第4話 世界が変わる雨の日に
・・・
今日は朝から雨が降り続いていた。
降り始めは小雨だったが、時が経つにつれ雨は強さを増していった。
日が落ちても激しい雨足は変わらず、地面や窓にあたる雨音がうるさいくらい聞こえてくる。
時刻は夕食時。俺はユリーと食事をとっていた。
食卓の上にはユリーの手料理が並んでいる。
いつも通り会話をしながら料理を口に運び、ユリーと家族の時間を楽しむ。
雨の中の訓練が大変だったとか、そんな愚痴みたいなことを言いながら、俺が笑えば、ユリーも微笑んでくれる。
このまま食事が終われば、片付けをして、お茶を飲みながらもう少しユリーと一緒に居間で過ごす。
帰りに雨で制服がずぶ濡れになったので、帰宅後すぐに入浴は済ませてある。
自室で軽く本でも読んで、眠ってしまえばまた明日が始まる。
そうだ。
いつも通りになるはずだったんだ。
ユリーが、柔らかい笑顔を厳しい顔つきに変え、食事の手を止めるまでは…。
「どうした?」
急な雰囲気の変化に、俺も只事でないことを悟る。
気配を探るように玄関のある方向に顔をやり、集中している。
その顔は教官としての姿とも違った。
俺でも見たことがないもの。
怖いと、感じる表情。
「レン様」
声も、聞いたことがないほど冷めきっている。
俺の知らないユリーの姿に、驚きと戸惑いに思考が固まり、返事すらできなかった。
ユリーは俺の言葉を待たずに、スッと立ち上がると、椅子と机を壁際に寄せ始める。
この行為を見て、俺は事情を知った。
邪魔にならないよう俺も立ちあがり、自分の座っていた椅子を下げる。
残るのは床に敷いていた絨毯。その残った絨毯も、ユリーは乱暴にはぐってしまった。
そして、あらわになった床には横長の扉。ためらいなくユリーはそれを開けた。
ギィッと重い音を立てて、扉が開く。中は底の浅い収納になっている。
そこには2人分の服と靴、そして剣。
ユリーは剣を取り出すと1本を俺に投げて寄こした。
受け取った剣を抜き、状態を確認する。定期的な整備は怠っていないが、それなりに年季の入った代物だ。接敵するまでに不備がないか確認しなければならない。
確認したら服を着替える。俺もユリーも下着になることをためらわず、急いで私服から床下にあった服装に身を包んだ。靴もはき、これで戦闘になっても動きに支障はでない。
ユリーはすでに準備を終え、剣を抜き放ち警戒を強めている。
何かが、来る。しかも普通じゃないものが。
ユリーの振舞いが、それを物語っている。
異常事態に備えて、この家には各所に剣が隠されている。それを使うということは眼前に迫る何かが確実に存在するということだ。
静まり返る室内に、耳障りな雨音が響く。警戒するにしても雨の音が邪魔で外の様子が分からない。
「ユリー…一体何が起きているんだ」
小さな声で問いかける。変わらずユリーは睨めつけるような表情で1つの方向を見ている。
「分かりません。ですが確かに聞こえます。訓練された者たちの足音。鎧がすれ合う音。馬も、馬車もいます。それも識別できないほどの人数です」
「軍の人間、ということか。だけど、何かの任務で軍が近くにきた可能性も」
「それはありえません。この家に軍が近寄ることはないのです。近づく必要のない立地にそもそも建てられていますし、この周辺で事件が起きたとしても別の道がいくらでもあります」
そして、とユリーはこのときになってやっと俺の顔を見た。
「私には分かります。この軍勢は間違いなくここを目指している、と」
ユリーの判断は直感によるものだ。根拠はない。
それでも不思議と、ユリーの言い分は正しいように思えた。
ごくりと唾を飲み込む。
分からないことばかりで、上手く頭が回らない。
「レン様」
ユリーに呼ばれ、沈みかけていた思考が覚める。
「相手の意図は不明です。ですが、相手が軍だと確認された場合、まずは話を聞きます。賊の類でない以上、排除するわけにはいきません。ただし、警戒は怠らないようお願いします。剣も抜いたまま、十分な距離をとってください」
そこで初めて疑問を抱いた。ユリーの警戒が過剰な点に関してだ。
軍がここに来るなら普通じゃないのは間違いない。でも、ここまで敵意をむき出しにしなくてもいいように思える。
「なんで…そこまで警戒するんだ。相手は軍の可能性が高いんだろ。危害を加えられる心配はないはずだ」
一瞬だけユリーは黙り込み、力のない声で答えてくれた。
「…陛下が、まだ戻られておりません」
確かに、兄さんはまだ視察から戻っていない。近々、帰還する予定だと聞いている。
「陛下不在の状態で、レン様に接触を試みるのは異常です。陛下が帰還の途につきながらレン様に関する命令を出すはずがありません。これは陛下ではない誰かの指示で軍が動いていると考えるべきです」
「兄さんじゃない、だれか…」
「はい、そうです。軍と思われる勢力がレン様に近づいている。そして彼らを動かしているのはレン様の兄君ではない。普通でないことが重なっています。警戒は緩められません」
本当に何が起きているんだ。何が起ころうとしているんだ。
ユリーは静かに居間の扉を開けて、玄関へと向かった。俺も後を追う。
玄関に着くと、ユリーは口を閉ざしてしまった。
再び静まり返った家の中。
ほどなくして、やっと俺にもユリーの言っていた音が認識できた。
雨音に複数の音が混じっている。しかもかなりの速さで近づいているようで、どんどんはっきりと聞こえるようになってくる。
ザッザッと足音。
ガシャガシャと鎧の音。
ギィギィと馬車の車輪の音。
うるさかった雨音を飲み込むように音が肥大していく。
そして、そのときはやってくる。
ついに音が家の前で聞こえるようになり、ピタリと音が止む。
耳に届くのが雨音だけになって、先ほどまで聞こえていた様々な音が幻聴だったのではと感じてしまう。
「いきますよ、レン様」
ユリーは1言だけ言うと、玄関の扉をゆっくりと開いた。
雨音が、一層大きくなる。
扉の外で最初に目に入ったのは3つの人影。文官風の装いをした背の低い男と、その両脇に近衛騎士が1人ずつ。
玄関と家の前の通りをつなぐ狭い通路の中ほどに立ち、こちらを見ている。
彼らの奥、街路に目をやれば豪華な馬車が停車していて、それを近衛騎士が囲っている。この位置では見えないだけで、まだまだヒトはいるのだろう。
予想通り、相手は軍。敵ではない。
それでもユリーは俺を守るように前に出てから口火を切った。
「これは一体何事か!」
激しい雨でかき消されないほどの大声で問う。
文官の男は騎士を引き連れ数歩こちらに近寄ったかと思うと、スッと膝を地面に着き、頭を垂れた。2人の近衛騎士も膝を着いて敬礼している。
その行為の意味ですら理解できていないのに、彼らが口にしたのはもっと理解し難いものであった。
「レン・エストラーク王太子殿下」
久々に自分の本当の名を聞いた気がした。
「兄君、オルタ・エストラーク陛下が御逝去なされました」
「えっ…」
間の抜けた情けない声を出したのは俺だったのか、ユリーだったのか、2人ともだったのか、それすらも分からない。
あまりに現実味のないその言葉に、思考が完全に停止した。
一体目の前の男は何を言っているんだろうと、つまらない冗談を聞いたような感覚だった。
「現在、事態は切迫しておりますゆえ、急ぎ王城へと御同行願いたく存じます」
言いたいことは言ったのか、文官の男は黙りこんだ。
世界から音が消えた。雨の音すら消え去ってしまった。何も聞こえない。
どういうことだ。なんなんだ。どうしてだ。嘘だろ。ありえない。冗談だろ。これは夢だろ。もっと説明しろ。なにをさせる気だ。どうすればいいんだ。誰か教えてくれ。分からない。分からない。分からない。
身体が震える。汗が止まらない。呼吸が苦しい。剣を握っていられない。立っていられない。意識が飛びそうだ。
言葉を理解するにつれ、心と身体がぐちゃぐちゃになっていく。
ユリーが何か言っている。でも、それを聞きとることすら今の俺にはできない。
呆然と、無音で過ぎていく景色を眺めているだけ。
それからどんなやりとりがあったのだろうか…?
気がつくと、俺は馬車に揺られていた。
身体は雨のせいかずぶ濡れで、横に座るユリーが泣きそうな顔で俺の名を呼んでいる。
両手で俺の手を包み、必死に俺を呼んでいる。
やめてくれよユリー。そんな顔しないでくれ。そんな声を出さないでくれ。
それじゃほんとに、兄さんが死んだみたいじゃないか。
・・・
王城に入るのは久しぶりだ。
8つの時に離れたから、10年ぶりになるか。
帰って来た、と言うべきだろうけど、俺が知るのは王城の片隅だけ。
こうして通された待合室も見覚えがない場所だ。
さっきまでいた家の居間の2倍以上は広い。ふかふかの絨毯と装飾された卓と長椅子。壁には絵画が掛けられ、部屋の隅に置かれた小さな机には花が置かれている。
大きな窓には、相変わらず雨が打ちつける。
ここで1人、俺は待っていた。
王城に連れてこられると、すぐ浴場に入れられた。侍女らしき女の人が何人か一緒にきて、服を脱がされ、身体を洗われ、身体を拭かれ、服を着させられた。俺は全てされるがまま、勝手に風呂に入れてくれた。
正直自分で何かをするのも億劫だったので、恥ずかしいとかではなく助かったと思う。
肌触りのいい上質な服を着た俺は、また別の侍女服の女性に案内されてこの部屋までやってきた。
移動時は、近衛騎士が常に2人控えていた。今も、部屋の前で見張りをしている。
俺を案内した女性は「しばしお待ちください」とだけ言って退室。
何を待つのかも分からないが、取り合えず長椅子に腰かけ落ち着くことにする。
状況は飲み込めないものの、俺の頭は部屋の内装を見渡せるぐらいには回復していた。
背もたれに身体を預け天井を見上げると、魔術により発光する照明も綺麗な造りをしていることに気付いた。
また、現実から逃げている。
考えなければならないことがあるはずなのに、関係ないことを考えてしまう。
駄目だ、と強く目を閉じる。外部の情報を遮断して、集中する。
冷静に物事を考える大切さはユリーに教えられている。
状況をまとめようと思ってみて、知らされているのがたった1つの事実であることに気がついた。
兄さんが死んだ。
言葉にすればそれだけなのに、膨大な話を聞かされたようだった。
―『兄』。
―『死』。
ゆっくりと心に馴染ませていく。
まだこれから事情を聞かねばならない。言ってしまえばこれからが本番だ。
取り乱さないためにも、受け入れなければならい。
「―――」
「―――」
1人静かに心を落ち着けていると、扉の外から何やら話し声がしてきた。
迎えだと思い姿勢を正すと、控えめに扉が叩かれる。
ところが、開けられた扉から姿を現したのは侍女服の女性ではなかった。
「シルト?」
その人物は間違いなくシルト・フランメルのはずなのに、訊かずにはいられなかった。
それぐらい、彼女らしくなかった。
長い黒髪に、学校の制服、すらりと伸びた四肢は変わらない。
でも、シルトは顔を伏せたまま立ちつくしている。扉が閉じられても部屋の入り口そばから動こうとしない。
いつもの、騎士道を体現した格好いい彼女ではない。
強さが全く感じられない、弱弱しい姿。
「シルト?」
もう一度、名前を呼ぶ。それでも動かない。
心配になって長椅子から立ちあがり、彼女に駆け寄る。
近くまでくると、ほんの少ししか身長が変わらないはずのシルトが小さく感じた。
「おい、大丈夫か」
俺も大丈夫じゃないのに、心配してしまうほど様子がおかしかった。
呼びかけに反応しないので肩に手を置こうとしたとき、やっとシルトが動いた。
トンッと俺の胸に身体を預けてくる。
「レン…」
俺の肩口に顔を押し付け、シルトが言葉を発した。
呼ばれた俺の名前は、あまりに不安に揺れていた。
「レン…」
繰り返される名は助けを求めているようで、そっと身体を預けるシルトに腕をまわした。
「どうした、シルト」
驚くくらい優しい声が出た。
ぐっとさらに身体を密着させてシルトは話してくれた。
「父上が…死んだ…」
シルトは続ける。
「…強かった、んだ。私、よりも…。騎馬の腕も、すごかった…知識にだって驚かされていた…。憧れで、自慢の、父上だったんだっ! 父上を見送ったあの日も、いつもの笑顔で私を見つけてくれたっ!」
たどたどしかった言葉に、荒々しいものが宿る。
「なんでだ! なぜ父上がっ、死なねばならないんだ!」
荒げる声は、震えていた。
泣いている。あの勇ましいシルトが、感情を爆発させて泣いている。
シルトは数年前に母親を亡くしていて、父親が唯一の家族だ。
その大切な人が死んでしまった。
俺と同じだ。
ただ1人の家族がいなくなった。
悲しみや苦しみは痛いほど分かる。
彼女は俺と同じなんだ。
でも、俺にはユリーがいた。寄り添い、名前を呼んでくれる人がいた。
そんな人がシルトにはいない。確か家には使用人が何人もいたけど、その中に弱さを見せられる相手はいないだろう。
シルトの父が亡くなったのなら、フランメル家の当主はシルトなのだから。
抱き寄せる腕の力を強める。
少しでも彼女を安心させられるよう、ただただ抱きしめ続けた。
・・・
落ち着きを取り戻したシルトと並んで、同じ長椅子に座る。
いくつか質問をぶつけたが、シルトも多くは知らなかった。
突然屋敷に近衛騎士が来て、父親の死を伝えたらしい。話を聞くためとりあえず身なりを整え王城に出向き、そこで俺もいることを知ってここまで来たとシルトは語った。
「すまなかったな、取り乱して」
「いや、シルトに会って俺も安心できたから」
互いに正面を向いたまま言葉を交わす。なんとなく顔を合わして話す気分ではない。
ただ傍にいて、自分が1人ではないと感じられるだけで良い。ポツポツと言葉を吐き出していく。
再び扉がトントンと打たれたのは、会話が途切れ、沈黙が訪れたころだった。
入室してきたのは先ほど俺をここに案内した女性。室内に俺以外の人物がいることに多少驚いた様子だったが、彼女がシルト・フランメルだと分かると、2人で一緒に来るように言った。
廊下は思ったほど豪華な造りではなく、必要最小限の照明と、暖色の絨毯が続く節度あるもの。
先頭を歩く女性の後ろを俺とシルトが行き、俺達の後ろには2人の近衛騎士が付いてきている。
進むにつれて廊下に立つ警備担当の騎士が増えていく。
王城の中を随分と歩いて到着したのは大きな鉄扉の前。
鉄扉には意匠をこらした装飾。中心に翼をたたむ竜が座り込み、その周りを小さな7匹の竜が飛び囲んでいる風景が、銀で表現されている。
「竜盤院…」
横でシルトが呟いた。
竜盤院。
有力貴族7人で構成される王の相談役的な組織。
貴族として助言や援助を行う彼らは、王の側近でもあり貴族として特別な位置づけだという。
ここがそうなのか、とシルトに確かめる暇もなく、女性は扉を叩く。
すると、両開きの扉がひとりでに開き始める。扉を開けていたのは部屋の中にいた見慣れない甲冑を着けた騎士だった。
さらに部屋の奥には円卓。そこに鎮座する7人の人物。
正体の分からない恐怖に心臓が騒ぎだした。
鉄扉が開くと女性は横に身体をずらし、黙ったまま頭を下げる。
ここからは俺達だけで、ということか。
シルトと視線を合わせてから部屋の中へと進む。後ろの近衛騎士も付いてはこなかった。
鉄扉の奥は薄暗い空間だ。
室内に足を踏み入れるとすぐに、鉄扉が閉められ、より部屋が暗くなった。
部屋の中央に円卓があり7人の男女が着席している。円卓にはまだ1人分の空席があった。
部屋の壁際にはやはり見覚えのない甲冑姿の騎士が並んでいる。頭と身体、全身を包む赤黒い甲冑騎士は不気味に思えた。
「殿下、お座りください」
立ちつくす俺達に声がかけられる。声の主は扉から1番離れた椅子に座る、白髪の老人だった。
言われるまま、入口に1番近い位置にある空席に腰かける。シルトは俺の後ろで直立の姿勢をとった。
「それでは始めるとしよう」
俺の正面で、白髪を蓄えた老人が言う。しかし、それに待ったを掛けるものがいた。
「ちょっと待て。なぜフランメルの娘までいるんだ」
白髪の老人の右側に着席していた神経質そうな男が口を挟む。
「かまわんだろう。どの道話すことになる。それにその子は事情を知っている人間だ。ここにいても問題はない」
答えたのは白髪の老人の左側に座る厳つい顔つきの男。見たことがある。確か軍の総司令官、ナスティ・グランレイ侯爵だ。
「フランメルの娘には近衛騎士あたりに説明させろ。これからするのは国の将来を左右する話なんだぞ」
「そんなのどうでもいいじゃない。さっさとすすめてよ」
なお食い下がる神経質男の言い分を、神経質男の隣りに座る妖艶な女性が切り捨てた。
「俺も賛成だ。さっさと話を進めちまおう」
妖艶な女性の向かいに座る、遊び人風の若男が賛同する。
完全に取り残されている俺達。
話の原因になっているシルトをうかがえば、困惑の表情を浮かべている。
文句を言うのが自分だけと分かると、神経質男は黙りこんだ。
「では、いいかな」
白髪の老人が改めて切り出す。
「レン・エストラーク殿下。お聞きになっているとは思いますが、兄君、オルタ・エストラーク様がお亡くなりになりました」
その言葉は事務連絡のように坦々としていた。
「つきましては殿下に王位を継承していただき、オルタ様を暴殺した愚か者たちに天誅を下していただきたい」
「は?」
あっさりととんでもないこと言っている自覚が、あの老人にはあるのだろうか。
「まっ、待ってく…ださい」
どういう言葉遣いにすべきかも分からないのに、結論だけで済まそうとしないでくれ。
「突然王位を継承しろなんて…それに天誅ってどういうことですか」
「貴殿は王位継承権第2位の王子なのですよ。兄君がなくなれば王位に就くのは当然ではないですか」
問いに答えたのは神経質男だった。
「王子様が仰ってるのはオルタ陛下が亡くなった原因でしょ。察しが悪い男ね」
妖艶な女性が言い、遊び人風の若者が声を殺して笑っている。
兄が死んだというのに、ここに集う人間はあまりに飄々(ひょうひょう)としていて気分が悪い。
「公爵、続きは私が」
厳つい顔の男、ナスティ・グランレイ侯爵が白髪の老人に伺いを立てた。どうやら正面の人物は公爵位を持つらしい。
公爵である白髪の老人は、静かに頷くと、グランレイ侯爵は語りだした。
「では、起こった事実を話させていただく」
聞く姿勢に力が入る。
「数日前、夜遅く。数人の騎士が城へと駆け込んでまいりました。彼らはオルタ陛下の視察に同行した護衛の騎士たち。甚く取り乱していたので何かあったのかと、私が聴取しましたところ、彼らは開口一番こう言い放ちました。みんな死んでしまった、と」
「みんな…死んだ?」
「はい、皆死んだと繰り返すばかりで、要領を得ない。事情を聴けたのは夜が明けた頃でした」
一呼吸置いて、話は続いた。
「オルタ陛下を含む視察団はアンラスへの帰還途中、襲撃を受け壊滅したそうです」
えっ…と言葉が上手く飲み込めない。
「襲撃で、壊滅って…そんなのあり得ないだろ! 一体どれだけ護衛がいたと思ってる!」
声を荒げて疑問をぶつける。
王が遠征するのだ。護衛は十二分に用意される。兄さんを見送ったあの日も、騎士、近衛騎士が大勢目の前を歩いていった。
警戒だってしていただろう。たとえ対処しきれない軍勢に襲われても、兄さんを逃がすことぐらいできるはずだ。
王である俺の兄と、近衛騎士団長のシルトの父。2人が亡くなったと知り、大きな事故や天災だと思っていた。それがまさか人為的な襲撃によるものなんて…到底信じられないことだった。
「竜です」
グランレイ侯爵は繰り返した。
「竜に、襲撃されたそうです」
いよいよ、頭がはじけ飛びそうだ。
「りゅ、う?」
竜。
魔獣の頂点に立つとされる伝説の生き物。
人がどれだけ集まろうと、決して敵うことのない最強種。
エストラークに住むものにとっては特別な意味をもつもの。
その竜に、兄は、殺された。
考えもつかない現実に混乱する。後ろに立つシルトからも動揺が伝わってくる。
「生還した騎士たちの説明では、突如、北の空から巨大な黒竜が飛来し、つんざくばかりの声で鳴くと、口腔から灼熱の息吹を放ったそうです。逃げる間もなく、視察団は息吹に飲み込まれていき、あとには何も残らなかったと。助かったのは視察団から離れた位置で警戒の任に当たっていた者のみです」
「…訊いても…いいでしょうか…」
頭を抱えて、なんとか訊き返す。
「その竜は一体どこから来たんですか」
「分かっておりません」
「そもそも竜の襲撃は人為的なものなのですか」
「分かっておりません」
何も分かってないじゃないか。偉そうにして。
いや、襲撃した竜のことより気にかかることがある。
「何で兄さんは、竜を呼ばなかったんですか」
そうだ。エストラークは竜に守護される国なのだ。
かつてただの小国でしかなかったエストラークは大国の侵攻に合い、滅びの道を歩んでいた。そのとき、当時の若き王がドナール山に棲むと伝説された竜に助けを求めた。
与太話に縋る王、無謀な王と揶揄された若き王は、満身創痍で城に戻り一振り長剣を掲げ、竜と契約したと謳った。
疑念を抱く家臣をおいて王はそのままの身体で戦場に出向き、長剣を天にかざして竜を呼び寄せ、敵国を撃退してみせた。
以後、エストラークに攻め入る国はなく、小国ながら大国と共存を続けている。
もう二百年近く前の出来事だが、史実として語り継がれ、長剣も代々王が継承している。
「見送りのとき、兄を見ました。腰には竜剣スクラージがあったはずです」
竜剣さえあれば竜を呼べる。竜を呼べば竜も撃退できたかもしれない。
「無理を言うな」
神経質男が割り込んできた。
「視察団はドナール山からかなり離れた場所で襲撃された。竜を呼んだところで間に合わんよ。それに―」
呆れ顔で、神経質男は続ける。
「どのみち竜は呼べんさ。先王は竜剣なんて持っていなかったのだからな」
「そんな…。確かに腰に長剣を差してました」
「ありゃあニセモンだよ。それっぽく造った目立つだけの長い剣」
今度は遊び人風の若い男だ。声質が明るいせいか、はしゃいだような響きが俺をイラつかせる。
「陛下は平和主義でさ、他国を威圧するのを嫌ったんだ。力の象徴である竜剣を持ちだすことにも否定的だった。あっ! もちろん俺たちは御諫めしたんだぜ。ちゃんと持って行ってくださいってさ」
聞いてくれなかったけど、と言って遊び人男は話を止めた。
「ですが、オルタ様の判断には感謝せねばなりません」
しばらく静かだった白髪の公爵が、またしても意味の分からないことを言いだした。
「どういう意味だ。兄さんは死んでるんだぞ」
「はい。しかし、竜剣は無事です。もしオルタ様が持ちだしていたら竜の襲撃で紛失していたかもしれません。いくら竜から賜った剣だとしても、竜の息吹に耐えられるとは限りませんから」
竜剣とは竜との契約の証。無くせば終わりなのは分かる。でも彼らの言い方はいろいろ引っかかる。
疑問を投げかけるごとに疑問が生まれて、整理が追いつかない。
俺が口を閉じ、会話に空白が生まれたとき、それまで黙っていたシルトが声を上げた。
「私からもよろしいでしょうか」
遠慮がちに訊くシルトに再度神経質男が噛みつく。
「部外者は黙っていろ。これは殿下と我々の話し合いだ」
「あーほんとにちっさい男ね。いいじゃない彼女にも参加してもらえば。さぁ、お嬢さん。なにかしら」
妖艶な女性は神経質男とは馬が合わないようだ。
了解を得たシルトは意を決して質問した。
「話の冒頭、陛下を暴殺した愚か者どもに天誅をと仰られていましたが、先ほど竜が現れた原因や、どこから来たのかも分からないとも説明されました。竜の襲撃が故意か事故かも不明な中で、天誅を下す相手とは?」
「なるほどー。お嬢さんは王子様よりは冷静みたいね」
シルトの言葉を聞き、はじめてそのあたりの食い違いに気付いた。
「現在、エストラークは他国からの侵略を受けています」
硬い口調でグランレイ侯爵が答える。
「北部国境の基地は落とされ、シュテルフェアの軍勢が南下を始めているのです」
事態は想定をはるかに超えて深刻だった。
・・・
それからグランレイ侯爵が切迫する事態を語った。
視察団の壊滅を受け、王城から確認のため早馬が出された。
早馬が戻るのに数日は要する。その間に城の者たちは準備を進めるはずだった。
ところが、早馬が出た翌日、1人の女騎士が城に駆け込んできた。
その女騎士は北部国境基地から遣わされた伝令役だった。
彼女は語った。竜が基地を襲い、瞬く間に破壊したと。
逃げ延びた軍人たちは近くの基地へ避難。状況把握のため数名が監視に残った。
竜は基地を壊すだけ壊すとどこかへ飛んで行った。逃げる人々を追いかけなかったのは幸いだ。
監視を続けていると国境線にシュテルフェアの軍が現れ、進軍を開始した。
破壊された基地を超え、堂々と我が領地を侵しはじめた。
異常事態を知らせるため、監視役の中で最も騎馬の腕が立つ女騎士が城へと急行。
不眠不休で馬を駆けた彼女の言葉に、城は騒然とすることとなる。
熟考している暇すら、我々には与えられてはいなかったのだ。
「以上が、現在、この国で起こっていることです」
長い語りを終え、グランレイ侯爵は俺をじっと見つめる。
お前に理解できたか、と試すような目つきだった。
「皆さんは、シュテルフェアが竜と契約し兄を殺したとお考えなのですか」
「断言はできません。ですが、話を聞けばその可能性は高いと殿下も思われるでしょう」
状況だけ見れば、そうとしか思えない。兄の死と、国境基地の破壊、他国の侵攻が無関係と考えるのは無理だ。
「殿下、申し訳ありません。できれば御時間を取って考えを整理していただきたいのですが、すぐに決断をお願いすることになります」
グランレイ侯爵は前置きだけして、横に座る白髪の公爵の言葉を待った。
「殿下、もう一度申し上げます。王位を継承し、侵略者どもに天誅を加えてください」
説明を聞いたのに、言葉の意味が理解できない。
戸惑う俺を見兼ねて公爵は言葉を重ねる。
「よろしいですかな殿下。シュテルフェアの連中はオルタ様を殺害し、恐れなくここを目指しているでしょう。オルタ様亡き今、竜剣を使えるものはおりませんから」
竜剣は契約を結んだ王の血を引く王族しか扱えないことは広く知られている。
「やつらはもう我々に竜の力は使えないと思っている。なぜならあなたの存在を知らないからです」
かつて俺が存在を隠された理由は、竜剣を使える王族の血筋を守るためだった。
竜と契約して以降、王族の子は1人ずつしか生まれていない。これは竜の呪いなんて言われているけど、そんななか異例な俺は2人目として生まれた。
せっかく2人目が生まれたから、『もしも』に備えて、俺は平民になり身を隠してきた。
よもや、その『もしも』が起きるとは。
「殿下」
ひときわ声を大にして公爵は言う。
「シュテルフェアは我々が竜に怯え何もできないと驕り高ぶっております。そんな愚か者どもに今度はこちらが見せつけてやりましょう」
それは演説を聞いているようだった。
「王となり、竜とともに戦場に立ってください。シュテルフェアの軍勢を駆逐するのです」
竜盤院は戦争を始めようとしている。
違うな。戦争を始めるのは俺か。俺が王となり開戦の狼煙を上げる。
「殿下、やらねばこの国は滅びます」
公爵の言葉は、最後まで空虚に耳に届いた。