part3
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平日で、しかも終電間近だというのに、各駅停車の電車内は人が溢れている。雫はドアの前に立ちながら、凛子の言葉を思い出していた。
「あの人に関われば、辛い思いをするのは雫なのよ」
そう言って、凛子はビールを一気に飲み干す。雫はグラスに浮かぶレモンを見つめていた。指先が冷たくなってくるのがわかる。
「あの人にとって、女が去ろうが去るまいが関係ないのよ。痛くも痒くもないのよ。好きになったって虚しいだけなのよ」
凛子は美しい顔を歪ませながら、吐き捨てるように言った。
凛子はまだ、水田の毒から抜け出せていない。きっと今でも思い出すのだろう。水田の声、指、舌、唇、香り、吐息…思い出しては欲情し、そんな自分に嫌悪する。
人は、甘美な時間や出来事を忘れようと努力している期間が最も苦痛なのだろう。ぱっくりと裂けた傷から絶えず血を流していて、忘れたい出来事ほど何度も思い返しては、また血を流す。頭が狂いそうになるほど、心の中では発狂していて、壊れるのではないかと自分に問う。この期間は自分との戦いだ。負ければ堕ちていく。勝てばおそらく新たな一歩を踏み出せる。凛子はまさに今戦っている最中なのだ。
「愛してるって言ったわ。あたしも愛してるって何度も。けれど彼にとっては呼吸しているのと変わらない。特別な意味なんて何もない」
凛子は雫を見た。その目には憐れむような光と、まだ毒から抜けきれない、とろりとした光が宿っていた。
「絶対に後悔するわ。だから、やめておきなさい」
水田の気持ちを独占したいと思ったことなど一度もない、と言えば全くの嘘になる。
水田は優しい。いつでも笑みを絶やさず、優しく触れ、時に激しく雫を愛撫する。
涙を流したことも何度もあった。もううんざりだと、水田に別れを告げたこともある。しかしその度水田は甘い言葉で雫を引き止め、抱き寄せる。
私は演技をしているのだ、と雫は静かにそう思う。頭が悪い、都合のいい女を演じてあげているのだ。水田は気付いているのか、気付かないふりをしているのか、全く気付いていないのか、雫にはわからなかった。けれども、この演技をやめてしまえば、自分の中にある大事な柱が折れてしまうだろう。雫は一人暮らしの部屋で静かに涙を零した。流れ落ちる涙は心の奥の深い悲しみを吸い上げて、深い深いブルーの色をしている。いつかこの色が薄くなる日がくるのだろうか。そう思いながら雫はまた涙を零す。
営業部の事務の女の子の次は、IT部の女の子が彼女になった。水田が申告するわけではない。女の子から自慢をしてくるのだ。それが回りに回って雫の耳に入る。
周りも、雫自身も、水田の彼女やその他の女達が入れ代わり立ち代わりしていることに麻痺していた。ただ淡々と日々が過ぎていく。水田と関係を持ち始めて一年近くが経とうとしていた。