僕のヴィーナス
「おい、小峰。これは何だ?」
美術室。彼女は僕の提出した絵を見るなり、険しい視線で僕を射抜く。しかし臆する事はない。堂々と言ってやろうじゃないか。
「タイトルは、ヴィーナスです」
「…………」
黙る彼女。
よしイケる。押し通せ、僕。
「ヴィーナスです」
「…………」
畳み込むんだ! もう一回!
「ヴィ——」
バッシィィイイン!!
その瞬間はまるでスローモーションだった。睨む彼女の瞳には剣呑なものが宿り、それと同時に振り上げられる右手。ゆっくり僕の頬をめがけ、彼女の綺麗な白い手が振り下ろされる。
「——ぷぁっ」
余りの勢いに、体は正面を向いたまま顔だけが横にスパーンと流される。慈悲などまるで感じられない、容赦のない張り手だった。
部長は顔を真っ赤にしながら言った。
「どう見ても、羅衣の私ではないかああ!!」
※羅衣……薄着、際どい衣服
「あ、やっぱバレましたぁ?」
打たれた頬をさすりながら僕はテヘヘと笑い舌を出す。頬はみるみる腫れていく。……くうっ、痛い。
彼女が先ほどまで見ていた4つ切りの画用紙には、水彩の絵の具で描かれた美しい女の人がいる。淡い色彩で描かれたそれは、儚げで妙に艶かしい。上を向いたバストにくびれた腰。あらわになった白い肌は、もう少しというところで布に包まれている。手折った花を見つめる切なげな表情は、僕の最高傑作の中に入れてもいい出来だ。
見紛う事なく、描かれているのは美術部の部長である山百合沙織さんだ。残念な事に僕は絵が上手いのだから、それはもうそっくりに描けてしまった。いやいや、服の下は想像だけどね。見た事はない。
彼女は顔を真っ赤にさせたまま、何かを考えている。そして、口を重たげに開いた。
「私は、文化祭の美術部ブースで展示する絵を描いてこいと言ったハズだ。こんな破廉恥な絵……」
「部長、漠然としてたら書きにくいってからって、テーマ決めましたよね? 僕、テーマに沿っただけなんですよぉ?」
僕は気が強い彼女をこうやってからかうのが好きだ。ニヤニヤしながら彼女の真っ赤になった顔を覗き込む。
「テーマ何でしたっけ、部長?」
彼女は涙目になりつつキッと僕を睨む。ん〜、そういう勝気な所好きですよ、部長。
「…………」
悔しそうに僕を見上げるけど、何も言わない。
「部長?」
意地悪だと分かっていてやる僕の性格は、それはもう素晴らしいものだろう。彼女はまた、僕の頬を目掛けて手をくわっと振り上げた。
——はい残念。そうはさせませんよ。
すんでのところで彼女の手首を掴む。そのままグッと彼女に近づいた。今、美術室には僕と彼女の2人きり。石膏像のおっさん達が僕らを見守るばかりだ。ほんの少し近づくだけで、触れる事ができる。彼女の肌に、唇に、首すじに。
かすれた声でそっと囁く。
「……テーマ。何でしたっけ?」
彼女はいよいよ泣き出しそうだった。ああいいね、ゾクゾクする。ピクっと彼女の口が動く。
「……好きなもの」
赤い唇から、甘い息が漏れる。
「または……好きな、人物」
ふふ。ちゃんと言えるじゃない、部長。
僕はパッと彼女を解放して、少しその場を離れた。例の絵を持ち上げ、ヒラヒラ彼女に見せつける。
「ね、テーマに沿ってるでしょう?」
一歩近づく。
「小峰、それってどういう……」
また一歩近づく。
「僕、大好きなんですよ」
さらにもう一歩。
僕と彼女の距離はまた近くなる。彼女は顔を真っ赤にさせたまんまだ。
「好きなんです、——ヴィーナス」
「…………へ?」
あらぁ。もしかして「部長の事が好き」だなんて言うと思いましたぁ?
「いやぁ、ヴィーナスっていったら有名な女神じゃないですか? 好きなんですよねぇ。いろんな巨匠がモチーフにしている美の化身。そんでもってほら。やっぱり女性を描くには身近な方をモデルにした方が良いでしょ。だから、失礼かと思ったんですけど、部長をモデルにさせてもらいましたぁ。 どうですかね、実物以上に美人でグラマーに描いたつもりなんですけど! 」
彼女はプルプルと震えて下を向いている。
「……こ、」
おやおやおや。さすがにからかい過ぎたかな。
「……こんの、どアホがぁぁあああ!!」
ガバッとあげた顔は般若の如く。部長ったら、せっかくの美人が台無しですよ。平手打ちはもう食らわんと冷静に構えていたら、そこはさすがと言うべきか。今度はスラリとした脚で強烈な蹴りを入れてきた。
「へぁっ」
情けない声を出してしまったのは、彼女の蹴りがクリティカルヒットしてしまったのだ。どこかは察してほしい。
その場で僕は崩れ落ち、なおも彼女から罵倒と凄惨な蹴りを受け続けた、ある日の午後だった。
◇
文化祭当日。美術部の作品が並ぶ、ブースの一角。それぞれに力作が並んでいるが、特にその中の1つの作品に視線が集中した。くくっと笑って、僕は彼女がこの場にいたらと想像した。きっと照れたような表情をしていたに違いない。ツンとすましたような雰囲気だけど、実にからかい甲斐のある人だ。せいぜい、彼女が卒業するまでいじり倒してやりますよ。
そんで僕は誓う。
まだ「好き」なんて言ってあげない。
僕の、他の人達の、視線の向こうには。
僕の描いた絵よりも、もっと大きくて、もっと素敵な絵が飾ってある。
タイトル「仲間」
部長を覗いて全員で4人の美術部員達が、一心に皆で絵を描いている構図だ。しっかりとした遠近感に、詳細に描き込まれた人物達。皆楽しそうに絵を描いているの伝わってくる。大胆な色使いは彼女ならでは、だ。
こんなに良い絵を描く彼女が妬ましい。イタズラくらい良いじゃないか。僕の胸の内の葛藤に比べたら可愛いもんだよ。改めて部長の絵を見る。……この絵、僕が1番面積を占めているんだけど、これはどう受け取って良いんだろうか……。
体から力が抜けた。座っていた椅子からずり落ち、顔に熱が集まってくる。きっと耳まで真っ赤だ。心臓はにわかに走り出す。思わず両手で顔を押さえた。あー、僕ってカッコわる。
「くそ……」
また今日にでも彼女をからかってやろうと決意した。だって僕ばっかりズルいじゃないか。彼女と、彼女が描いていた絵を初めて見た時から抱いていた感情だ。ぜったい、ぜったい追いついてやる。その時までは何が何でも好きって言わない。せいぜい僕におちょくられていればいいさ。
ちらりと自分の描いた絵を見た。
切なそうなその瞳が、僕の心情と重なった気がした。
◇
後日譚だが、一部の男子から俺のヴィーナス像は大変好評だった。みなこっそり僕に、好きなあの子を描いてくれ、憧れのこの子を描いてくれと頼んできたのだ。中には僕の描いたあの絵が欲しいと言った奴や、部長を描いてくれという厚かましい奴も少なからずいた。そういう不届きな輩には、マッハかつ繊細に描き上げた、俺と部長がいちゃいちゃしている絵をプレゼントしてあげた。みんな震えるほど喜んでいたぞ。あーはっは、いい気味だ。
ちなみにその絵が部長にばれて、めちゃくちゃ怒られることになる。苦しくも言い訳をしたが、つい悪い癖がでてしまった。
「グスタフ・クリムトの『接吻』、僕版です。構図一緒でしょ? なんなら再現してみます、この場で。ほら遠慮しな——ふぐぅっ!」
強烈なボディブローを頂いたのは良い思い出だ。
彼女が卒業するまであと5ヶ月。それで間に合わないんだったら長期戦だって厭わない。見てろよ。
絶対追いついて、「好きだ」って言ってやる。
小峰君、屈折しまくりです。
以下、突如始まった謎の美術解説な後書きです。見なくて全然おっけー。しかも多少イヤンな内容含みますので、嫌いな方はご注意ください。
◇
作中の最後にも出てきました画家、グスタフ・クリムト。彼の描く絵は当時、非常に衝撃的でした。一部からは拍手喝采大絶賛、また一部からは轟々批判の嵐。そんな彼の作品はダークとエロス(愛)がたっぷり詰まった魅惑的な作品が数多し、です。
そんな彼の作品の1つに「ダナエ」という神話をモチーフにした裸婦画があるのですが、これがまたスゴい。頬を赤らめた赤毛の女性が、うずくまって瞳を閉じ、そばに振るのは金色の雨。これは主神と愛人の密会を描いた作品です。
※この当時、絵画においてイヤンうふんな表現は禁止されていました。教会が目を光らせていたんですね。しかしそこを果敢に攻めたのが、かのクリムト氏。この「ダナエ」、見ようによってはイヤンな感じになります。なりますっていうか、細部を読み解くと、もうイヤンの塊です。当然周りは困惑します。
「これアカンやろ……」
しかし、彼は言い張りました。
「これは神話です(真顔)」
直接的な表現は無いし、神話だからええじゃろ。と訴えた訳ですね。表現の自由をぶん取りました。
このエピソードを作中に取り入れたかったのですが、肝心の記述をどこで読んだかさっぱり覚えていない。図書館の持ち出し禁止コーナーだったか? 大きな本屋さんで立ち読みしたのか? 調べようにも行き詰まってしまったので、確認のしようもない。ウソをお届けする訳にはいかないので、残念ながら掲載は諦めました。なので※の記述も「あー、玉三郎がなんかテキトーな事言ってんな」位に思っておいてください。そして「ダナエ」や「接吻」が気になる方は今すぐ検索です!
ちなみに主人公・小峰が、美術部の友人にその話を聞く、ヴィーナスと言い張り思う存分部長を描きまくる作戦を思いつく、という流れでした。
それでは、お読み頂きありがとうございました!