挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

ふたしかな俺とかすかな彼女

作者:鯨井あめ
「みなさんこんばんは! 今日も始まりました、“隠された大スクープを探せ! 零し穴”! この番組は、私DJナカヒロが話題のあの人とお話しして、裏話をポロッと落としてもらう、なんとも贅沢な内容となっております。さてさて、今晩のあの人は――、美しい人物画と写真のような背景、そしてシリアスながらも淡く優しいストーリーで漫画界を震撼させた、晩成型の大型新人、日向霊次ひゅうがれいじさんです」
「こんばんはー。日向です」
「日向さんは、30歳を超えてから漫画家デビューなさったいわゆる大器晩成型の漫画家さんですね(少し笑いながら)」
「そうですね(苦笑い)。漫画家の世界ではまだ若い方ですが、デビュー時期は遅れ気味、といった感じでしょうか」
「今の時代、高校生漫画家もいますからね〜」
「若々しいですよねぇ。いや、自分でも、よくここまで粘ったものだと思います。何度か諦めそうになったんですが、頑張った甲斐がありました。周りが若い子ばかりで、話題に乗れず困ってるんですけどね(最後を小さな声で)」
「(わざと聞こえないふりをしつつ笑いながら)漫画が話題になると、多くのテレビ番組でその下積み時代が明かされたり、苦労話が放送されたりしたのは、リスナーのみなさんも記憶に新しいと思いますが……、スタジオゲストの際、いつも表に出てこられるのは日向さんですよね」
「はい」
「でも、みなさんご存知の通り、日向霊次はふたりでひとつのペンネームなんですよね。相方さんは、女性だとか?」
「ええ、まあ。でも彼女はメディアに向かないので、僕が引き受けている形です」
「そうなんですね。気になる話がたくさんあります。私も、今日を楽しみにしてたんですよ」
「ありがとうございます(苦笑)」
「――本日は、日向霊次さんの美しいイラストと緻密な背景、練り込まれたストーリーについて、根掘り葉掘り(笑いながら)聞かせていただきます!」
「よろしくお願いします」
「ではさっそく、作品について――……」



   ▼


家に帰ってくるなり、カバンを床に叩きつけた。
フローリングに傷? そんなもん知るか。敷金礼金でどうにでもなれ。
電気もついていない部屋の中、立ったままでひとまず叫びたい。

「ふざっけんなよおおおお!!」

また読み切掲載り見送りかよおおお!!

続ける前に、壁がドンッと叩かれた。お隣さんである。最高潮に達していたはずの怒りはそのたったひとつの衝撃でボキリと折れて、悲しいことに驚いて小さな悲鳴も出て、気づけば暗闇の中、うっすらと部屋に差し込む外灯、散らかった部屋。沈黙。
沈黙、沈黙。

「……」

お隣の壁に向かって、心のなかで謝罪。

いつもさーせん。

のろのろとカバンを拾い上げ、靴を脱ぐ。妙な肌寒さを感じながら、電気をつけた。
非常によろしくない。この流れは、もはやテンプレとなりつつある。人間、ローテーションを脱するのは困難を極めるのである。
まずは晩飯を変えよう。今日はカップ焼きそばを食べない。あえてのカップラーメンだ。同じようなもん? みなまで言うな。料理する気力がないんだよ。

湯気の上るカップ麺を平らげながら、電気がついてもどんよりしている部屋でため息が漏れた。
――こうやってふさぎ込んだまま美味くも感じない晩飯を食べるのは、いったい何度目だろうか。

「日向さんの漫画はねぇ……いや、ストーリーはいいんですよ? 構成にもセリフ回しにも、目を見張るものがあるんですよねぇ。担当としても、そこはまだまだ伸ばして……いや、そんなずば抜けてすごいわけじゃないから、調子に乗らないようにね、はい。ただ、普通の人にはできないというか、思いつかないというかね、そういう、何? 突拍子もない? うん、そういう感じ? の? 物語? 若さはないから、なんだろう、食らいついていく感じのにじみ出る努力? その成果は出てるんですけどねぇ。勢いもないし初々しさも感じられないし、悪い意味でしんなりしんみりじんわりしてるっていうか。それにいかんせん、画力がねぇ。人物はうまいんだけど……背景がね、悪いとも良いとも言えないぱっとしない感じがこう……すさまじいですよね」

すさまじいって褒め言葉じゃねーの!?
とは、言えず。
対して若くもないのに、やっと漫画家志望という荒波から拾ってくださり面倒みていただけてんだから、こちらとしても「はい……自分もそう思います」としか言えず。というか自分の背景のひどさなんてよく知ってるし、それがネックなのも知ってるし!? うん! 知ってるから! でもどれだけ練習してもなぜか背景はのっぺりとしたままなんだよ! アシスタントに任せる? 任せるアシスタントがいねーよ!!
机の上のこぶしが痛い。力が入っていたらしい。年下の担当さんの言葉を頭の中で反芻するたびにこみあげてくる衝動が、それこそ、すさまじい。ていうかあの担当、シェアハウスの自慢をいちいち挟んでくるのやめてほしい。「この漫画には独り暮らしの設定が多すぎなんですよ。家に帰ったとき、家族でもないのに出迎えてくれる同居人がいるって、なかなか心温まるんです。それを再現しましょう。モデルとして、うちのシェアハウス使っていいんで」うるせーよ嫌だよ誰が使うか!

「あー、止めだ止め。疲れるだけだ。考えるだけ無駄」

右手の力を抜いて、パッパッと振る。
弱ったなあ。今まで生きてきた中で、今がいちばんのピークだ。ストレス、自己嫌悪、後悔、反省、ぐちゃぐちゃになった感情ばかりの暴風雨のピーク。俺は思春期かよ。あ、反抗期なかったから、それだ。

「……ガキだな……」

ラーメンのスープを飲み干した。箸を投げやりに置く。正面に、憔悴した自分が映っている。鏡だ。――この狭い部屋には、姿見がある。姉が無理やり送ってきたものだ。
「あんたは自分の身なりをないがしろにしすぎ」と叱られたのは、就活前だっただろうか。「スーツ着てもちんちくりんなのを自覚しろ。いいもんやるから」と電話口に言われ、家に届いたのが鏡だった時、俺は本気で自分の姉の性格の悪さと、そんな姉を持った姉弟運のない自分を呪った。しかし実のところ、世間でいう姉とはそういう生き物らしい。どこの姉弟も、弟は苦労しているそうだ。
「あたしなんてもう彼氏いるからね、勝ち組だから、勝ち組」という嫌味に歯ぎしりしてから、もう5年弱。その間に姉は就職し結婚し妊娠し休職し出産し仕事に復帰した。今度独立して自分のカフェを開くらしい。旦那は男から見てもイケメンで性格もよく子育てに理解を示し、べンチャー企業の社長で売り上げは上々。
勝ち組、だ。間違いない。俺は姉の嫌味に悔しさを覚えたつもりだったが、その実、それは嫌味でもなんでもなく、ただの事実だったのだ。
姉は成功している。
それに比べ俺ときたら。
……三十路近くなっても芽の出ないすさまじい限りの漫画家の卵(半腐敗)って、社会的に見たらどこに位置してるんだろう。
底辺か。底辺なのか。底辺なんだろうな……。
彼女もいねぇし。
いっそのこと、「もううちでは面倒見きれませんね」ってスパッと切ってくれたらいいのに。宙ぶらりんのまま放置されて飼い殺しにされている気分だ。
いや、その表現はよろしくない。こちらがむしろぶら下がらせてもらっている立場なんだから。ひょいと伸ばされている細い棒にしがみついて、どうにかこうにか夢のために生きているのだから。すべきは感謝だ。
けれど。

鏡のなかの俺は、ひどく疲れ切っている。
夜通し新作を練って漫画を描いて。どれも自信作のはずなのに。ひとつも会議を通らない。
「微妙」「いいんだけど」「パンチが」「なんか違う」「いまいちインパクトがない」「おもしろくないわけじゃない」「でもとてもおもしろいわけでもない」「背景がな」「うん、背景だな」「あと、何かが足りない」「何かが」「なんだろう」「活気?」「生気?」「それだ」
担当から会議での評価を聞いて、正直心が折れた。折れても必死に立て直した。まだいける。まだ頑張れる。まだまだ俺は――。

俺の夢、希望、その他諸々明るい何か。
それらに砕けて失せろと命じているのは、もはや神しかいない。天命か。
従いたくねぇなぁ。諦めたくない。でも、どこかで諦めてる自分がいるのも確かだ。
ああ、お先真っ暗。
そうか。さっきから部屋が暗いなぁと思っていたのだが、どんよりしているのはこの部屋じゃないんだ。西向きだからとか曰く付きだからとか関係ない。絶対、俺。俺がどんよりを着て歩いてる。いや逆にどんよりに着られて歩いてる。もはや存在そのものがどんより。ほのかな闇。つらい。でも知ってた。どうせ俺は負け犬ですよ!!
視界が滲む。天を仰げば意味もなく泣けてきた。いや意味はある。情けなくて泣けてきた。何って自分がな、情けなくてな、こんな俺が……。

「つらい……」

つらいなぁ。
身体も心も重くて、このまま床に埋まっていきそうだ。

「死にそう」

死なないけど、死ぬつもりはないけど、憂鬱度は高くて。叶えたい夢のはずなのに、泥沼の中で足掻いてる自分しか見えなくて。夢を叶えるために死にそうになるってどんなだよ。
本日何度目かのため息を吐いて、空になったカップ麺と箸を持ち上げた。もう深夜だ。馬鹿みたいに浸ってないで、さっさと片付けて風呂入って寝よう。寝て忘れてしまおう。リセットだ。……できるかはどうかはともかく。
立ち上がった。
止まった。

「ん?」

鏡の中、俺の横。
影が、横切った気がした。

「……?」

疲れているのか? 疲れては、いる。
目をこすってみる。かすんでは、いないんだが。

「気のせいか」

大きな影に見えたが、――いや、虫か何かだろう。コバエだ。また両手を構えて格闘せねばなるまい。
ひやり、とした風が首元をかすめた。今日はいちだんと冷えるな。さっきまで残暑で蒸し暑かったというのに。なんつー冷風――……
……窓は、開いていない、はずだけど。
換気扇? は、止まっていて、室内に風が吹く要素なんて、どこにも。
ふ、と空気が揺れる。
かすかな気配。
床のきしみ。

「……だれかいる」

呟いたとたん足元から悪寒が駆け抜けた。全身に鳥肌が立ったのがわかった。背筋が凍りそうに寒い。手が震えた。肺が縛られたように縮む。
やばい。
なんか、なんだ、これ、やばい。何が起こって、

電気が消えた。

「えっ」

すぐに点く。また消える。繰り返し繰り返しチカチカと点滅した。部屋の物の輪郭が妙にはっきりと浮き上がってみえる。暗くなって明るくなって、そのたびに影が部屋中を動き回っているような感覚に陥る。

肩に何か触れた。

「っ!」

知ってる。これは、この感触は、手だ。肩に手が置かれている。
この部屋は、俺の、家だ。
いるのは、だって、俺だけで。

目が回りそうな視界の中、妖しく浮かび上がる鏡の縁。
鏡面が、見れない。
俺が映っているはずだ。俺ひとりが、空のカップ麺と箸片手に、不具合を起こした電灯の下で突っ立っているはずだ。それだけのはず。それなのに、視線が動かない。固まったまま、鏡に横を向いたまま、棒立ちになっている。動けない。

声がした。

耳元で、女の声がした。

ころして、あげる

低く甘く笑いを含んだ総毛立つ声音。笑っている。喉が引きつって悲鳴も出ない。瞬きができない。震える。寒い。

「あ……」

ふふ、と耳朶にかかる冷え切った吐息。なんだよこれ。なんだよ!

鏡のなか、俺を抱くように腕を首元へ回している半透明の女が、血だらけで、ぼさぼさの黒髪の間から瞳孔の開いた目を、鏡越しに、俺に寄越して、俺は、

「ああああああ!!!」

叫びながら女の青白い腕を掴むと、拘束から抜けるためにその場に片膝をつき横を向いて、腰からパタンとお辞儀をした。女は「え?」と腑抜けた声を上げたと同時、折れた腰につられて引かれた俺の腕力に負けて、狭い部屋の中で前転するかのように投げ出される。否、ビターンと背中から没原稿の山に落ちた。

「ぐひッ!」

強制的に押し出されただろう息とカエルのような声。

はあ、はあ、はあ、と響くのは俺の呼吸で、かなり遅れてから、壁がドン!とひと際強く叩かれる。お隣さんもご立腹である。だが許してほしい、こればかりは。
だって。

「決まった……!」

久々に爽快な気分だ。



   ▼


「一昨日発売された短編集を読ませていただきましたよ。日向さんの作品は、イラストからも明るさを感じますね」
「ああ、ありがとうございます。いやあ、昔は性格と合致しない絵柄だって言われてたんです」
「そうなんですか?」
「ええ、実はこれでも結構楽観的に変わった方で、漫画の案が通らない度に死にそうになってたんですよね」
「……やはり、下積み時代は苦労の連続だったんですね」
「自分の実力が認められないのはともかく、自分の作品が認められないっていうのは、表現したい側からすると全面的な否定に感じるんです」
「というのは?」
「自作っていうのは、自分を詰め込んだものなんですよ。一概にそうとは言えないんですが、僕の場合は、もう自分ってものをギュウギュウに押し込んでるんです。そうしないと、個性を器用に出せる周りの漫画家さんに追いつけなくて」
「作品はもうひとつの自分でもあるんですね。芸術系の方って、その傾向が強いですよね」
「表現の世界ですからね。芸術だけでなく、自分を魅せる仕事に就きたい人は、こんな経験あるんじゃないかな」
「友人の一人に作曲家がいるんですが、彼も同じようなことを言っていましたねぇ。全身全霊をかけて、物を作ってるんだって」
「ええ、だからね、漫画を描くことは僕にとって、僕が生きている証なんですよ」
「深いお言葉をいただきました(笑いながら)」
「あはははは」



   ▼


「で?」
「すみませんでした」

正座した黒い長髪に血まみれ白装束の女は、しかし項垂れていた。艶のない長い髪が、泥川の流れのように乱雑に、フローリングに広がっている。

「まさか投げ飛ばされるとは」
「合気道黒帯の姉貴に対抗するためには、俺も強くならなきゃいけねぇだろ」
「あなたも黒帯なんですか」
「いや、挫折して緑だけど。で、誰だおまえは」
「……え」
「え?」

女が顔を上げ、前髪なのか横髪なのか後ろ髪なのかわからない黒い束の間から、血走った眼を覗かせた。一瞬ぎょっとしたが、その目が充血しつつも丸められているのは、……なんだそれは。まさか驚いているのか。

「いや、誰だって訊いてんの」
「え、わからない?」
「わからない」

知り合いではない。俺にこんな家宅侵入を犯すバイオレンスな、もしくはサプライズな知り合いはいない。断言できる。

「どこから入った? ボロアパートとはいえ防犯には気を使ってる。身なりがそんなんだから事情があるんだろうけど、別にこのまま警察に突き出してもいいんだぞ?」
「いや、え?」
「え?」
「は?」

女はひとしきり瞬いた後で、自分を指さした。

「幽霊」
「……うん?」
「幽霊です」
「ゆうれい」
「この部屋の、地縛霊やらせてもらってます」
「じばくれい」
「名前は人間だったときのがありますけど、霊体になったときに生まれ変わったつもりなので」
「れいたい」
「名乗るほどの者ではないって感じで」

ちょっと、待て。

「……うん? なんだって?」

こめかみを押さえる。日頃聞き慣れない言葉は、なかなか頭の中に入ってこない。日常会話で、唐突に英語を使っているようなものだ。昨日の月9よかったですよね特に最後のヒロインの演技! 彼女は今を時めく若手女優で落ち着いていて礼儀正しくて演技はうまくてso beautifulでvery very cute、みたいな。

「yuurei、zibakurei、reitai」
「地縛霊のレイコって感じで、お願いします」
「reiko」
「わたし、この部屋の住人をたたらなくちゃいけないんですよ。地縛霊としての使命っていうか、義務っていうか、なんていうか。この部屋で自殺して、縛られちゃって。ずっとここにいるんです。ノルマ達成しないと解放してくれないんです」
「……解放してくれない? 誰が?」
「部屋が、かな?」
「部屋が?」

なに、ゆえ?
女――レイコはすくっと立ち上がり、ペコリと頭を下げた。もちろん彼女のぼさぼさな髪もバサリと音をたて、のれんのように彼女の前へ垂れる。

「本当にすみません。でもわたし、幽霊なんですよ。で、ちょっと今から呪詛を言うんで、呪われてもらっていいですか? あ、そんな命を削るようなことはしませんから。ただちょっと怖がってもらうだけです。恐怖心を煽って存在を世に知らしめないと気が済まないんですよ」
「気が済まない? 部屋の?」
「わたしのです。怨みたらたらで自殺してるんで。ささ、ほら、さっきの続きしますよ」

スン、と一気に下がった気温、駆けあがる悪寒。ああ、確かにさっきの雰囲気そのままだ。
いやでもちょっと待て。

「ストップ」

片手を女に向けて制する。
彼女の言葉には、聞き逃せない、水に流せないひとつの事実がある。

「つまり、おまえは、ずっとこの部屋にいたと?」

髪の毛がじわじわと浮き始めていた女は、にたりと笑いながらも「そうですね」と丁寧に返してきた。返したあとで、「あ、違う」と焦って、ふっと声のトーンを落とした。

そう、ですねぇ……

「怖い風に言い直さなくてもいい。――俺が越してきてから、ずっとか?」

その前からですねぇ……

「いや待て。おかしいだろ。今まで俺はおまえと同居してたってことか?」

そういうことになりますねぇ……
じゃあ、呪詛はじめま

「ふざけんなよ」

俺はピシャリと言い放ち、女の白装束の首元を掴んだ。口を開きかけていた女が「ひっ」と引きつった悲鳴を上げる。

「じゃあおまえも払えよ!」
「え、はらう? お祓い?」
「違う。家賃」
「やちん」
「おまえも住んでんだろ? 折半しろ、折半。なんで俺だけ払ってんだよ、おかしいだろ。こっちはただでさえ金ないんだぞ。同居人と半分ずつっていうのが筋だろうがよ」
「そうなんですか?」
「そうだろ。常識だ常識。おまえただの居候かヒモだぞ」
「ヒモ!」

突然女が声を荒げるので、思わず襟から手を離した。支えを失った女はその場にぐしゃりと崩れ落ちる。なんだなんだ。

「ヒモ……!」

髪の毛が意思を持ったかのようにうごめき始めた。

「それは! 嫌ですね! わたしはヒモの彼氏に貢いだ挙句逃げられて! やつを呪いながら死を選んだんです! 滅びろヒモ男!」

さっきよりも確実に怨み辛みを含んだ表情で、ギロギロと強くなった眼光を宙に向け、歯をギリギリ鳴らすその姿。まごうことなき幽霊、怨霊である。

「呪ってやる……祟り殺してやるヒモ男……!」

俺もヒモは嫌いだ。

「そんなやつと同じになりたくないだろ?」
「ないですね!」
「じゃあ、家賃半分払ってくれるよな?」
「でもわたし、お金とか持ってないんですよね!」
「ええ~、けどなんで俺がおまえの分の家賃払ってんだよ何度考えてもやっぱおかしいだろ」
「おかしいんですかね?」
「おかしいだろ」
「わたし幽霊なんですけどね」
「でも住んでるんだろ?」
「縛られてます」
「どこで寝てんだよ」
「ここの押し入れですね」
「住んでるよな」
「押し入れには住んでますね」
「押し入れはこの家の敷地内だろ?」
「ああ、じゃあこの家にも住んでるんですね、わたし」
「ハイ折半! 折半! レイコちゃんのー! ちょっとイイトコ見てみたいー! ハイ折半! 折半!」
「ええええ」

若いころのノリを思い出してひとり盛り上がり始めた俺(正直ヤケ)に困惑の目を向けつつ、彼女は「けど、わたし幽霊だし……」とぐずぐず自身の指を弄び始めた。

「幽霊には幽霊のルールがあるっていうか、幽霊の常識があるっていうか」
「そっちのロジックは知らねえよ。俺死んでないし」
「生体じゃない以上、そういう料金は発生しないものだと思ってましたし、ぶっちゃけ今も思ってます」
「でもこのままじゃおまえ、」
「ええ、ヒモはよろしくない」
「よろしくないよな」
「よろしくないです」
「ヒモって呼び方は屈辱的だろ?」
「屈辱的ですね!」
「あげくヒモ女なんて呼ばれてみろ、屈辱的だよな?」
「屈辱的ですね!」
「ヒモ幽霊も屈辱的だろ?」
「屈辱的ですね!」
「じゃあヒモ脱却しような」

ぐぬぬぬぬぬ、とわかりやすく葛藤していたが、レイコは結局折れた。

「わかりました。でもわたし、お金ないし、家賃は無理なので、霊体の範囲でできることやります」

良い心意気じゃないか。

「何ができるんだ」
「物には触れます」
「ちょっと話し合おう」

突っ立ったままだったので、俺はその場に腰を下ろした。



   ▼


「――この短編集を読んでいて感じたのですが、日向さんの作品は、根底の設定がノンフィクションに近い、ですよね?」
「そうですね。リアリティを追求しつつ、その間にちょっとしたファンタジーっぽいものを入れるのが好きなんです。ファンタジーというより、小さな奇跡、でしょうか」
「その奇跡に、ほっと心が温まるんですよね。後半の話は割とホラーでしたが(低い声で笑いながら)」
「ホラーは書いてて楽しいです(含み笑い)。あれも、ちょっとしたことで一気に恐怖度が増しますからね」
「さしずめ、スパイスですね」
「あはは、いいですね、その表現」
「日向さんは作品にスパイスを入れるのがお上手、と」
「料理人みたいだ。――ああ、ただね、あの最後のホラーなんですけど、あれ、実話なんですよ」
「ええっ!?」
「生きてると、幽霊に遭遇したりするんですね」
「実話なんですか……。びっくりですよ……」
「あまり怖い思いはしなかったんですけどね(苦笑しつつ)」
「ネタバレですから、多く語れないのが残念です。みなさん、お近くの書店にてお買い求めください!(笑いながら)」
「お願いします!(笑いながら)」



   ▼


テーブルを挟んで向かいにレイコが座る。長い髪は依然として絡まっており、よくよく見ればところどころだまになっていた。白装束にも大量の血が飛んでいるし、まったく何日風呂に入ってないのだろうか。てか幽霊に風呂って概念あるのか?

「大前提として、まず金銭面での工面は不可能、と」

手元にあった没プロットの裏に鉛筆を走らせる。レイコの視線が、見たことのない虫を見るような目で俺の字を追った。……俺の字は読めたものではないが、生まれてこの方、直せと言われたことはない。先生も親も俺の字を見るたびに「ああ」と真顔で目を細めるもんだから、今まで諦めを感じて生きてきた。

「物に触れるってことは、家事全般はどうだ?」
「料理はやめたほうがいいです。わたしが触れると野菜なんかはすぐ腐りますから。魚も足が猛ダッシュ」
「……」
「……」
「……おもしろくねぇぞ」
「出来心で」
「洗濯、掃除、その辺を頼むかもしれないな」
「掃除」

レイコが部屋を見回した。

「ここを?」

なんて顔をしているのか。幽霊とはいえ、女のしていい表情じゃない。絶望に満たされている。
いや、言いたいことはわかる。俺も、どこに何があるのかわからないし、何が発掘されるのか見当がつかない。ここを掃除しなければと思うたびにげんなりしてしまい、延ばし延ばしを繰り返してやらずじまいだ。

「ああ、もちろん俺もやる。おまえは召使いじゃない。同居人だ。協力してこそだろ、こういうのって」
「詳しいんですね?」
「担当がシェアハウスのルールみたいなのを教えてくれた。癪だけど、覚えておいて損はないと思ってたんだ。まさか役に立つとは思わなかった」
「たんとう、って、時々独り言で愚痴を吐かれているときによく言ってますね」
「げ」

聞かれてたのかよ。
まあ、当たり前か。

「真に受けんなよ。半分は八つ当たりだから、担当は悪くない」
「そうなんですか?」
「全体的に俺の実力の問題なんだよ」
「実力?」

レイコの青白く細い手が、するりと没プロットに伸びる。

「まんが、ですよね?」
「! 漫画を知ってるのか!」
「わたしがいつ死んだと思ってるんです?」
「え、わりと最近?」

ああ、部屋に縛られてるとか言ってたから、彼女が命を絶ったのは、少なくともこのボロアパートができた後か。このアパートは築45年、隙間風がつらいです。

「白装束なんて着てるから、わかりづらいだろ」
「だってこれがいちばん効くんですよ。最近は赤いドレスに赤いハイヒールなんてのが主流らしいんですけどね、わたしはこっちのほうが、古典的かつ安定で、日本古来から伝わる日本人ならではの恐怖心を煽るだろうと思って」
「わかったわかった。幽霊もいろいろあるんだな」
「ネームはあるんですか?」
「え? ああ、ここに」

傍らのネームの束を持ち上げて、テーブルに広げる。別に減るもんじゃないし、どうせ没案だし、見られたところで痛くも痒くもない。というか、字が汚いので読む気が失せる、と担当に言われるくらいの価値しかない。

「ここから1ページだ」

全部広げたところで気がついた。
学生時代、友人に漫画を描いていると打ち明けたとき、そいつは興味津々で漫画について質問してきたが、描き方の話にはならなかった。通常は内容や絵に関心が向くはずで、よほど漫画に詳しくないと、ネームという単語は出てこない。
プロットなら、まだ多くの場面で使用されるが、ネームはさすがにだって……

「レイコさんよ」
「はい?」

鉛筆で書かれたミミズが這うような線のネームに目を通している彼女は、俺にちらり、と視線をよこした。もちろんあの長い前髪の間から窪んだ目を覗かせて。

「もしかして君、漫画書いてた?」

レイコはためらった後、こくり、とうなずく。

「マジで? 趣味で?」
「短期連載」
「連載!? 漫画家なのか!?」
「一瞬だけです」
「雑誌は?」
「ネクストマンデー」
「月刊大手! ま、待て、嘘だろ?」

腰を浮かせた俺は、震える声を抑えられない。

「作画? 原作?」
「どちらも」
「うそだろ」
「ほんとです。けど短期ですよ」
「でも、だって、じゃあなんで、……辞めたのか?」
「まさか。さっきも言いましたけど、当時付き合ってた彼氏がヒモだったんですよ。そいつに貢いでたら借金残して消えやがってあいつ。完結に持っていけてよかったけど、一歩間違えたら作者死亡で連載打ち切りでした。あいつのせいで悔しい恨めしい危なかった許すまじクソヒモ男滅びろ朽ちろ絶滅せよ!」
「しなくていい」
「え?」

俺の一言に、彼女は落していた視線を上げて、俺と目を合わせてきた。淀んだ黒い目で、カピカピの血の気がない肌に、かさついた唇、こけた頬。

「ヒモが、ですか?」
「家事全般。しなくていい。しなくていいから、手伝ってほしい」
「手伝ってって、何をです?」
「背景の作画」

彼女の眉がひそめられた。

「背景ですか」
「頼めるか。俺の夢がかかってるんだ」
「夢とは」
「漫画家になりたい。漫画家になって、俺の作品をこの世に残したい。読者が欲しい。俺の作品をおもしろいと思わせたい。漫画を通して俺を表現したいんだ」
「漫画を通して……」
「ストーリー構成にも気になる点は多いし未熟なのはわかってる。けど、俺の作画から見て、今のジャンルが一番俺らしさを表現できると思ってる。少なくともラブコメや少女漫画のイラストじゃない」
「なるほど。ジャンル的には?」
「青年漫画で、じっとり進んでいく話、とでも言っておく。小説や映画を漫画に落とし込んだように感じる、と初見で担当に言われた。SFやバトルアクションではない。人物画はリアルに近くしている。かわいらしさよりも丁寧な描き込みを心掛けているつもりだ。かわいい線だとは言われるけど」
「苦手なジャンルは?」
「少年漫画の王道やファンタジーは得意ではないが、小物や服を描くことはできる。恋愛要素中心の漫画は、俺の絵だと生々しくなると思う」
「背景が問題なんですね?」
「背景だ。建物は何度も練習したし、写真をトレスする方法を試してみたりした。けどいくら練習を積み重ねてものっぺりしてしまうし、写真加工ではイラストの線とどうも合わない。コツを洗いざらい掴もうとしても意味がなかった」
「よくわかりました」

俺のデッサンノートに目を通した彼女は、凛とした口調で、背筋を伸ばし、乱れていた髪を手櫛で適当に直した。白装束の襟を正し、前髪を横に流して、不健康な顔を晒す。ところがその目元には、うっすらと生気が宿っていた。

「わたしも、漫画は好きだったんです。死ぬ間際に思ったことは漫画でした。今の状態でも、ペンは握れます」
「頼んでも、いいのか?」

レイコは不慣れな様子で引きつりながらも、確かに得意げに笑った。

「わたしは美大卒で専攻は風景画でした。――むしろ、やらせてください」
「ありがたい」
「わたしこそ、……漫画は、わたしの生きていた証ですから。死んでなお関われるなんて、思ってもみませんでした。幽霊冥利に尽きます」
「……尽くのか?」
「尽くんじゃないですか? よくわかりませんけど」



   ▼


「では、くすぶっていた時にたまたま出会ったのが、その相棒さんだったんですか」
「ええ、もう諦めるっきゃないなーと思ってたんです。口に出したり、態度に出していると本当に諦めてしまいそうだったので、心の奥底に封印していたんですけど」
「言霊ってやつですね」
「どうしても乗り越えられない欠点があって、それを改善しないと漫画家として花開けなかったんですよ。苦しかったなぁ」
「その欠点を、彼女が補ってくれたんですね」
「ええ、彼女の協力で、読み切り掲載が決まって、その後トントン拍子で連載が決まりました。こうやって今も漫画を描いていられるのは、ひとえに彼女のおかげです」
「相棒さんとはどのように出会われたんですか?」
「ええ? 恥ずかしいなぁ。別に恋人ってわけでもないし、仕事上のパートナーなんですけどね、出会いってこんなおじさんが語ってもいいんですかね?」
「恋人じゃないっていうのが、すでにくすぐったく感じます(含み笑い)」
「年ですよねぇ(笑い)。でも彼女と付き合うことはないです。半同居みたいな感じですが、そういう関係にはならないですねぇ」
「ええ、半同居なんですか!?」
「仕事の内容上、本当にふたりで作っているので、すぐに話し合えたほうがいいんです。原作と作画でわけてないってところが、漫画界ではレアですからね」
「もう夫婦漫才みたいな響きですよ」
「あはは。――彼女との出会いは、これ以上はちょっと」
「ナイショ、ということで?」
「そうですね。メディアに出てこないくらいですので、ご勘弁を(苦笑)」
「そうしましょうか(朗らかに笑いながら)、――しかし、女性目線が入ったことによって、漫画の方向性やストーリー展開にも改善点が見えてきた、というのは興味深い話ですね。やはり男性目線では見落としがちなところがあるのでしょうか?」
「そうですね。なかなか気づけない機微にも女性は聡いですし、あとは目線の動かし方とか。女性って割と目で語る人が多いんです。彼女もそうです」
「女性は嘘をつくとき、目を合わせてくる、とか言われてますもんね。視線でものを語るのが、我々男性よりも上手なんでしょう」
「目が、ね、日に日に生き返ってきたんですよ。始めは真っ暗な闇だったのに、本当に漫画が好きだったんだなぁと。それを見ていて、ああ、俺――失礼、僕の漫画も心も、もう一度はじまりから生き返らせようって思ったんです」
「?」
「ね、不思議ですよねぇ。人間生きてるだけがすべてじゃないんだ、とか、好きなものがひとつでもあるだけで、こんなふうに輝けるんだ、とか、いろいろ考えてたら、ストーリー構成にも思うところが出てきまして。ストーリーの方向性をちょっとだけ変更したんです。もっと命と奇跡に近い作品を描きたいと思って」
「ああ、だから日向さんの作品の隠しテーマが、“明るい死とちょっとした奇跡”なんですね。死をテーマに置いているのに、なぜか元気づけられるんですよね。読むたびに妙なくすぐったさを感じるんですよ。重いはずなのに軽くて、暗いはずなのに明るいから。ささいな出来事が奇跡に結びついて、ハッピーエンドにつながっていく過程がさわやかですよね」
「ありがとうございます。死と生、真逆の性質を混ぜることで、本来の道が見えるんです」
「ほう? 本来の道、とは?」
「もちろん生命の営みを続けることですよ。人間は生きるために生きているんですから。その足跡、証を残したくて、僕も彼女も足掻いている、足掻いたんです」
「最高のパートナー、といったところですか?」
「ええ。奇跡のめぐり合わせでした。それこそ、ちょっとした人生のスパイスです。――ただ、生きていようが死んでいようが、男は結局のところ勢いですよね(苦笑)」
「あははは、違いないですね(苦笑)」



   ▼


「なんて緻密な背景画なんだ……!」
「そうですか? 人物画と合います?」
「充分だ! むしろ馴染んでる! こんなことってあるんだな……。奇跡だよ……。俺、諦めないで、よかった」
「……わたしも、死んでからも漫画が好きで良かった」
「ふたりで、絶対に連載勝ち取ろうぜ」
「ええ、がんばりましょう!」

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ