part9
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凛子と話した翌日、雫が会社でファイリングの作業をしていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると柳が照れくさそうに笑って立っていた。
「よ。少し話できるか?」
柳の手元には黒いビジネス用のキャリーバッグ。そうか。今日本社に戻るのか。
雫はにっこり笑った。
「もちろん」
「凛子とやりあったみたいだな」
喫茶スペースで、二人は缶コーヒーを飲みながら、窓の外の景色を眺めていた。雪が降りそうな、灰色の雲が重たそうに空を漂っている。
「怒りながら、泣いて電話してきた」
「ふふ」
雫は静かに、そっと笑った。柳はそんな雫を見つめていた。
「雫」
「バカだなって自分でわかってるの」
雫は柳を見上げた。端正な顔。眉間に皺が寄っている。柳は優しい人だ。こんなにも自分を心配してくれている。雫は柳の視線を避けるために、目を伏せ、再び窓の外を見る。
「いつから海外に?」
「すぐじゃない。早くても半年先だよ」
「そう。会えなくなるね」
はらりと目の前を何かが横切る。見上げるとやはり雪が降ってきた。
「積もるかしら。早く行かないと新幹線止まらない?」
「雫。俺はお前が好きだよ」
唐突な言葉に、雫は思わず柳を見た。
「え?」
「お前の気持ち、わかる気がするんだよ。俺さ、高校生の時にすごく好きになった人がいた。その人は…ドラッグにハマってた。やめたいと思っててもやめられない。自己嫌悪に陥ってその気分を晴らすためにまたドラッグやっての繰り返し。周りにはそんな女やめろって言われた。お前までハマったらどうするって。けど、その人は俺には絶対勧めなかった。そして俺は、その人にクスリをやめろって言わなかったんだ」
「…なぜ?」
「…人はさ、悪いことは悪いことだってわかってるんだよ。わかっててもやめられない。自分自身でわかっててもやめられないことを他人が言ってもやめられないと思うんだ。きっかけにはなるかもしれない。だけど、結局最後に決断するのは自分自身なんだ。だから、自分が決めなきゃやめられないと思うんだよ」
「…その大好きだった彼女はどうしたの?」
「最終的に自分で警察に電話して、捕まったよ。何度か会いに行った。ほっとしたって言ってた。禁断症状が出たりすることもあるけど、自分で決めたことだから頑張れるって。最後に会った時に別れようって。すごく感謝されたよ。俺が何も言わなかったのが不思議で仕方なかったけど、今はよくわかるって。俺がいたから決断できたって。だからこそ素敵な人と恋愛してほしいってさ。でも俺は好きだった。彼女にハマってたから、自分で踏ん切りつけられるまでは、好きでいようって。結局踏ん切りついたのは受験前だ」
灰色の雲は、絞り出すように雪を降らし続ける。
「クスリをやめてほしいと思ってたよ。でも言わないと決めた。人は自分で決断して行くことで強くなれるって俺は思う。だから、俺はお前にやめてほしいと思ってても言わない。理由はさっき言った通りだ。やめ時を決めるのはお前自身なんだ。そして、それは俺も同じなんだ」
柳は缶コーヒーを一気に飲み干し、ゴミ箱に捨てる。そして、雫をまっすぐに見つめた。
「俺はお前が好きだ。お前がやめとけって言っても無理だ。決めるのは俺自身だ。だから俺は待つ」
「柳君…」
「待つのは嫌いじゃない」
柳はそう言うと、ぷいっとそっぽを向いた。さっきまで青白かった頬が朱色に染まっているのが見えた。
雫は自分の手の内にある冷えた缶コーヒーの口を見つめた。やがて視界がぼやけて、耐えかねたように大きな雫が一粒、缶コーヒーの口の中に落ちた。
自分の中にある、哀しい色をした濃い青い塊が溶け出していくような気がした。それは止めどなく溢れ、塊がどんどん薄くなって、流す涙の色が濃すぎる程の青から、水色になっていく。
柳はそっとハンカチを差し出した。雫は黙って缶コーヒーをテーブルの上に置くと、それを受け取り、目元を押さえた。涙は次々に零れるが、流れれば流れる程、雫は自分の心が澄み切っていくのを感じた。外も、喫茶スペースの中も冷えているのに、温かなものが雫を包んでいて、優しい気持ちが雫を満たした。
柳は空を見上げた。
「雫。ほら、晴れ間が出てきた」
雫も空を見上げる。雪が降る、灰色の雲に裂け目ができて、光がさしていた。