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みずいろ  作者: peony
6/10

part6

---6



スマホのディスプレイに浮かぶ水田の文字を見て、雫の鼓動が大きく鳴った。そのまま心臓が食道を通って逆流し、口から出てきそうな感覚に襲われた。

「雫?」

柳の声で雫は我に返った。

「…ごめん、柳君。用事があるからもう帰らなくちゃ」

雫はそっと柳の手を剥がす。

「ごめんね。また」

雫は何か言おうとした柳の顔から目を逸らし、バッグをひったくるようにして外に出ていった。


外は雨が降っていた。冬の雨は氷のように冷たい。周りは忘年会シーズンということもあって酔客が溢れ、学生も多く見える。雫はいつも鞄に忍ばせている折りたたみ傘をさすのも億劫になり、そのまま雨の中を駆け出した。

さっきから何度か携帯のバイブが鳴っているのがわかる。水田と約束の時間などない。放っておけば帰るだろう。なのになぜ私は走るのだろう。

雫はぴたりと足を止めた。大雨の中、傘もささずに立ち止まる雫を、周囲は好奇の目を寄せながら見ている。ふと、そう言えば明日の朝食のパンがないな、ということに気付き、雫はとぼとぼと歩きながら近くのコンビニに入った。パンを2、3個と1Lの牛乳を買い、レジに置くと、大学生のアルバイトらしき女の子が、露骨に不審者を見るような目で雫を見た。確かにひどい格好だった。ベージュのパンプスは泥まみれだし、コートも水が滴り落ちている。髪もべちゃべちゃで幽霊みたいだろう。しかし雫はべたべたのバッグから財布を取り出し、お金を払った。

コンビニを出てからも、雫は傘をささずに歩き続けた。柳の言葉を思い返す。その度に温かな感情が雫の心を満たした。

柳に憧れていた時期があった。けれど柳はきっと凛子が好きなんだろうと思っていたし、何よりあの関係が楽しくて、深く考えようとも思わなかった。まさか柳がずっと自分を思っていてくれたなんて。

目の前に自分の住むアパートが見えてきた時、雫はハッとした。恐る恐る顔をあげる。3階建ての4戸アパート。雨の中、薄暗い蛍光灯がドアを映し出している。3階の1番右奥が雫の部屋だ。いつも水田が来るとき、水田は部屋に雫がいないと廊下でタバコを吸いながら外の風景を眺めていた。サラサラとした黒髪が夕日に照らされて、風になびき、タバコの煙がその風に乗って消えていくのを、雫はいつも下から眺めていた。

そしていつも思った。

この人は何てきれいなんだろう。雫は涙を零した。この人の心は手に入れられない。私の手の届かないところにある。手に入らないものを嘆き悲しむくらいなら、いっそ選ばれずに傍にいることを私自身が選べばいいじゃないかと。そう決めたのだ。

雫は誰も立っていない、自分の部屋の前を見つめていた。濡れた前髪が唇を濡らし、口の中に染み込んでいく。柳は、不安にさせたりしないと言った。心を必要とされていることが、雫の琴線に強く触れた。割り切っていると思っていた。けれども柳の一言で、自分はこんなに温かな気持ちになり、そして動揺している。

雫はアパートに向かって歩き出した。重たいガラス戸を開け、前髪を掻きあげる。コンビニの袋に溜まった水を捨て、エレベーターに乗り込んだ。

チンッという音と共にエレベーターが開き、雫はそっと自分の部屋のドアの前を見た。やはり水田はいない。ホッとしたのか、がっかりしたのかわからない感情が雫を襲う。急激に体の冷えを感じ、ブルっと震えた。両手で自分の体を抱え込むようにして、雫は小走りに自分の部屋に向かった。バッグから鍵を取り出し、震える手で鍵穴に差し込む。

がちゃりと重たい音がドアの奥で鳴る。鍵を抜き、ドアノブに手をかけて開けた瞬間、強い力で部屋の中に突き飛ばされた。

よろめいて玄関の段差につまづき、雫は倒れた。驚いて振り返った瞬間、誰かが入ってきてドアの鍵が締まる音がした。雫は恐怖で背中が粟立ち、声を出そうとしたが、見覚えのあるネクタイが目に入った。

徐々に暗い玄関に目が慣れていく。雫がネクタイから視線を上に移す。

「…水田さん…」

そこには相変わらず妖しい笑みを湛えた水田が立っていた。


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