第5話 竜の力
・・・
竜盤院との邂逅。驚愕の事実と、差し迫る事態。
結局俺は、彼らの提案を受け入れるほかなかった。
他国に攻め込まれているのは現実で、それをどうにかしないといけない。
相手に竜が味方するなら、こちらも竜を使うしかない。
それには、俺がやるしかない。俺にしかできない。
悠長に考える暇もない。この瞬間も侵略が続いている。
選択肢は最初からなかったのだ。
俺が一言「分かった」と言えば、そこで話し合いは終了した。
シルトも、俺の決断には口を出さなかった。
話が終わると、竜盤院の面々は俺達が来た扉とは別の扉から甲冑騎士を引き連れ退室。
残ったのは俺、シルトと、俺の両脇に座っていた男女。
話し合いの間、一切声を発しなかったその男女は、他の人がいなくなると、俺に一緒に来るように願い出た。
戸惑った俺だが、シルトがこの2人は信頼できると言うので、彼らに従った。
シルトが共に来るのは都合が悪いそうで、竜盤院の部屋を出たところで彼女とは別れた。
結果、俺はよく知らない女性と男性に引きつられ、また城を移動することに。
護衛の騎士も付いてきていない。
「大変でしたね。王子」
柔らかな声で労いの言葉を掛けてきたのは、垂れ目に泣き黒子の女性。
竜盤院での話し合い中、終止声を発することのなかった俺の両側に座っていた男女。その片方。
フラン・リオテカル宮廷伯爵。
宮廷魔術師筆頭でもあるこの女性が、俺を先導して廊下を進んでいる。
「おい、言葉には気をつけろ。この方は次期国王陛下だぞ」
リオテカル宮廷伯と並んで俺の前を歩く短髪眼鏡の男性。
ソーン・バオム。同じく宮廷伯爵。
彼は王城に仕える文官をまとめる総長らしい。
2人からは竜盤院を出てすぐに自己紹介された。
「そうね。ごめんなさい」
ニコニコ笑いながらリオテカル宮廷伯が謝ってくる。その柔和な印象は、黙りこくっていたときとは大違いだ。
「あの、すいません」
遠慮がちに質問する。
「これはどこに向かってるんですか?」
「玉座に、向かっています」
教えてくれたのはバオム宮廷伯だ。
「正確には玉座の奥ですが」
玉座の、奥?
「すぐに分かりますよ」
不思議そうにした俺を見て、リオテカル宮廷伯が言う。
「リオテカル宮廷伯、バオム宮廷伯、なぜ御2人は先ほどの話し合いでずっと黙っていたのですか?」
俺の言葉を受けて、前を歩く2人は顔を見合わせる。
面白そうに微笑むと、リオテカル宮廷伯が明るく言い放つ。
「嫌われているんです、私達」
「え?」
「それはもーすごい嫌われようで、発言なんて許されてないんですよ」
予想外の理由を打ち明けるリオテカル宮廷伯の横でバオム宮廷拍が何度も頷いている。
「あっ! それと私のことはフランとお呼びください。敬称もいりません」
「私も、ソーンでお願いします」
「はぁ…」
この2人、やけに親切というか、優しい。
竜盤院にいた他の5人は高圧的だったりふざけていたり、あまり良い印象ではなかっただけに逆に不自然に見えてしまう。
「フラン、さん。嫌われてる理由をお聞きしても?」
「ええ、もちろんいいですよ。それはズバリ、私達が王子の味方だからなのです」
フランさんは誇らしげに胸を張る。
「おれ、じゃなくて、僕の味方だと嫌われるのですか」
「ふふっ、畏まらないでください。王子は私達より身分が上なのですから、楽な言葉で結構ですよ」
相手は大人で貴族。夕方まで平民で学生だった俺に気軽に話せと言われても。
「王子は竜盤院の役割をどう認識しておられますか」
代わって、ソーンさんが説明を引き継ぐ。
「王の相談役、ですよね。王が為す政治や軍事で助言を出したり、実務を補佐したりする」
「はい、正解です。一般的にはそう言われていますね」
つまりは、実情は違うということだ。
「表向きは王族を手助けする組織で、各方面に顔が利く貴族が集まり、王の為政を裏から支えています。王族に近しい立場なので有する権力も大きいですが、竜盤院に相談役以上の力は与えられていない、とされます。事実、発足当時はその通りの組織でした」
かつてエストラークが竜という強大な武力を手にした際、それを扱う王が暴走しないように竜盤院はつくられた、とユリーが教えてくれたのを思い出す。
「しかしながら残念なことに、現在はその在り方は歪んでいます。長い歴史の中で竜盤院の影響力は拡大し、王族でさえ無下にできなくなりました。王の指針を片手間に却下し竜盤院で考えた政策を王に無理やり実施させることもできるほどに」
「つまり、竜盤院の力は王様と同等以上になっちゃってるってことです」
フランさんがざっくりまとめてしまう。
口を挟んだフランさんを一瞥し、ソーンさんが続ける。
「王に匹敵する権限を持った時点で、竜盤院に遠慮はなくなりました。彼ら自身に国を導いている自負のようなものが芽生えたのでしょう。あからさまに王族と対立し、自分達の望む国造りを行っています」
他国とだけでなく、王城内でも争いが起きているとは、頭を抱えたくなる。
「殿下、お気を悪くせずにお聞きいただきたいのですが…」
急に言いづらそうにするソーンさん。
「はい、もう色々聞いてますし、全て教えてください」
俺が良いと言ってもソーンさんの顔色は優れないままだった。
「さきほど、竜盤院で、オルタ様の逝去に伴う動揺が一切見られなかった理由は、彼らにとって王とはその程度の存在だからです。いてもいなくても国を動かすのは自分たちだと思っていますから」
竜盤院でのやりとりを聞いて気分が悪くなったのは間違いではないらしい。
「むしろ、喜んでいるでしょうね」
悔しさを感じさせる声を出したのはフランさんだった。
ソーンさんも表情を雲らせ、フランさんを見ている。
「オルタ陛下は優秀な方でした。竜盤院に物怖じせず、自らの意思を貫き通して、彼らの暴挙を許さない」
フランさんは無理してつくった笑みを俺に向ける。
「王子のお兄さんは、素敵な人でしたよ」
彼女から、兄さんの死を悲しんでくれているのが伝わってきた。
「だからこそ」
と、ソーンさん。彼もまたやりきれない表情をしている。
「オルタ陛下の死は竜盤院にとって都合が良いはずです」
優秀で、竜盤院の言いなりにならなかったから、死んで喜ばれている。
なんだよ、それ。
怒りにも似た感情が湧きあがる。
「最初の殿下の質問に戻りましょう。なぜ私とリオテカル伯が嫌われているかですが、お分かりになりますね」
2人から話を聞いて、なんとなく分かった。
「王族と敵対していると言っていい竜盤院、その中で親王族派のお2人は立場が低いんですね」
俺の出した答えにフランさんとソーンさんは困ったように笑ってみせた。
「はい。私は宮廷魔術師筆頭として、ソーン君は文官総長として立場を確立しているので、なんとか竜盤院に残っているという状況です」
申し訳なさ気なその言葉。
「貴族の地位も、竜盤院での発言力も低い…情けない味方でごめんなさいね」
彼らとは出会って間もないけど、シルトの言っていた通り頼りにしてもいい人たちだと俺は感じた。
「殿下、到着しました」
ソーンさんが言って、ひときわ大きな扉の前で足を止めた。
階段をいくつも上がり、廊下も随分歩いた。窓から外を見れば、アンラスの街が一望できる高さだった。
「ここは王城の最上階にあたります」
扉の前にいた近衛騎士はソーンさんたちが合図を送ると扉を開けた。
玉座の間にふさわしい巨大な部屋。扉から続く紅い絨毯と、その先には王のいない座が佇んでいる。
ソーンさん、フランさんはまっすぐ部屋を進み、玉座の前で一度止まると深く礼をする。
3段ほど高くなった玉座に登って、さらに後ろの壁まで歩みを進める。
壁にはエストラークの紋章が描かれた織物が掛けられていた。
「この奥が目的地ですよ、王子」
フランさんは言うが、どう考えても壁で行き止まりだ。
おかしそうに笑ってから、フランさんは織物に手をかけ、持ち上げてみせる。
そこには、さらに奥に続く通路が存在していた。
玉座に裏手にこんなものが存在するなんて思いもしない。
「行きましょう」
促され、フランさん達に続く。
通路そのものは短いもので、少し歩くと開けた空間に行きついた。
「これを王子にお見せするために、来ていただきました」
そこには―。
・・・
再び待合室に戻った俺を待っていたのはユリーの抱擁だった。
彼女にこんなに抱きしめられるのはいつぶりだろう。
昔はよくこうしてくれたけど、いつからかしなくなっていた。
ユリーは無言で、痛いくらいに俺を抱きしめる。
「苦しいよ、ユリー」
弱く抵抗してみせても、ユリーは離してくれない。
「アミリエ殿、そろそろ」
同じく待合室に戻っていたシルトもユリーに声をかける。
でも、効果はない。
その一度で無駄と悟ったのか、シルトは何も言わなくなった。
どうやらユリーは、俺がどんな話を聞き、どんな決断を迫られたのか知らされていて、心配で仕方がなかったらしい。ほんとユリーは俺にとことん甘い。
ユリーの気の済むまで、俺は抱かれているしかなく、シルトも静かに見守るしかなかった。
俺を開放した後のユリーは難しい顔をして、話を聞くように言う。
ユリーは俺やシルトに比べ、より詳しい情報を得ているそうだ。
卓を挟んで向こうの長椅子にユリーとシルトの2人が、そして俺は1人で長椅子に座る。
「グランレイ侯爵の元、軍の再編が進められています」
ユリーがまず話題に挙げたのは、戦争に向けての準備の話だった。
「視察団壊滅と北部国境基地陥落に伴い、多くの兵士が死にました。そのあたりの補充と、来るシュテルフェア迎撃に向けて隊を編成しています」
「シュテルフェアへの対応はどうなってる」
「シュテルフェア本国へは特使が派遣され、侵略軍に対しても進軍を止めるよう警告を出しています。が、動きに変化はありません」
それは穏便に終わらせるつもりはないということ。せめて攻め込む理由くらい通達してほしいものだ。
「竜がいる可能性を識慮し、不必要な戦いはしない方針です。シュテルフェア軍の進路にある村々には避難を呼びかけ、駐屯施設も破棄する決定がなされました。ただし、理由は危険な魔獣が接近しているため、としていますが」
さすがに真実は教えられない。王が殺され、国境基地が落ち、他国が侵略、なおかつ竜まで引き連れてるなんて言ってみろ。一気に大混乱だ。
王が不在の中、適切かつ迅速な対応がなされているのが竜盤院の指揮のおかげというのは複雑だけど。
「勝負を仕掛けるのはこっちも竜を呼びだしてから、か」
「そもそも竜と竜が戦ってどうなるかは前例もなく判断できません。ですが、早い段階でエストラークの竜が負ければ、残ったシュテルフェアの竜にこちらは簡単に蹴散らされるでしょう」
「とどのつまり、勝つも負けるも竜次第ってことかよ」
運頼みもいいとこだ。
「すぐに竜の戦いが終わらなかった場合は、その隙にシュテルフェア軍への攻撃を開始します。竜さえおさえておけば戦闘事態は問題なく行えますから」
「敵の規模はどの程度なんでしょうか」
ここでシルトが訊く。
「人数的には小規模と言っていいだろう。シュテルフェアは軍事大国ではないが、それでも他国を攻め落とすには心許ない兵士の数だ。おそらく、兵力のほとんどは本国に残っているものと推測される」
シルトに対しては教官の口調でユリーが答えた。
軍事大国と言えば東のインラハトや西のヴァルツァレンが思い浮かぶ。
そこに比べればシュテルフェアの軍事規模は小さい。
そんな国の、非常識な人数での侵略行為の理由など1つしか思いつかない。
「竜がいるから怖い物なし、とか思ってるのかな」
人数が少なければ、それだけ行軍速度は速くなる利点もある。
「断言はできませんが、可能性は非常に高いですね」
竜の力は強大だ。俺という存在が残されているからエストラークはまだ反攻の意思を持つことができている。だが、王の血が絶え竜の力を失っていたら、碌な抵抗もできず滅ぼされるはずだ。
「国民に混乱は? いくら村人への避難理由を魔獣のせいにしても、どこからか真実が広まってもおかしくはないだろ」
「今のところ混乱はありません。長らく平和が続いた我が国ですから、どこからか噂が広がっても、にわかには信じがたいでしょう」
言ってからユリーが辛そうに顔を歪めた。
「時間が経てば具体的な噂が流れ、混乱が起きてしまいます。…そのため、レン様には明日中に首都を出発していただきます。魔獣討伐の名目で軍が出立しますので、そのとき騎士に扮していただき御一緒に…」
出発は明日。具体的に聞くと、心臓がバクバクしてきた。
「騎士に扮して出発というと、レンの存在は隠して攻めるのですね」
「殿下だ」
「えっ…」
「殿下とお呼びしろ、フランメル。ここは学校ではない。お前もレン様への態度を改めろ」
シルトの俺への呼び捨てを、ユリーは許さなかった。
「俺はレンのままでもいいよ。今更、畏まられても変な感じするし」
「ですがレン様」
俺は構わないと言っても、ユリーはなお食い下がってきた。
「けじめは必要です。王位に就かれる貴方が、かつての学友と言えど名前で呼び捨てにされるというのは示しがつきません」
「別にいいと思うんだけどな。シルトにはこれまで世話になってきたしさ」
「それでも、です」
頑な姿勢をユリーは崩さない。
「いいですかレン様、今日から貴方は生まれ変わるのです」
幼かったいつか、聞いたことのある言葉だった。
「私は、レン様が本当の名前を取り戻せることを嬉しく思っています。ですが反面、過酷な境遇に立たされることに不安も抱いています」
ユリーは苦しそうな表情で、ジッと俺と見つめる。
「私は貴方を守りたい。レン様のため、身も心も全て捧げてお支えしたい。ですのでどうか、私の言葉を聞きいれてください」
正面から見つめられると、小さいことから一緒にいる所為かユリーに逆らえない感情が湧きあがってくる。
対応に苦慮する俺を差し置き、答えを出したのはシルトだった。
「殿下」
シルトは聞きなれない言葉で俺を呼び、立ち上がると、椅子の前からずれてから床に膝をつけて頭を下げた。
「御無礼を、お許しください」
それは、王に対する臣下の所作だ。
「え…あ、ああ…」
自分の中では決着がついていないのにシルトが態度を変えてしまい、戸惑う。
シルトを止めることもできす、ユリーに言い返すこともできず。
何も言えぬまま、シルトは椅子に座り直し、話は再開されてしまった。
「先ほどのフランメルの疑問に答えよう。シュテルフェアは我々が竜を呼べないと油断している。奇襲、ではないがレン様の安全を確保する意味合いも兼ねて、レン様には開戦まで騎士の1人として行動していただく計画らしい」
「計画の立案はグランレイ侯爵ですか?」
「そうだ。いくらかは竜盤院の意見もあるだろうがな」
ユリーとシルトが何もなかったように話を進めてしまうので、慌てて俺も気持ちを切り替えて話に参加する。
「俺は軍の指揮なんてできないけど、そのあたりは?」
「信頼のおける指揮官が呼び集められています。レン様は竜を呼び出されたら、安全な場所で戦況を見守ってください」
できることが竜を呼ぶだけというのは自分事ながら情けない。
それに、竜を呼ぶこと自体できるかも分からない。
伝承によれば竜剣スクラージが存在する限り竜との契約は継続されるらしいが、もう二百年近く竜を呼びだしていないのだ。
竜との契約が『自国防衛にのみ力を貸す』というもので、平和な世では呼ぶことが叶わず、かつて呼んだ、という歴史だけが残っている。
直接契約を結んだ王が竜を呼びだした歴史はあっても、それ以降の王族が竜を呼びだした記録はない。
「俺に、できるのか?」
つい弱気になって、問いを投げかけてしまった。
ユリーがどう答えるかなんて分かりきっているのに。
「できますよ、レン様なら。絶対に」
・・・
日が変わっても、前日から続く雨は弱まることはなかった。
分厚い曇天が空を多い、街には影が広がっている。
夕刻。
王城から魔獣討伐の名目で軍が出発した。
これまでにない規模の軍に、街の人々は不安な顔をしている。
俺はそれを馬上から眺めていた。
防雨用の外套を羽織り、頭巾を目深にかぶって、顔を隠し軍に紛れている。
顔を伏せていても、俺達を見る街の人々の顔がたくさん目に入ってくる。
漠然と、彼らを守らなければ、と思う。
俺にも王族としての心みたいなものが残っていたのだろうか。
意味のない自問だ。
俺は王族に戻り、やらねばならないのだから。
雨が身体をうつ。軍服は濡れて、少しだけ寒い。
首都アンラスを立つと、行軍速度は一気に上がった。
多少無理をしても、シュテルフェア軍と早期に決着をつけるためだ。
必要最小限の休憩を挟みながら馬を駆ける。
目的地までは2日を要した。
だだっ広い平原を見渡せる丘陵に陣地を築いて、シュテルフェアを待ち受ける。
戦闘を前にして、一時の休息をとる余裕は誰にもなかった。
戦争と呼べるほどの大規模戦闘はもうずっと起きてはいないのだ。
興奮や緊張、恐れといった様々な感情が渦巻いている。
大勢の人が集まっているというのに、陣地は嫌なほど静かで。
きっとみんな、心が休まることはなかったと思う。
半日ほどして報告が入る。シュテルフェア軍が間もなく現れると。
即座に隊列が組まれて、臨戦態勢が敷かれた。
隊の先頭には、俺。
騎士服や外套は脱ぎ去り、服装は王族の軍用礼服。腰には竜剣スクラージ。ここまで近衛騎士たちが隠して運んできた。
天幕から近衛騎士に囲まれた派手な格好の俺が出てきたとき、事情を知らない者たちは大層驚いていた。
兄さんたちが殺され他国が侵攻中。竜もいるが対処する手立てが存在する。ざっくり言えばそんな程度しか情報をしらない兵士が大半で、説明には時間がかかった。
まぁ、説明したのは近衛騎士たちで、俺は黙ったままだったのだが。
竜を呼べる王族がまだ存在した事実は、多少なりとも兵士に希望を与えたのかは分からない。
戦闘開始を前に皆、顔は緊張で固まっていた。
天候は若干改善している。雨雲は空を覆っているが、雨は降っていない。
頃合いをみていた近衛騎士が合図を出す。
「殿下、お願い致します」
言われて、俺は竜剣スクラージへと手を伸ばす。
あの玉座の裏の隠し部屋で、永久に使われることのないよう幾重にも鎖に巻かれ、楔を打ち込まれていた竜剣。
それを俺は鞘から抜き、天へと掲げた。
白く輝く刃は戦場には不釣り合いなほど綺麗で、戦場にあることを責められているようだった。
頭の中に、いろいろな人の顔が浮かんでくる。
今回同行を許されなかったユリーとシルト。城を出るまでに、たくさん俺を心配してくれた2人は、今も俺のことを考えているだろうか。
学校の仲間たちは今、何をしているのだろうか。
兄さんは、この状況をどう思うだろうか。
エルンとは、また2人で歩くことができるのだろうか。
迷いに呑まれる中、最後に見えたのは竜盤院での風景。「あなたがやるしかない」という、言葉。
そう。もうやるしかないんだ。
俺は強く息を吸い込む。
そして、教えられた通りに、言葉を紡ぐ。
「我がエストラークを守りし竜、スクラージよ! 契約に従い力を与えよ! 故国を汚す仇敵を打ち払え!」
竜を呼びよせる口上を述べる。
「……………」
特になにも起こらない。
雷鳴が轟いたり、眩い光が発生したり、いわゆる『それっぽい』現象はない。
湿った空気を運ぶ風が戦ぐだけ。
「…これで大丈夫なのか」
「はい。竜はドナール山から竜剣を目印に戦場へと駆け付けるとのことです。この距離ですと、わずかながら時間がかかります」
無敵と言われる竜も、離れた場所に一瞬で移動するのが不可能だというのは不便だと言わざるを得ない。
そのあと、どれだけ待ったのか。
時間の感覚が正常に掴めない精神状態の中で、何もせずただ待つというのはそれだけで怖いものだった。
「殿下」
と、傍に控える近衛騎士が呼ぶ。
近衛騎士は指し示す平原の先に目を向ければ、いくつのも小さな黒い影が近づいてくるのが分かる。
「シュテルフェア軍です」
遠見の魔術で影を確認した魔術師が、報告する。
「敵軍捕捉! 敵軍捕捉!」
近衛騎士の大声が軍に響き渡る。
相手が現れた方角的に、北部国境からまっすぐ首都アンラスを目指しているのだろう。
俺達が待ち受けていることなど意にも介していない。
強者の余裕だ。
のんびりとでも言えそうな速度で向かってきたシュテルフェア軍は、俺達からいくらか離れた場所で止まった。
おそらくは向こうからも丘の上にいる俺達を視認できたのだ。
こちらは近衛騎士の号令のもと、剣を抜き、杖を構え、開戦に備える。
しかし、シュテルフェアは動きを止めただけで、剣を抜く素ぶりも見せない。
「来るなら来いと、言っているようですね」
近衛騎士が言う通りだと俺も思った。
竜のないエストラークに勝ち目などないと思い込んでいる。
この曇天では、雲の上にシュテルフェアの竜がいても分からない。
「出会い頭に攻撃されなくて良かったな」
「大丈夫だと思われます。向こうからすれば、我々は怯えて動けずにいるように見えるでしょうから、滑稽だと笑っていることでしょう」
・・・
「ふんっ! やはり動けんか。竜頼みのエストラークの臆病者どもめ」
国境線を越えて数日、やっとまともな軍のお出ましかと思いきや、丘の上に陣取り動く様子は見られない。
それもそのはずだ。やつらの王は排除済み。竜の恩恵を得ることはできない。
これまで竜の威光でやってきた国など、竜さえいなければただの弱小国だ。
「大将、どうします」
部下の1人が訊いてくる。
「やつらが動くのを待つぞ。せめてもの情けだ。逃げるくらい許してやろう」
私の言葉に、部下たちが賛同しつつ笑う。
私達に怖いものなどない。
厚い雲の上には、最強の護衛がいるのだ。
攻めてこようとも、瞬きの内に焼き尽くしてやろう。
エストラークが落ちれば、我らが母国の名は大陸中に知れ渡る。
自国防衛などという愚かな契約と違い、こちらの竜は他国侵略を行える。
シュテルフェアが大陸を統一することも夢ではない。
本当に笑いが止まらん。
二月前、とある山脈で竜が目撃され、その調査に向かわされた際は自分の運のなさを恨んだものだが、待っていたのは竜との戦闘ではなく、竜との契約という偉業であった。
王からは膨大な恩賞を受け、軍部の頂点に挿げ替えられ、私の人生は一変した。
だが、これで終わりではない。
竜の力を使えるのは俺だけだ。誰も俺に逆らえない。
俺の存在がシュテルフェアで大きくなれば、王になることも不可能ではない。
気まぐれで俺と契約してくれた竜には感謝せねばな。
「たっ、大将!」
物思いにふけっていると、部下が慌てたように私を呼んだ。
「どうした一体」
「あ、あれです、向こうの空からっ、何か来ますっ」
「ん?」
部下が示すのは、エストラーク軍のいる方角の空。
私には雨雲しか見えない。
「何も見えないぞ」
「よく見てください。確かに何かが近づいています」
あまりに騒ぎ立てるので、他の部下たちも何事かと不安がっている。
「不必要に軍気を乱すのは関心しないぞ。まったく」
部下を黙らせるためにも、もう一度向かいの空を凝視する。
やはり黒い雲が広がるだけで、特におかしなものは見えない。
そう思っていた私の視界で、動くものを捉えたのはすぐのことだった。
黒雲に一点、白が存在する。
白い、鳥? …いいや違う! この距離で見えるってことは相当でかい。
「魔術で確認しろ!」
「はっはい」
あり得ない可能性が頭に浮かぶ。
ふざけるな。
ここまで来たんだぞ。
それなのに―。
「りゅっ、竜だっ! 大将、あれは竜です!」
魔術師の悲鳴にも似た喚声に部下たちが急にざわめきだす。
「竜だって!?」
「そんなわけないだろ! エストラーク王は死んでるんだぞ!」
「どういうことだよ! 聞いてないぞ!」
「大丈夫なんだよな? 俺達、負けないんだよな?」
口々に好き勝手なことを言い始める。
今の今までエストラーク軍を嘲笑っていた者たちとは思えない。
「落ち着け!」
怒号を飛ばし、部下たちを黙らせる。
「なにをうろたえている。向こうに竜がいるからなんだ。こっちにも竜が付いているんだぞ。恐れることはない」
内心は、予想外の出来事に戦々恐々としていたが、部下たちを鼓舞するために態度は変えない。
俺たちは、もう戻れないのだから。
すでに目視で竜の輪郭が分かるところまで接近されている。こちらもやるしかない。
「エストラークの老弱な竜など、我が最強の竜で滅してやろう!」
背に掛けていた長大な剣を引きぬく。竜より賜った契約の剣だ。
「黒竜ゲダイエン! 迫る敵を殺せ!」
竜剣を前方に掲げて命令を下す。
上空で追随していた黒竜が雲を割って姿を現し、白竜も、エストラーク軍も、殺し尽くす。
そう、なるはずだった。
「…大将?」
部下が震える声で私を呼んだ。
その声以外は静寂。
「どうした! ゲダイエン!」
もう一度、竜を呼ぶ。
それでも、静寂が続く。
竜の咆哮も、翼の羽ばたきも聞こえない。
竜の気配が、感じられない。
「どっか、いっちゃったんですかね?」
「そんなわけあるか! 俺は隊の上空に待機するよう命令してたんだぞ!」
俺の命令を無視して、勝手にいなくなってたまるか。
「ひっ、ヒィェ!」
誰かが奇声を上げた。
エストラークの白竜の羽根音が、私達に届き始めた。
丘の上に陣を組むエストラーク軍を飛び越え、私達に向かってくる。
駄目だ…、と本能的に感じてしまった。
竜と契約したとき感じた全能感。その対極。
決して敵わぬ存在を目の前にした絶望感。
黒竜ゲダイエンと対面したときに感じた恐怖を、今、思い出す。
なぜ、俺の竜が現れないのか。その疑問をゆっくり考える時間もないだろう。
もう、白竜は眼前に迫っている。
白竜の息遣いさえも聞きとれてしまう。
ふと周りを見ると、部下たちの姿がない。
振り返ってみれば、全員が逃走を始めている。
「愚かだな…」
無駄なことを、と呆れてしまう。
逃げられるわけがないだろ。相手は竜だぞ。
白竜の口腔から、閃光が漏れ出している。
竜が息吹を放つ前兆だ。
「ふっふっふっ…」
王になるなんて、私には過ぎた夢であったようだ。
やはり、竜の調査に選ばれたのは、運がなかったせいだったか。
竜と契約などしなければ、こんな他国の地で死ぬこともなかった。
俺も…愚か者だったな…。
そこまで考えたところで、眩い息吹に俺は飲み込まれた。
・・・
「どういうことだ…」
目の前で、人が死んでいく。
抵抗もできず、竜の息吹に飲み込まれていく。
「なんでシュテルフェアは竜を呼ばない…」
俺の呼びかけに従い、白き竜は出現した。
頭上を越え、シュテルフェア軍へと飛翔する。
その存在はあまりに巨大で、俺たちですら畏怖の念を抱くほどだった。
しかし驚いたことに、シュテルフェアは何もしなかった。
同じく竜を呼びだし対抗すると思われていたのに、目撃された黒竜は出てこない。
その結果が、これだ。
白竜スクラージはシュテルフェア軍に近づくと息吹を放射。散り散りに逃げだしていたシュテルフェア軍の兵士たちを焼き尽くした。
残ったものは何もない。
呆気にとられる展開に、近衛騎士たちですら困惑している。
状況だけ見れば勝利なんだろうが、初めて見る白竜への驚きと、敵の無抵抗という予想外に、俺達が歓声に沸くことはなかった。
見れば、白竜スクラージが再び息吹を放とうと口腔に魔力を収束している。
「もうやめろスクラージ! これ以上は必要ない!」
スクラージが攻撃の意思を示しているということは生き残りがいるということ。
もうシュテルフェア軍は壊滅している。しかも一方的な虐殺で。
さらに殺す意味なんてない。
俺の言葉を聞きいれてくれたのか、白竜スクラージは口から洩れる光を飛散させると、大きく羽ばたいて飛び去っていった。
「…………」
翼が風を切る音を聞きながら、ぼーっと広がる大地を見つめる。
大きく焼き払われた大地がはっきり分かる。
一瞬で、数百の命が消えてしまった。
竜が殺した。つまりは、俺が殺したのだ。
全然、現実味が湧かない。
自分で手を下していないせいなのか、死の痕跡が残っていないせいなのか。
案外こんなものなのかと、気の抜けた感さえある。
ざわざわと、軍が少しずつ騒がしくなりつつある。
後方にいた兵隊は何が起きたかはっきりしないはずなので、仕方がない。
竜が来て、俺たちは何もしないうちに竜が帰ったのだから。
「殿下」
先に冷静さを取り戻した近衛騎士が、指示を求めるように俺を呼んだ。
「あ、ああ…。これは、どうするべきなんだ」
「兵達に説明し、生存者の確認をして、すぐに首都へ戻りましょう。これが陽動作戦である可能性もございます」
援軍がないか警戒するため国境線に監視は置かれていたし、侵略軍の行動の監視も付いていた。別働隊がいる情報なんてきていない。
それでも、この結果に近衛騎士も警戒するほど、違和感があるようだった。
「シュテルフェアには竜がいなかったのか…」
「それはいくら考えても我々では判断できないことです」
ぼそりとこぼした俺に、近衛騎士は言う。
「ですが、殿下はこの国をお守りになったのです。それだけは誰もが分かっております」
言われてもそんな自負はない。
敵はいなくなったが、不安は払拭されず。
エストラーク久方ぶりの軍事作戦、シュテルフェア迎撃作戦は、ほんの数分で片が付いたのだった。