような感嘆の声に驚いた。人は本当に美しいものにであった時に言葉が咄嗟にでないものだ。

「綺麗だね」

 安藤に同意を求めても、彼は何も言わなかった。ただ何かを諦めたような、そんな笑顔で星空を眺めていた。

「なあ、五条」

 少しの間のあと、安藤が切り出した。

「なんで、俺たちは生きてるんだろうな」

 それは彼らしくない、随分とセンチメンタルな質問だった。冗談で笑い飛ばす気にもなれなくて、しばらく考え込む。返事をする前に安藤が続けた。

「俺たちは生きててどれだけの苦痛に逢うんだろうな。俺思うんだ。ただ俺たちは死から逃げるために生きてるだけなんじゃないかって。俺たちはどれだけの辛い目に逢っても、死よりはマシだって自分を誤魔化して生きてるんじゃないのかな」

 安藤は返事を求めていないように感じた。でも返事をしないといけない気がした。病室で息も出来なくなるような痛みに襲われた時、夜中に暗闇のなかで狂おしい程の孤独と向き合った時、それでも僕は死ななかった。窓から身でも投げればすぐに死ねたはずだった。でも僕はそうしなかった。生にはもう期待していないつもりだった。だからといって自ら死のうとは思えずにいた。果たしてそれは僕が死を恐れていたからなんだろうか。

「僕は、僕には分かんないよ」

「そっか」

 安藤は優しく頷いた。彼は依然星空に目を奪われていて、彼の瞳に映る輝きを僕は見ていた。

「でも、でもたまに、生きてて良かったって思う事はあるんだ」

 その言葉は自分でも驚くほどに自然に口をついていた。病室が赤く染まる数十分、その無邪気な時間をいつの間にか悪くないと思っている自分がいた。僕はいつも本を読んでいた。自分でも何故読んでいるか不思議だった。源田さんは言った、芸術とは会話であると。自分は寂しかったのだ。誰かとの会話に、繋がりに飢えていたのだ。僕にとって安藤は。彼が驚いたようにこちらを向く。目があった。それだけで、言わなくても彼は理解しているようだった。

「・・・そっか。」

 おもむろに安藤は立ち上がり、椅子を丁寧に元の位置に戻した。

「どこいくんだよ」

「もういかなきゃいけないんだ。」

「いくなよ」

 安藤はゆっくりと扉の方に向けて歩き始めた。引き留めようとすると、途方もない疲労感が僕を襲って、僕は気絶するように眠りに落ちた。


 

3

 目を覚ますと、見慣れない白い天井が広がっていて眩い人工の光が目を刺した。辺りからは無機質な機械音が聞こえてきて、なんだか呼吸に不便を感じて見てみると呼吸器に繋がれていた。体を起こして辺りを見渡すと見たこともない様々な種類の機械が必死に僕を生かそうとしていた。状況が掴めずナースコールを押すと、慌てて看護師と医者が僕のもとへすっ飛んできた。信じられないといった顔の医者に僕は呼吸器を取っていいか尋ねた。

 五分もしない内に父が来た。急いで来た父の顔は疲れきっていて、血の気を失って白くなった顔に隈が刻々と刻まれていた。

「大丈夫なのか」

 逆に僕が聞き返したいくらいだったが、大丈夫だと返した。

「僕、どうしてた?」

 体調は悪くないのだが、自分の身に何が起こったかが分かっていなかった。

「覚えてないのか?お前は一昨日突然容態が悪くなって、この部屋に運ばれたんだ。医者ももう覚悟しろって俺に言ったんだ。奇跡だよ。まさか助かるなんて」

 父は言いながらはらはらと涙を流しはじめた。

「奇跡・・・」

 父の言葉で安藤との会話を思い出して、無性に彼と話したくなった。

「安藤は?」

 父はその名前を聞くとあからさまに顔を強張らせた。

「それは、お前にお見舞いに来てくれていた子か?」

「うん」

 父は困ったようにまた泣き出しそうな顔をした。

「どうしたの?」

「実は、病院の近くで事故があってな。自転車に乗った男の子がはねられて亡くなったんだ。」

 父はポケットから土で汚れて、くしゃくしゃになった本を取り出した。

「これ、お前のだろう。」

 彼に貸した本だった。それだけで、全て合点がいった。手に取りパラパラとページをめくる。僕はめくるてを止めて読み上げる。涙で声が上ずった。

「『もうけつしてさびしくはない なんべんさびしくないと云つたところで

 またさびしくなるのはきまつている けれどもここはこれでいいのだ 

 すべてはさびしさと悲傷とを焚いて ひとはとうめいな軌道をすすむ』」


                                完


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